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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田政信さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

2003.5.21(No94)

     弥生文化とは

 稲作農耕・鉄器・青銅器の使用が始まって弥生式土器が使用され、古墳が出現するまでの文化。大陸の文化と共通するものが多く、当初から進んだ農耕技術を有していることから、朝鮮からの渡来集団によって開始されたと考えられる。
Q:昨日(5/20)読売新聞に「弥生時代500年早まる」という記事が掲載されたが。

:興味深く読んだ。弥生時代の始まりがこれまでの定説を約500年さかのぼり、紀元前10世紀頃になる可能性が高まったとする研究成果を国立歴史民俗博物館が発表した。
:どのような方法で測定したのですか
:北部九州で出土した弥生時代早期から前期にかけての土器などの
 
調査に使われた土器群
調査に使われた土器群=5月19日、福岡市城南区の市埋蔵文化財課城南整理室で

土器に付着した炭化物
土器に付着した炭化物を試料として採取した=5月19日、福岡市城南区の市埋蔵文化財課城南整理室で
asahi.com ニュース特集より
年代を、放射線炭素(C14)年代で測定した結果です。
:放射線炭素(C14)年代測定法とは
A:生物に含まれる炭素の放射性同位体(C14)が、死後、一定の速度で窒素に変化していく性質を利用した年代測定法。
:水田耕作の開始も約500年さかのぼることになりますね。
:そうなれば日本の古代史を根底から履しかねないことになる。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代に至るまでの年代観を再検討していかねばなりません。
:これまで弥生時代は、紀元前5−4世紀ごろ、中国の戦国時代の混乱に伴って、大陸や朝鮮半島から多数の渡来人が稲作技術を携えて日本列島に渡って始まったと説明されてきたが。今後は?
:今回の成果から「弥生時代の始まりを考えるには、殷(商)が滅亡して、西周が成立するころ(紀元前1027頃)の時代背景を検討しなければならなくなった。」と同博物館の春成秀爾教授。さらに、クニの成立に至る弥生文化の展開が、これまでの常識よりは時間をかけて進んだと指摘された。
:ただ近年、考古学が定説としてきた年代と年輪年代や放射線炭素(C14)年代による年代に食い違いはないのか?
:例えば、これまで約13000年ほ12000年前頃と言われてきた縄文時代の始まりが、C14年代では約16500年前とされたり、3世紀中頃と見られてきた古墳の出現年代が、年輪年代で西暦200年頃という数字が得られている。
 
このままでは、歴史科学の基本である年代があいまいなまま、研究が進められるという事態になる。旧石器ねつ造事件の教訓もあることから、明治大の大塚初重名誉教授は「今回の発表を機会に、考古学と自然科学による年代を整合させるための議論を深めるべきだ」と訴えておられます。
人と人との交流は稲作技術を始め数々の文物の交流でもある。が、よいことずくめとはいかない。今、大阪・京都にもSARS(重症急性呼吸器症候群)が吹き荒れている。長い歴史を経て人類は数々病原菌を克服してきた。が、今、現在の渡来人(台湾医師)に手を焼いている。


2003.5.19(No93)

      市指定文化財の一般公開


 文化財事業団は、市内の文化遺産を広く市民に知っていただくため、一般公開が行われています。(毎年春・秋2回公開、5月・11月第3日曜に一般公開されている。)
今回、私は廃千手寺を担当し、見学に訪れる方々に説明をさせていただきました。手持ち資料の中からまとめて見ました。
Q:千手寺とは
A:郷土史カルタにもあるように「千手寺は亀山上皇 行在所」
Q:亀山上皇との係わりは
A:90代天皇(1260−1274)で紀伊熊野神社参詣滞在されたとき、 
  体の不調を訴えられました。ちょうど熊野三社の高官であった叔父
  静仁法親王の進めで、河内国交野郡獅子窟寺の薬師如来に平癒
  の祈願をするため、この地(院田)を訪れ行宮をお作りになりました。
Q:何故この地を院田というのですか?
  薬師如来に平癒された上皇は、その後病気はよくなり、大変お喜び
  になって、ここに観音寺をお建てになりました。
  この寺の維持のため、田をお与えになったので、亀山(院)の(田)
  院田(いんでん)という地名が残った。
  堂内仏に如意輪観音坐像(室町)・聖観音立像(平安後期)が市指定千手寺の如意輪観音坐像
  文化財として登録されています。
Q:関連資料等からわかることは
A:@観音寺のこと「天野山金剛寺蔵」に
  交野郡 観音寺 星田寺 神福寺
  康和四年(1102)十二月一日  河州国交野郡観音寺伝法巳了
  A獅子窟寺のこと
  42代・文武天皇(697−708)のころ役小角が河内金剛山からこの
  岩窟に現れ、薬師浄土を開いたのがこの寺の始まり。
  ついで、聖武天皇(724−749)のころに勅願によって僧行基が
  堂塔伽藍を建立。
  さらに、平安初期には弘法大師が獅子窟寺で修法された。
  B薬師如来坐像
  昭和43年3月に国宝に指定された。
  平安初期・弘仁期(810−823)の作。
Q:その他関連遺跡等は
A:「王の墓」と呼ばれる、亀山院とその皇后の供養塔があります。
  また、獅子窟寺の石段を造り、伽藍の修復をされた。
 
  今回公開された文化財は
☆十一面観音立像(星田・星田寺)
☆薬師如来立像・千体仏(星田・薬師寺)
☆聖観音立像・如意輪観音坐像(私市・千手寺)


2003.5.14(No92)

     「朗読アイ」の皆さんと竜王山を訪ねて

 視覚障害者の皆様にマガジンテープを発行されている「朗読アイ」のメンバーの方と郷土史かるたの舞台を案内させていただきました。古文化同好会より中角・村田・平田が案内役を務めました。
交野ドームに集合した本日のスタッフは全部で8名。
 
 午前10時交野ドーム出発→今井に旧寺村「てるは村」があったことを証明するのは巽山(東南)があった。現在の寺村からでは東南にならず西か南西に当たる。→大畑古墳の周囲を回る→中町と上町に水車があった(軒先で休憩しておられたおばさんにお話しを聞くことが出来た、嫁に来た頃夜になると水車の回る音が怖かった。米を撞いていた)→辻の燈篭(明治18年にホラ、山津波が起こった。その時、住吉神社から流されてきた)→上町から→棚田に入るが田植えはまだ→寺・住吉神社→かいがけの道→伏拝みの辻(阿弥陀様、昭和57年7月13日土の中より出てこられた)→かいがけ広場で昼食(山桃の古木・かいがけ地蔵・不動明王の話しに沸く)→いよいよ竜王山へ→鳥居の前の標石に「従是嬰児山龍王社三丁」と刻まれている。嬰児山の山号に悲しいイメージが→ぼちぼちいこや!→急な、いや険しい山道を上り詰め山頂へ、参加者全員、若い!

ここでカルタ札
その1 「竜王山は 雨の神」竜王山頂上の竜王石
標高318bの竜王山の頂上には竜王をまってあり、古くから村人が雨乞いをする習慣がありました。
淳和天皇の天長二年(825)干魃で稲が枯れた。この苦しみが天上に達し、弘法大師に雨を祈らせたのが山頂の「龍王石」です。 
龍王山の山頂で行った「雨乞い」は村中不参なしといって、各家から必ず一名は参加した。村人たちは、かいがけ道を太鼓をたたきながら龍王山頂へと登っていった。山頂に着くと火を焚き、全員で「雨たんぼ、じょおいの、雨たんぼ、じょおいの」と大声で唱えながら、雨乞い石のまわりを回った。
 
その2 「雷神が 小便かけた いばり石」
竜王山の山頂に、いばり石という大石があり、その石に穴があいています。雷神が小便をかけたので岩に穴があいたのだといわれています。どう思いますか?ホラ吹くなでっか?
また、弁慶の馬がつけた蹄の跡があるという「弁慶岩」があります。
 
米のでき、ふできが一年の生活を大きく変えることになる。このため、田に水が必要なときに何日も日照りが続くと、村人たちは必死で神仏に祈り「雨乞い」をしたのでしょう。雨乞いの儀式は、日本各地に伝わっており、交野でも、火を焚き、鐘や太鼓をたたきながら大声で歌を唄い雨乞いをしたことが何度かあったようだ。
交野三山とは、交野山344b(神の座ます山)・旗振山345b(米相場を手旗信号で行った場所)・竜王山318b(雨の神・水の神)をいう。雨乞いにまつわる話しから「いばり石」「弁慶石」そして明治18年のホラが吹くまえまでは、竜王山が交野山より高かったという話し、当時の人は想像豊かというか、ホラ吹きというか?(笑)
これからも、このような伝承をなくさず「歴史の町・交野」「おらが町の伝説」として語りつづけていきましょう。

2003.5.12(No91)

 歴史健康ウォークから
 
回を重ねて47回になりました。
今回から参加者名(14名)を書いていただくこととしました。
注目すべきは小学4年生の小川君が参加してくれています。メモ帳片手に熱心に説明を聞いているのが印象的でした。二平川の洗濯場
また、ある人は私は歴史的なことよりも健康ウォークを楽しみに、そして知らない町の野山や古い町並みが歩けることがうれしいと私におっしゃいました。私もうれしくなりました。
「歴史・健康ウォーク」の趣旨が当たった!このような方が一人でも多く参加していただけるよう、これからもコース設定を考えて行きたいと決意を新に?しました。
5/10(土)午前9時ドーム集合出発 今回は中角氏にを講師をお願いし、倉治の町並み及び「くさ神さん」を訪ねて歩きました。

ドーム→住吉神社(狛犬のチンチンを確認)→代官屋敷→札の辻橋→遠見遮断の道(山根道)→倉治・卵塔(現在は住宅地)→大仏坂→教育文化会館→廃円光寺跡(倉治6−2−27)→春日との喧嘩唄→くさ神さん(春日の小篠さんが守っていただいております)→木戸→倉治の子守り唄→二平川の洗濯場→久御山線→ドーム

3時間ぴったし、お天気にも恵まれ内容豊富なコースでした。
歩くたびに新しい発見がある。

今回は「唄」だけをひろって説明しておきます。
@私部の子守唄に北田はんの歌が残っている。
 「いたら見てこい北田の屋敷 四角四面の良い屋敷」
 この歌が歌われたのは大正の初めのころだろう。
 屋敷は約四反(1.200坪)ある。
A春日との喧嘩唄
 「かすがべい けんかしよ 破れた傘で受けたるわ!」
 逆にかすがの子はくらじべい・・・とやり返したと思われる。
B倉治の子守唄 
 「こんや来るなら 高い塀をこして 千両椿をおらんように」
 何で子守唄やのに高い塀を越えなあかんのか?と質問される。
 もうすこし、考えたり、聞いたりしましょ。
 「石鏃が語る」〜石鏃からのメッセージ〜でまだまだ調べ、確認を要するところが沢山あります。
 中角さんがおっしゃった「石鏃ウオッチング」今回の歴史健康ウォ−クがまさにそのとおりですね。
 「くさ神さん」もやはり元のところにありました。周囲の環境があまりにも変わり過ぎていた。春日の小篠ご夫婦でお守りいただいておりました。ありがとうございますと声をかけておきました。
 これもすべて、石鏃に書かれておりましたので対応しやすかった。
 「歴史健康ウォーク」に「石鏃ウオッチング」をプラスして充実させていきましょう。
 
2003.5.7(No90)

    六道輪廻の世界
 
 Q:輪廻(りんね)する世界とは?
 A:仏教で説く「世界観・宇宙観」では、その世界像を大きく二つに分け
   けて考えている。すなわち輪廻する世界と輪廻しない世界の二元
   的な構造としてとらえている。
 Q:たとえば、その世界とは
 A:私たちはよく、「迷いの世界と、悟りの世界」「此岸(しがん)と彼岸
   (ひがん)」「煩悩の世界と涅槃の世界」などと呼びあらわします。
   輪廻とは「生き変わり、死に変わりすること。車輪が回転してきわま
   りがないように、霊魂が転々と他の生を受けて迷いの世界をめぐる
   こと。
 Q:この、転々と他の生を受ける世界が六道に分類されているのか?
 A:そうです、@地獄道A餓鬼道B畜生道C修羅道D人道E天道の
   六つです。これを「六道輪廻の世界」と呼んでいます。
 Q:輪廻するということは
 A:この六つの世界を生まれ変わり、死に変わりして永遠に転生を続け
   ることを意味する。一つの世界でその生を終えた生き物は、来世に
   は六つの世界のいずれかに生まれ変わることになる、ということで
   ある。である以上、人間は、再び人間に生まれ変わることもあれば
   他の天、修羅、畜生、餓鬼、地獄のいずれかに生まれ変わることも
   あるわけです。
 Q:ところで、そのいずれかに生まれ変わるかは、誰が決めるのか
 A:それは生き物、人間つまり私たちが生きている間に、どのような所
   業をなしたかによって決定される。悪事を為したものは地獄に墜ち
   るし、善を為した者は天に生まれ変わることができるのです。
   仏教ではこの考え方を「因果応報(いんがおうほう)」という。
 Q:輪廻しない世界とは
 A:これとは正反対の世界で、この世のいっさいの迷いや煩悩から
   解放された「さとりの世界」「仏陀の世界」であり、私たちが、極楽
   浄土という理想の世界のことである。そして「六道輪廻の世界」から
   脱出して、もはや二度と輪廻することのない世界、つまり極楽浄土
   に到達することを「解脱(げだつ)」という。
 
   仏教の教えとは、つまるところ「輪廻の世界」からの「解脱」にある
   のですね。どうすれば悟りを開いて「仏陀」になり、輪廻しない世界
   ・・・極楽浄土に到着できるか、それを釈尊は私たちに教えて下さる
   のです。「輪廻の世界」からの「解脱」へは一方通行である。
  
   昨日の「石仏調査」で市内各地域の六体地蔵さんを訪ねました。
   現地にて、あやない、こやないと話しあいました。歩かなわからん
   ことがありまんなぁ!(2003.5.6)
閻魔庁  極楽地獄図部分・閻魔庁閻魔図 
     (奈良・長岳寺)

閻魔王は亡者死後五週間目(五・七日忌)に裁判を行う裁判官である。ここでの取り調べが最も厳しく、もし嘘をついても浄玻璃(じょうはり)の鏡に罪が映しだされる。元々,閻魔はインドの死の神ヤーマであり中国に渡り閻魔王となった。本地は地蔵菩薩である。



2003.4.23(No89)

  大量「銅鐸」が出土した意味は?

Q:出雲国からの銅鐸出土数は?
A:加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見されたため、現時点で出雲国から出土した銅鐸は、合計50個ということになりました。
Q:この50個という数字は?
A:すごい数字です。いままで銅鐸製作の中心地といわれていた近畿・東海地方の旧国別に集計しますと★摂津国・・34個 ★河内国・・14個★大和国・・20個 ★和泉国・・12個 ★遠江国・・30個 ★三河・・30個 ★近江国・・41個となっています。
したがって、現在、出雲国が日本一の銅鐸出土(所有)国としてランクされます。
Q:ところで銅鐸の出土数と政治的な権力の関係は?
A:直ちに結びつけることは早計です。たくさんの銅鐸を用いた祭りを、全国でも盛んにおこなわれていたことは事実ですが、その保有数イコール権力の強弱とは言いがたい。
Q:出雲の権力が強大だった証拠といえるか?
A:保有できる力は確かにあったのですが、それが政治的な力だとは決めがたいものがありますね。

「今日の話は何んでっか?」もいよいよ100号にむかってラストスパートでんなぁ。


2003.4.21(No88)
 
加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡との関係は?

 加茂岩倉遺跡(銅鐸出土)と神庭荒神谷遺跡(銅剣出土)は直線距離にしてわずか3.3キロメートルしか離れていません。
しかもかつては尾根伝いに山道があったといわれ、歩いても一時間とかからない距離ですから、何らかの関係があったと考えられます。
しかも両遺跡とも人里離れた丘陵の奥まった谷に面した斜面という、きわめて神聖な「聖域」の雰囲気を漂わせている点でも似ています。
ただし、神庭荒神谷遺跡からは「出雲国風土記」に記されている神名火山(かんなびやま)という「仏教山」が望めるのに対し、加茂岩倉からの眺めは悪く、これといったものは望めない。
何より両者の密接な関係を物語る決定的な証拠は、謎の「×印」です。
銅剣358本という日本一の出土数を誇る神庭荒神谷の銅剣には、根元の「茎(かなご・柄を差し込む所)」の部分にタガネ状の工具で刻んだ×印があります。確認されたものだけ328本という数にのぼります。
一方、銅鐸39個という日本一の出土数を誇る加茂岩倉の銅鐸にも同じ「×印」がつけられているのです。
銅鐸の吊り手、「鈕(ちゅう)」の中央部に×印がある。12個確認されています。(1997.3末現在)
 この事実から、少なくともある時期に同じ集団、同じ権力を持つ人々によって、二つの遺跡の青銅器のうち何ほどかが所有されていたと考えることができます。

まだまだ続く!
交野地方からの「銅鐸」出土の可能性はいかに?
人里離れた丘陵、国境(傍示の里)・神の座ます山(交野山・竜王山)・弥生の遺跡(南山)と、チョット思いうかべただけでもロマンが漂ってきますね。絶対出るとも、絶対出ないとも言いきれるものでもない。
加茂岩倉も農道建設中に偶然発見されたものである。交野の里にも「謎」を秘めた場所がある。


[ 謎のX印 ]

島根・荒神谷遺跡の銅剣 ナゾの「×」印を確認

 荒神谷遺跡から出土した弥生時代中―後期(紀元前1世紀―紀元3世紀)の銅剣358本を保存処理している奈良県生駒市の元興寺文化財研究所は27日までに、処理を済ませた92本のうち78本に「×」印が刻まれていたと発表した。5年前の出土時も一部で確認されていたが、今回の発見でほとんどの銅剣に刻まれていたとわかり、工人グループのマークか"銅剣の祭り"の祭主の家紋ともみられ、大量埋納のナゾに迫る手がかりとなりそうだ。線刻は銅剣の柄(つか)に差し込む茎(なかご)にみられ、約1センチ四方の大きさがある。
(読売新聞 89/10/27)



2003.4.18(No87)

   いったい銅鐸は何をするものなのか?

 銅鐸とは、いったい何なのか。実は謎のベールに包まれています。
よくわからない部分が多いのです。
現在一般的に言われているのは、農耕・稲作に関係した祭りの用具だろうというものです。たとえばムラ祭りの場で、銅鐸を吊り下げ、「舌(ぜつ)」銅鐸の内側に吊り下げた棒状のものを振ることによって音を出し、豊作を願う、そのように使われたのではないか。銅鐸
音を出す「楽器」であったことは、銅鐸の内側の一部がすり減っていることからも、うなずけます。(舌が内側の突帯に長期間当たってできた磨滅の痕跡が認められる)。
また、全国で発見された銅鐸の約一割に絵画が描かれています。主な画材は、シカ(土地の精霊か)、トンボ(水田の神様か)、サギ(稲のシンボルか)など稲作に関したものです。
祭りの場で、銅鐸の絵を見ながら、また音を聞きながら、「聖なる語り」をしていたのではないでしょうか。
やがて時代が下がってくるとともに、銅鐸は約20〜50cmくらいの大きさだったものが、1m前後の大型のものに変化していきます。
日本一大きい銅鐸は、滋賀県大岩山遺跡から出たもので、134cmもあります。これだけ大きくなるともはや「楽器」としての機能はなくなり、「見て聞く銅鐸」から「仰ぎ見る銅鐸」になります。当然、銅鐸を用いた祭りの内容と方法も変わっていったことでしょう。

2003.4.16(No86)

    何のために、39個も大量に
埋めたのか?
 さまざまな説がありますが、定説はありませんが、その中からいくつか
Q:急に敵が攻めてきたので、あわてて土中に埋めたのか?
A:加茂岩倉の場合、あてはまらないと思われます。埋め隠すにしては、
 わざわざ丁寧に「ひれ」を立てたり、しかも「入れ子」のような狭苦しい加茂岩倉遺跡の銅鐸
 感じの状態に並べるのは不自然。
Q:地上で使っていたのをやめて、土の神か穀物の神様に捧げるために、穴を掘って埋めたのか?
A:39個も埋めたのは、大量奉納の考え方だろうか。たとえば現代人でも神社へ初詣した時、たくさんお賽銭をあげたのだからそれだけ幸せがもたらされると期待するようなものである。
Q:39個を1〜2個ずつ各ムラへ配るつもりで、一時期地中へ埋めて貯蔵したのではないのか?
A:配達するものならわざわざ土中に埋めなくてもいいだろうし、一時保管なら「ひれ」を立てる置き方にこだわらなくてもいいような気がする
 (加茂岩倉遺跡の銅鐸はひれを上して埋められていた) 
Q:普段は神聖なところに埋めておき、祭りの時に掘り起こして使用するためなのか?
A:地上ではなく地中においたのはなぜだろうか。地中の地霊の力を
 来年の祭りまでに、新しい生命力として銅鐸にそそぎ込んでおこうと
 いう意図があったのでしょうか。謎はまだまだ続く。
      次号では「いったい銅鐸は何をするものなのか?」です。
(注)
「銅鐸」の話の中で?
「入れ子」とは、大きい方の銅鐸の中に、小さな銅鐸が入れる、つまり
ペアー(対)の状態になっているのを入れ子といっています。
「ひれ」とは、銅鐸を立てて、左右にある、耳のことです。(私の表現では耳)


2003.4.14(No85)

    加茂岩倉遺跡銅鐸の謎

Q:なぜ、加茂岩倉の銅鐸は山の中腹などという不便な場所に
  埋めたのか?
A:山は、平地にある集落とは離れた、普段の生活とは一線を画した神 
  聖なところだ、と古代の人々は考えていました。つまり山には「山の
  神」が宿っていたという考え方です。
Q:どんな考え方ですか?
A:たとえば「出雲国風土記」にも四ヶ所、神が宿る山「カンナビ山」が記
  されている。39個もの銅鐸が埋まっていた加茂岩倉遺跡は、奥まっ
  た谷に面した山の中腹にありますから、ここには神が宿ると考えても
  不思議はありません。山の神の霊力を期待し、銅鐸を鳴らす祭りをし
  ながら、今年も平野の水田から、たくさんの稲(米)が収穫できるよう
  に祈る祭りをしたのでしょう。
Q:その他、どのようなことが考えられますか?
A:あるいは周囲のムラから悪霊や邪悪なもの(伝染病)が自分たちの
  ムラへ入ってこないように祈願したとも考えられます。
  とくに加茂岩倉遺跡は、当時のムラとムラの境界線上に位置してい
  たようですから、十分そのようなことが想像できます。
  次号では「何のために、39個も大量に埋めたのか?」を。 
 


2003.4.11(No84)

  出雲の二大発見(パートU)

 そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見された。
世紀の発見が同じ地で二度起こったということである。「銅鐸は近畿」という常識だったから、まさしく晴天の霹靂(へきれき)だった。銅鐸が39個発見された加茂岩倉遺跡
それまでの銅鐸の出土数は、約430個。そのうち近畿が過半数で、兵庫の60個強を筆頭に、和歌山、滋賀、大阪の順だ。
東海地方も多く、愛知、静岡を中心に70個近く出土している。四国でも香川、徳島で50個以上、その他岡山が20個だ。(1992現在)
肝心の島根県では、荒神谷を除くと10個弱しか発見されていなかった。
すでに私たちは教科書で、弥生時代には「銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏」が存在し、銅鐸は近畿を中心に、銅剣銅矛は九州を中心に二つの文化圏があったと学んできた。出土データからの文化圏の割り出しは確かに科学的のように見えるが、この考え方は、ひとつの発見で崩れてしまう危険性があった。それが出雲地方での発見だった。たとえば、銅剣でいえば、荒神谷遺跡の発見によって、出雲地方はその過半数を出土したことになるから、出雲が銅剣銅矛文化圏の中心になってしまう。しかも、その銅剣銅矛文化圏の中心になるはずの出雲地方で、今度は加茂岩倉遺跡の39個や荒神谷遺跡の6個の銅鐸が出土したのだ。まさしく、従来の二大文化圏説では、とても説明できなくなってしまったのである。  次号では「銅鐸の用途」について、お楽しみに


2003.4.9(No83)

  出雲の二大発見で定説は崩れた!

 1972年、島根県大原郡加茂町の神原神社古墳から「景初三年」の年号の刻された三角縁神獣鏡が発見され、話題となった。三角縁神獣鏡が「邪馬台国」論争渦中の鏡だったからである。
 1984年、島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡から、四列に整然と並べられた銅剣358本が発見された。さらに翌1985年、銅鐸6個と銅矛16本が発見された。荒神谷遺跡
 荒神谷遺跡が一躍脚光を浴びたのは、なによりその量だった。
 銅剣358本というのは、全国ですでに発見されているすべての銅剣の数が300本あまりだから、1箇所でそれに匹敵する、それ以上である。
 さらに銅矛も納められていたから、まさしく「弥生の武器庫」といっても過言ではない。そして、ほとんど考えられなかった銅鐸も発見されている。さらに最も重要なことは、ここが出雲の中心地であるということだった。そこで、九州と近畿という二つの文化圏に対抗する「出雲文化圏」なるものが唱えられるようになる。
そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見されたのだ。
              次号で「加茂岩倉遺跡出土の銅鐸」について
 

2003.4.7(No82)
 
        金属器の出現

 弥生時代の特別な遺物として、金属器が出現してくる。
金属器は日本へはまず鉄器が入り、続いて青銅器が入ってきたと考えられている。金属器の使いみちは、農耕用具・耕作道具・武器・祭祀用器・漁労・狩猟用具・装飾用品などと考えられる。

各種鉄器(上段:武器・工具、下段:鉄斧類)
 
 これらのうち、遺跡から出土する鉄器の主な種類としては斧・手斧(ちような)・ナイフ・ノミ・鍬先・鋤先・鎌・剣・刀・矛・槍・鏃(やじり)などがあげられる。もっとも古い例は北九州に多く、中期代に近畿地方から中部、東海地方へ、後期代にはいると東国(関東地方)にもある程度伝わってきたことがわかる。
 静岡県登呂山木両遺跡から発見された木器・木製品は、金属器による加工の痕をよく残しており、加工具の鉄などは腐食して出土しないものの、残存状態の良い加工品から当時の様子が充分再現できる。一方、青銅器では、鏡が墓からよく発見される。
鏡に中国大陸から伝わったもの、朝鮮半島方面から伝わったもの、後期に日本国内で作られたものなどがあるが、当時、各地のムラの長(おさ)たちは、権威の象徴として、また自分の宝器・祭祀器として所有していたと考えられている。   次号で大量の銅剣発見!


2003.3.24(No81)

           弥生文化

 邪馬台国の人々の生活は、もちろん弥生時代の生活である。
その生活のすべて、クニのシステム、冠婚葬祭から土器・青銅器の作り方、狩のしかた・料理のしかたに至るまでの総体が弥生文化である。
弥生文化はどのようにして成立し、また他の文化とどう違うのだろうか?弥生式土器第1号
 
Q:弥生文化とは何か
A:まず弥生文化とは何かを考えるために小学校用の学習国語辞典で調べてみると、残念ながら弥生文化という項目はない。
 
Q:学習国語辞典ではどのように
A:@やよい(弥生)陰暦三月の別名。Aやよいしきどき(弥生式土器)紀元前二百年ごろの日本でつくられた土のうつわ。B東京の本郷弥生町(ほんごうやよいちよう)からはじめて掘りだされたのでこの名がある。
縄文(じょうもん)式土器よりは新しい時代のもの。とあるのみです。
 
Q:国語辞典の定番ともいえる「広辞苑」でもないですか
A:あるのは、@やよい(弥生)[イヤオヒ]の転、陰暦三月の異称。
Aやよいしきどき(弥生式土器)(明治17年東京の本郷弥生町の貝塚で発見されてから名づける)弥生時代の素焼きの土器。B縄文式土器より焼成温度が高いため一般に赤褐色を呈し、無紋または簡単な文様で甕(かめ)・壷(つぼ)・高坏(たかつき)・鉢(はち)などがある。弥生式土器を標式とする考古学上の時代、縄文時代の後、古墳時代の前。
 
Q:年代はどのように  
A:紀元前3世紀頃から後3世紀頃まで。大陸文化の影響を受けて水稲耕作や金属器の使用がはじまり、銅剣・銅鉾・銅鐸(どうたく)のほか鉄器も用いられる。
普通、前・中・後の三期に分け、遺跡は関東以西に多い。
とあって、土器の絵が描いてあったりする。
 
次号では、日本史辞典などから弥生文化を探ってみたい。


2003.3.17(No80)

    現代の日本人は野菜不足

 私たち日本人は世界でも雑食性が高い人種です。味の情報量が多いということは、それだけ脳の神経を日常的に使うことになり、脳の老化を防ぎ、創造性を強めてくれます。
Q:どういうことか世界一の長寿国といわれるわりに現代の日本人に不 
  足しているのが野菜ですね。
A:体にいいとわかっていながらも栄養のバランスを考えて食べるこは 
  非常に難しいというのが実情です。
Q:「邪馬台国」の人たちはどのように摂取していたのでしょうか
A:普段の食事において健康を意識して野菜を摂っていたということはな
  く、食料の事情から当然のように野菜中心の食生活を営んでいたと 
  思われます。
Q:その点、現代人はどうでしょう。
A:今、「野菜が体にいい」ということを知らない人はほとんどいません。  
  それなのに現代人が野菜不足というのも何とも皮肉な話と言えます。
Q:そこで、登場するのが健康食品でっか
A:日頃不足しがちな野菜の栄養素を摂るのもよし、また、嫌いな野菜の栄養素も手軽にとれるようになっています。
Q:いくら医療技術が発達しているからといって不摂生な生活に安心してはだめですね。
A:そうだ!「自分の体は自分で守る」といった意識の改革が必要な時代 だといえます。
Q:病気にかかってから治療するのではなく、病気になりにくいからだを
  作ることですね。
A:そうだ!そうだ!病気になりにくい体をつくって生き生きとした生活を
  送る、これが本当の健康な生活といえるのではないでしょうか。
 
  よく考えてみると、それはごく当たり前のことで、それこそ「卑弥呼」の時代よりもずっと前からなされてきたことなのです。
  しかし、その当たり前のことすら忘れてしまっているわたしたち現代人にとって「卑弥呼」から学ぶことは、いや当時の生活から学ぶことは沢山あるといえそうです。
  最後に!健康食を「ま・ご・わ・や・さ・し・い」で行きましょう。
  (ま)豆類・(ご)ごま類・(わ)わかめ等の海藻類・(や)野菜(さ)魚類・(し)しいた等のキノコ類・(い)イモ類です。

2003.3.14(No79)

    「邪馬台国」の長寿の秘密は

 3世紀と現代を比べてみると、3世紀の頃は、確かに新鮮な空気があり、ストレスなども少なく、長生きできる自然環境にあったとはいえ、医療技術など現代では比べものになりません。
ちょっとした病気で簡単に命を落としてしまうことも多かったはず。
 
Q:では、なぜ邪馬台国の人々は長生きできたのしょうか?
A:ひとつのヒントが「魏志倭人伝」にあります。
  「倭の国は、温暖で、冬も夏も生菜を食う」とある。
Q:野菜類ですか。
A:そうです。古代人が食べていた自然のままの野菜には多かれ
  少なかれ薬効成分が含まれています。
Q:たとえば
A:ネギの葉にはビタミンCとカロチンの相乗作用によって風邪の治
  りを早めてくれたり、発汗作用で汗と一緒に体の不要物を排出  
  する効果があります。
Q:そのほかには 
A:里イモのネバネバした部分は、ムチンという物質で体細胞の老 
  化を防ぐ効果があるといった具合に。
Q:当時、栽培されていた野菜にどんなものがあったのでしょうか
A:ゴボウ・シソ・カブ・ダイコン・ニンニク・ニラ・ネギ・里イモなど栄
  養学的に見ても体にいいものばかりです。本当に野菜は、古代
  人の健康にとって欠かせないものだったといえます。
  
        次号に続く
2003.3.12(No78)

      邪馬台国は長寿国だった?
 
 昔に比べて、現代人の寿命はずいぶんと長くなりました。
とはいっても、長く生きることだけが健康というわけではありません。
たとえ寿命が短くても、昔の人々の中には健康な人もたくさんいたのではないでしょうか。
Q:「邪馬台国」は長寿国だったのでしょうか?
A:卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名ですが、彼女の生活、姿などの大部分は謎に包まれています。3世紀の半ば頃、中国で書かれた史書の一部である「魏志倭人伝」に当時の日本人の生活ぶりや健康状態、食生活などが記述されています。
Q:そのなかでも特に注目すべきことは?
A:「人々は長寿で、百歳、あるいは8〜90歳まで生きる」というくだりです。もちろん、「白髪三千丈」のような誇張表現が多い国だけにそのまま信用できるとはいえませんが。
普通に考えても、現代人よりも寿命が長いということはまずありえないことです。
Q:かといって、全く否定できないのも事実ですね。
A:そうです、同書によりますと、卑弥呼が死んだのが、西暦247年。
卑弥呼が少女時代に女王になった年代から数えてみると、少なくとも80歳前後まで長生きをしていたことになります。
 
90歳、100歳はオーバーにしろ、歴史書に記述されている位ですから
3世紀の邪馬台国の人たちは当時としては長寿で健康だったのでしょう。
                 次回は「長寿の秘密は?です。

2003.3.10(No77)

      高地性集落
       
(弥生のムラの戦争跡か)

 高地性集落は、西日本に顕著に存在する。
時代は弥生中期の紀元前後一世紀ころだ。しかも、その多くは瀬戸内を中心に集中している。さらに言えば、海を眺望できる高台にある。
遺跡には竪穴式住居跡や土壙墓、それに石鏃、土器などがあり、明らかに火を炊いた跡があった。(香川県・紫雲出山遺跡)
海を望む標高350b強の山頂にある集落だ。出土品からみて集落としての生活環境はすべて整っていたから、むしろ「なぜ高地を選んだのか」のほうが問題となったのだ。
高地性集落が問題になったのは、弥生時代中期には多くのムラ権力が互いに対立、略奪、併合を繰り返し、巨大化されていく過程にあったということにあった。いわば「弥生戦国時代」の象徴という見方だ。
武装するムラ、要害に囲まれたムラ、これが高地性集落であり、ムラどうしの戦いと情報連絡は、狼煙(のろし)通信でおこなった。
やがて、紀元後二世紀ごろ、弥生のムラの権力は九州や近畿の巨大なクニとして収斂(しゅうれん)されてゆく。
高地性集落は近畿では、大和や河内のクニを取り囲む高台に多く発見される。まさしく見張り、通信のための、あるいは防御の前線基地化されていくのだ。低湿地の開拓、農耕の発展と生産性の向上、やがてムラどうしの対立、武装するムラ、防衛と互いの通信。高地性集落はクニの出現への過程で生まれたムラ形態であり、弥生が戦争の時代であったことの象徴ではなかろうか。
 当交野市では標高215bといった高所に遺跡があり、採集された土器もすばらしいことから「南山弥生時代住居遺跡」と名付けている。
この南山遺跡は、昭和34年発見されて以来、発掘調査は実施されず、保存につとめられたこともあり、その実態はわからない。
極めて狭い尾根の稜線を占めて設けられた遺跡だけに小規模な遺跡と考えられる。南山遺跡の場合、遺跡下の道を西へ下ると拠点的な大規模な集落と考えられる山裾の森遺跡に出る。この二遺跡の関係は南山遺跡の僅かな人々と森遺跡に住む数多い人々間に類縁のあることを推測させられる。
まだまだ、これから「交野のロマン」を探っていきたいと思います。


2003.3.5(No76)

             吉野ヶ里フィーバー

 1989年2月、全国紙はいっせいに「世紀の大発見」を唱えた。
「佐賀平野に巨大集落跡、古代史が書き換えられる!」ひどいのになると「邪馬台国ついに発見!」これが吉野ヶ里フィーバーだ。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡と三田川町にまたがる弥生中期の遺跡で、それまであまり注目されてなかった有明海沿岸の地で発見された。
Q:規模等について
A:総面積30f。全国最大の環濠集落である。1986年から発掘調査がおこなわれ、3年後ようやく公開された。
Q:この遺跡どのぐらい続いたのですか
A:紀元前3世紀前半〜紀元後4世紀くらいまで続いた遺跡で、驚くほど長期にわたった。
Q:吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国ですか
A:邪馬台国ではありえない。なぜなら、邪馬台国は三世紀初頭から中期に栄えた国で、吉野ヶ里遺跡のいわゆる環濠集落としての絶頂期は最も近い時期からでも、その半世紀くらい前のものだからです。
Q:吉野ヶ里遺跡の広さとは
A:奈良県の唐古遺跡が10fで、ついで大阪府の池上・曽根遺跡で7fです。
Q:全国で環濠集落集落はいくつくらい発見されていますか
A:200以上発見されているが、たいていは1f未満のもの。
Q:環濠集落集落とは
A:自衛されたというか、武装されたムラあるいはクニで、常に戦争が前提にあった。ということは、必ずリーダーあるいは権力者、ひょっとして王に近い存在があったわけ?
 
吉野ヶ里遺跡は国名はどうであれ、確実に国として、邪馬台国以前に存在していたことがはっきりしたのだ。そうすれば、世紀の発見から、またもや「邪馬台国」への発見の旅は引き続きおこなわれるのである。
 あなたの「邪馬台国」はどこにあるのですか?

2003.3.3(No75)

      ひな祭り

 3月3日は女の節句とも呼ばれている。しかし、昔は女に限らず一家中の安全を守り、邪気を払うための節句であった。もともと奈良時代のころから人間の形=人形をつくって、罪けがれを付けて川に流したり火で焼くという人形信仰があったのであるが、それがのちには、人形をつくって、それを一回ごとに捨てずに保存するようになったものだから、人形だけがいわば独立し、最後は内裏雛(だいりひな)にまで成長してひな祭りに変化していった。
 そこで雛を祭ると同時に、その前で古代的な食物である花あられとか白酒とか、ひし餅とか、ことに草餅を食べることが行われた。これは、要するに日本の古代的食事の回復であるけれども、その中に長い民族の知恵が残ったのである。
 昔は一般に婦女子は、家庭から開放されずに、社交的な場に出るということが少なかったわけだから、その日だけは自由に友達を訪問し合って、娘に社交の機会を与えようとしたわけである。
 そこで、雛かざりの前に婚礼用具のミニチュアを並べて、ままごと遊びをさせ、女の心がまえであるところの結婚生活への準備を暗示した。つまり親が、おもちゃを通じて女子の心がまえを教えるわけで、一種の体験学習である。ままごとというのは「まんまのこと」すなわちご飯を食べるということで、炊事から食事作法を練習することであるから、要するに所帯という生活の仕方の技術の練習でもある。
 それがのちに楽しみを分かつ日になり、最後には楽しみを越えて贅沢な雛飾かざりを見せ合うという大変まちがった方向へ変わってしまった。
 しかしもともとの動機は、むしろ女性たちに、社交と主婦としての家庭経営の知恵と技術を教える日だったといっていいかと・・・思う。

2003.2.28(No74) 

     古墳とはなにか?
 
 古墳時代に古墳が作られた。といえば当たり前のように思う人が多いだろう。もちろん、そのとおりなのだが、ややこしい事情がある。
そのまえの弥生時代には古墳がなかったと、考えられていたからだ。
九州では有名な甕棺があった。また、甕棺でなくても、石槨のなかに伸展葬といって、遺体をまっすぐに埋葬している例もある。ほかにも葬式のやりかたがあるが、ともかく弥生時代には、古墳のように、盛土をして墓を造ることはなかったとされてきた。卑弥呼の墓と言われている、「箸墓古墳」
弥生時代の葬制から、古墳へと移行した際の失われた輪探しが、行われるようになった。方形周濠墓・・・周りに堀をめぐらした方形の墓なども、この失われた輪の候補になった。

 ところが、そのうち弥生時代の墓でも、盛土をして塚を築いたものが、見つかるようになった。「魏志」にある卑弥呼の墓も、盛土をした墓のように描写されている。卑弥呼の墓は、冢(ちょう)という文字で記録されているが、冢という場合、盛土した墳墓を指している。
つまり、弥生時代に古墳が発見されてしまったから、まぎらわしいことになったのだ。弥生時代の墓を古墳と呼ぶと、古墳時代の古墳と混同してしまう。そこで、墳丘墓と呼ぶことに決めた。しかし、意味から言えば、古墳は前方後円墳でも円墳でも、どれも墳丘を持っている。
 この墳丘墓が、卑弥呼の墓にあたるから、おおいに用語にこだわりたくなる。「おおいに冢(塚)を造る。径百歩」とあるから、卑弥呼の墓は、どう考えても、墳丘墓ということになるのではといわれています。

2003.2.26(No73)

 邪馬台国の謎をとく
 キイポイントとは?
 @場所・・・邪馬台国は帯方郡(今日のソウル市近郊)から
        約1万2000里の彼方にある。
        さらに奴国(現在の福岡県)から1400里にある。倭国は
        島が連なり、その周囲は5000里。ただし、1里は現在の
        ものではなく魏の時代の距離で測らなければならない。
 A人口・・・約7万戸、1戸4人としても約30万人の巨大都市だ。
 B気候・・・邪馬台国は温暖で冬でも生野菜が食べられる。
 C動物・・・サルや雉はいるが牛馬・豹・羊はいない。牧畜をしないと
        いうことだろう。
 D植物・・・樟・杉・樫・かえで・竹・橡(くぬぎ)・やまくわなど、温帯性
        の植物が繁茂している。
 E衣服・・・気候温暖なのか男は上半身裸、木綿の腰巻きのような
        ものをつけている。女はワンピース姿だ。履物はなく、
        ほとんどが裸足だ。
 F食事・・・米食、酒も好きだったようだ。
 G住居・・・竪穴式住居、高床式も見られる。
 H仕事・・・農業は稲作や野菜つくり、養蚕もおこなう。漁業は潜水
        漁法、海産物も獲った。
 I特産品・・絹織物、真珠、ヒスイ。 
 J風俗・・・男子はイレズミをしている。占いが好き。
 K卑弥呼の館・・城柵に囲まれ、物見櫓もあり、税を貯めた蔵もある。
           宮廷には女王が一人住む。奴隷もいたようだ。
 L鏡・・・・鏡が好きで、中国から銅鏡100枚をもらっている。
 M国宝・・・鏡他中国からは刀や金、朱、黄色の旗などもらっている。
 N卑弥呼の墓・・直径100歩の高塚。奴隷も埋められている。
 O周りの国・・伊都国、末廬国、奴国、不弥国、狗奴国、投馬国、
          斯馬国など40くらいの国がある。
 P金印・・・中国の王から「親魏倭王」の金印をもらっている。
 Q時代・・・弥生時代後期から古墳時代早期だといわれる。
        具体的には紀元180年ころから約1世紀は存在したで
        あろう。
  これだけの資料があるのだ。それほど難しい話ではないように思える
 が、しかしねそこには難所があるのだ。
 「邪馬台国への道のり」「邪馬台国を愛した鏡」そして「卑弥呼の墓」で
 ある。この三つをクリアすれば、「邪馬台国」が解けるのである。
                       参考文献:「邪馬台国論争・99謎」より
 大いに夢を、想像を、推理を、そして「九州説」・「畿内説」なのか?
 卑弥呼は何処・・・? 

2003.2.24(No72)

   邪馬台国ブームのすべては
 A:「この発見」からはじまった。この発見とは
 Q:京都府相楽郡山城町にある椿井大塚山古墳は墳丘191bの前方後円墳である。
 A:かなり古い古墳と言われているが。
 Q:古墳時代前期の四世紀前半のものと思われる。
 A:発見の経緯は
 Q:1896年(明治29年)に奈良・京都間に奈良鉄道が開された。
   ところが、このときにこの椿井大塚山古墳の前方部と後円部が
   切断されてしまった。当時、これが古墳であると誰も気づかなか
   ったらしい。奈良鉄道は、JR奈良線として現在も古墳の切断部
   を走っています。
 A:発見の決め手は
 Q:1953年、線路工事のおり、三面の銅鏡が発見された。
   そして、京都大学が調査し、石室から総計37面という大量の
   銅鏡の発見が確認された。
 A:ここで問題なのは三角縁神獣鏡の大量出土(23面)
 Q:三角縁神獣鏡の銘文には、魏の年号が記されているものがある。
   ちょうど卑弥呼が魏に使者を送った「景初」「正始」という年の名が
   刻まれていた。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ではないか、と言われ
   るのもそのためである。
 A:三角縁神獣鏡の出土例は
 Q:全国でも多く(約500枚)、弥生期では見られず、古墳時代に
   入ってからである。
 A:三角縁神獣鏡が問題とされるのは
 Q:椿井大塚山古墳の33面の三角縁神獣鏡のうち23面が、各地の
   古墳19基で発見された三角縁神獣鏡と「同笵関係にあった」と
   する調査をした京都大学の小林行雄先生の研究にあった。
 A:「同笵関係」とは
 Q:同じ鋳型でつくった鏡。椿井大塚山古墳
 
   小林先生の説は、三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼が賜った「鏡」で、その鏡は邪馬台国が秘宝として管理していたが、邪馬台国がやがて初期大和朝廷となり、初期大和朝廷はその鏡をもとに鋳造し(同笵鏡)それを各地の豪族に支配の証として配った。
 だから、全国から出土する三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳と同笵関係にあるといわれている。椿井大塚山古墳の被葬者はその鏡の管理者だというのである。
 そして邪馬台国論争では必ず、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡が問題とされることとなった。
 奈良・箸墓古墳→京都・椿井大塚山古墳→交野・雷塚古墳が一直線上にあることから、ますます「交野の里」のロマンが広がりを見せ、いつか新発見のニュースが聞かれるであろう。


2003.2.19(No71)
 
謎の邪馬台国   [女王卑弥呼の国]
 2〜3世紀に倭にあったと同時代の中国の史書に記されている国。晋の陳寿(233〜297)が著わした[三国志]の一部に倭のことが書かれており、それを[魏志倭人伝]と呼んでいる。
約2000字であるが、内容は、倭の国々の位置・政治・風俗・産物・歴史などである。
 邪馬台国には卑弥呼という女王がおり、さらに約30カ国が連合して彼女に共立した。彼女は巫女のような女性で、弟がいて政治を助けている。239年、彼女は魏の都の洛陽に使者を送って奴隷などを献上し、「親魏倭王]という称号と金印、銅鏡100枚などを賜わった。その後も魏と交渉があった。
雷塚古墳 前方部より撮影
雷塚古墳
全長106m、後円部の径は56m
前方部は長さ50m、前方部先端、幅32m
くびれ部での幅22mである。
後円部の頂上は標高 155.3m
後円部が抜群に高く、くびれ部との差は11.6m
後円部に比べて前方部の幅が著しく小さく、
高さも著しく低いといった古式古墳の形態を

遺憾なく発揮している
ところで、邪馬台連合国の南側に狗奴国(くなこく)という強力な男国王があって、対立していた。
もともと、175年頃、倭国では大乱が数年つづいたが、卑弥呼を女王にたてると治まったのである。
狗奴国は、ついに邪馬台国側と交戦した。
魏は、247年、使者と詔書を送ってきて激励した。
やがて彼女は死に、径100余歩の墓に葬られた。今度は男王が立ったが、また国内が乱れたので、台与(とよ)という13歳の女王立てると、治まった。
ところで、問題は邪馬台国の位置である。
[魏志倭人伝]の記事から、朝鮮半島の南端から、対馬・壱岐をへ北九州に上陸するまでは問題がない。
しかし、その先は実際の地理と合わないため、その記事についていろいろな解釈が行われている。
邪馬台国の位置は、今日では九州説と大和説が代表的な意見である。
邪馬台国はどこにあったのか?
我々は大和説だとするならば、桜井市にある[箸墓古墳]が女王卑弥呼の墓との説もある。大和の古墳では最も古い型態をもつ前方後円墳である。
交野市・森古墳群にある雷塚古墳(全長106b)も同じタイプ(バチ形)の古墳である。
箸墓古墳と雷塚古墳の関連性は全く無いとはいえないのではないか?
邪馬台国と卑弥呼に関わった人が交野にもおられたのではないか?
すでに大和との交流があったと考えられるのではないか?
このように想いを抱いた時には「交野の里のロマン」はますます広がっていきます。


2003.2.17(No70)

[奴国の金印]       白銀5枚の国宝
 
 西暦57年に後漢の光武帝が倭の奴国に印章を与えた。という記事が中国の史書にある。
江戸時代に志賀島で発見された金印がそれだ。

志賀島の金印公園 国宝[奴国の金印]
 
 1784年(天明4年)北九州市、志賀島の百姓の甚兵衛が、島の叶の崎で田の溝を改修していた。すると、2人で持つほどの大きな石が出てきた。テコで掘り起こすと、その下から金印が出てきた。彼はそれを持ち帰って兄に相談した。兄は、以前奉公していた福岡の豪商にそれを見せ、純金で値打ちのあるものだと教えられた。
 そのうち庄屋がやって来て、それを郡役所に差し出すように言った。こうして金印は、白銀5枚で甚兵衛から買い上げられ、黒田藩主の所有物になった。
金印は、「漢委奴国王」の5文字を刻んだ、1辺2.3aの純金の方印で、つまみは蛇の形をしている。
 発見当時から話題になり、学者のなかには偽物かと疑う人もあった。しかし、今日では[委奴国]は倭の奴国で現在の博多あたり、1辺の長さは漢の寸法の1寸、蛇ちゆうの古印は雲南省からも出土したなど、いろいろな疑問も解決している。したがって、この金印は「後漢書]の中の[建武中元2年(西暦57)倭奴国 貢を奉じて朝貢す 使人自ら大夫と称す 倭国の極南界なり 光武賜うに印授を以てす」と記されている[印]である。
印授は印章とくみ紐。[魏志倭人伝]には博多のほか南方の奴国も記されており、そちらと間違えたと見られる。
なお、現在、金印は国宝となっている。
                                     [日本の歴史便利手帳より]

2003.2.7(No69)
 
  源流を訪ねて
 星田新池の上流の谷は(なすび谷)(ぼって谷)という。
その谷川が一つに集まるところに星田新池があり、
そこに交野最古の人が住んでいた。(旭縄文遺跡)

新池から流れた川は、特養老人ホームのところで傍示川に合流する。
傍示川の源流は星田南星台の住宅地を抜け、地獄谷へと遡る。
地獄谷の水路と思われる石組みの一部
なすび谷に石組み、一部セメントで築かれている用水路は星田新池がつくられた明治から昭和のはじめ頃に作られたもの思われる。なお、詳細は村の長老よりの聞き取り調査が必要である。
いずれにしても最近のアニメ映画「千と千尋の神隠し」を思わず連想した。まだまだこれからも源流を踏査していきたい。

地獄谷とは
この世の世界ではない、あの世の世界、草木が一本とてない荒涼たる様は三途の川の光景が想像される場所を地獄と呼ばれる。
ここ星田の地獄谷は、この谷を歩いた人は、谷が深くて狭く、その深い谷を歩いていると一種異様な雰囲気になり、一刻も早く抜け出たい衝動に駆られる。
なにか陰気な、居てもたってもいられない気分になりましたなぁ。昨日は3人で歩いていたから、そうではなかったが。はじめて一人で歩いていたら、途中で引き返すでしょう。なにかゾクゾクする感じがする谷筋だった。
だから人のあまり立ち寄らない、村人の恐れられた場所として忌み嫌うので、昔から死牛馬等の捨て場所ともなっていたようだ。
そのような地域であるので「地獄」という地名が生まれたものと思われる。星田新池

星田新池は交野市内で4番目の大きな池である。
面積は2ヘクタールで、つくられたのは明治末から大正にかけて下の方の田んぼの用水として大切な役目を果たしている。
堤防の老朽化とともに大阪府が中心となって改修工事がなされ、昭和60年3月に完成した。
今、新池公園となりその広場に改修記念碑がたてられている。


2003.2.3(No68)
 
   節分
 立春の前日で、二月のはじめにくる。
旧暦ではでは元旦から七日正月までの間にこの日の来ることが多かったため、両方の行事が混乱し、本来の節分の行事が何であったかはっきりしない。
しかし現在この日に行われる行事には、邪気悪霊を防ぐ呪術的なものが多い。
柊(ひいらぎ)に鰯(いわし)の頭をさして戸口にさしたりニンニク、ヒル、トベラなど臭気の強いものを添えたりして、悪臭で疫神を防ごうとする習慣は全国的に行わている。大豆を炒り「福を内、鬼を外」を唱えて室内に撒き鬼を打つ行事は主に都市を中心に広まった。
この時節は冬から春への折り目であり、新しい季節を迎えるにあたって邪気を払うひとつの方式として種々な行事が行われたと考えられる。
 
・夜になると、炭火で年越し飴を伸ばしながら食べ「銭を伸ばす」(お金持ちになるよう)とか、「食べ伸ばす」(食べものに心配のないよう)とかいって、験(縁起)を担いだ。
・「節分は八方が開いている」(悪い方角がない)といって結婚式が多い。
・昔から「屋敷の中の古木には神さんがいやはる」といって、これを切ることをいやがったが、この日は切ってよいとされた。
・神棚にそなえた豆を自分の数え年より一つ多く食べた。
・年越しの晩に夜なべをすると庭に穴があくといってしなかった。
 
・サラリーマンも今夜だけは残業なしでっせ!
庭に穴あきまっせ!
それより仕事に穴あいたら、困りまんねん笑・笑・笑。
 
・節分の日「巻きすしの丸かじり」こんな関西だけでっせ!
これも、恵方に向かって無言で太巻きを丸かじりしながら願い事をすると、夢かなうと言う。
今年の恵方は南南東です。

2003.1.31(No67)

天平のサラリーマン生活  その3
 
 出世頭の一人、平城京に住んでいた田辺道主という人。
道主は、18歳で舎人(とねり)という宮廷の雑役の仕事を振り出しに、28歳で最下位の小初位(しようそい)という位で採用された。
この時の年収230万円。
そして40年近く勤め上げ、最後は正六位にまで出世し、年収760万円の身分に。
もう一段上がれば従五位下で、全国で百数十人のエリート官僚の仲間入りができた。
しかし、齢すでに65過ぎ。実は、五位以上には貴族の子弟しかなれない規則で、道主が庶民の出で六位まで出世できたのは稀なことだった。
親の七光が制度としてあり、名門の子弟は21歳で任官すると、六位をポンと飛び越して、五位からスタート。五位の年収は六位の倍の1540万円也。
この不平等な制度は「陰位(おんい)の制」と呼ばれ、平安時代までつづいた。
             (いずれの年収も現在に換算したもの)
 役人のエリート制度奈良時代の役人は、平城京勤務と地方勤務で合計15,000人ほどいた。
当時の人口は全国で700万人。国民の400人に一人が役人。あこがれの職業だった。
ちなみに現代は国民27人に一人が役人。奈良時代の方が15倍値打ちがあった。
                         参考:雑学「日本の歴史」古川愛哲著
小泉さん「構造改革なくして成長なし」がんばってや!。


2003.1.29(No66)

天平のサラリーマン生活  その2
 
勤務時間について
五位以上のエリート官僚たちは、正午前に帰宅が許される。高級官僚の勤務は午前中だけだが、日の出からだから7時間は働くことになる。
六位以下の中・下級役人たちは、午後からが事務処理の時間。彼らは日の出から日没まで働いたらしい。
一日12時間労働。
それから2時間かけての帰宅。
睡眠時間は6時間程度しかとれなかったにちがいない。
休日は六日ごとに一日で、休日には自分田畑を耕し
た。働き者だったのだ、ご先祖様は!。

2003.1.27(No65)

天平のサラリーマン
奈良の都は平城京。
役所のあるところは平城宮。その広さは、現在の皇居と同じ。ここに約一万人の役人が通ってきた。
日本最初のサラリーマンだか、その現実は・・・・・・・・・。
通勤について・・・・平城京のサラリーマンは早朝出勤。
勤務時間は日の出とともにはじまる。
五位以上の高級官僚は、馬や輿(こし)の送迎車つきの出勤だが、六位以下の役人は徒歩で通っていた。
朝焼けの平城宮の前は、通勤する一万人の役人たちで道路は埋まった。通勤ラッシュ。
下級役人が多く住む平城宮の南の端は、宮殿まで7`以上離れいる。
ここから徒歩で通うのだから、片道二時間テクテクと宮殿に向かった。仕事が終われば、また二時間テクテクと歩いて帰宅。徒歩での往復四時間は通勤地獄だっただろう。それでも楽しみもあった。通勤風景を詠んだ名もない女の歌が「万葉集」にある。
 
   打日さす宮路を人は満ち行けど
               わが思う君はただひとりのみ
 
(解説)早朝の通勤ラッシュ。沿道にあふれる人の中で、
          わたしが恋しているのはアナタ一人よ、という娘
          の密かなトキメキの歌。通勤途上でのロマンス
          の花が咲く風景は今も昔も変わらない。
        
          最近はなにやら、女性専用列車なるものが登
          場してきたが、このロマンスとやらは失われつつ
          あるのか?交野から平城宮まで約20キロ。
          例えば、通勤ではないが
          交野から 平城宮までの日帰り出張は可能
         であった。数回あるいて確認済。

平城宮略図
奈良時代後半の平城宮 推定図
参考:東京国立博物館『平城京展』図録(1989年)・WWW奈良文化財研究所ホームページ


        

2003.1.20(No64)
 
職業はすべて農業からはじまる
 
 民という言葉がある。
国民の民、日本の民のタミ。タミ(民)の語源は、「田を作る身」の田身に由来するという。
日本の民は、農民なのである。奈良時代にかけては、政府が土地を国民に貸して、耕させた。豊作のコシヒカリ土地は国家のもので、国民は国から土地を借りてタミ(田身)としてセッセと米を作った。古代の日本人は、生まれると公に仕える農民に就職したことになる。タミを作った作物を集める、大きな家がある。それがオオヤケ(大宅)、首長の家である。オオヤケ(公)とは、大きな家。一番大きなオオヤケ(大宅)は、朝廷である。われら公民とは、朝廷の農民の意味になる。
さて、農民が作った収穫物はアキと呼ばれた。
その収穫のある季節がアキ(秋)である。収穫物(アキ)を、市場に出して売るのがアキナイ。つまり商いである。
収穫物を専門に扱う人が、アキンド(商人)となった。
職業はすべて農業からはじまる?、の観がある。

2003.1.15(No63)
   
散供(さんぐ)
 
交野市内でも所々にみられる風景です。
日本人の信仰はアニミズムだから、森羅万象(しんらばんしよう)あらゆるものに神が宿っていると考える。私部のまたベ地蔵
そこから散供という言葉が生まれた。散供とは、森羅万象の神々にお供えものをさしあげて、巧徳をほどこすのである。道端の石塚・大木・地蔵・ほこら・石段にさえお供えをさしあげる。
 
万葉集に
 
       家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕
                 旅にしあれば椎の葉に盛る
 
 家では神を祭るときは、お供えものを器に入れて祭るが旅行中だから、仕方なく、椎の葉を裏返してそこに米粒を載せて、道々の神々を祭っていきますという意味。

2003.1.10(No62)
 
 手を打てば はいとこたえる 鳥逃げる
                   鯉はあつまる 猿沢の池
 
猿沢の池 猿沢池畔の宿屋における情景をよんだものですが、お客さんがお呼びになったと、女中さんは「はい」と返事してトントンと二階の部屋にあがっていく、屋根にとまっていた雀は驚いてパッとにげる、ところが猿沢の池の鯉は、エサがもらえると喜んで集まってくる、手を打つ音一つにもそれぞれの立場立場で、それぞれの受け取り方があるのだというこです。

 また、同じお話を聞いていても、いい受け取り方をすれば、それは善業となってその人の未来に向かって働くでしょうし、悪い受け取り方をすれば悪業となって未来に働くのです。
 よく自業自得ということを申します。自ら作った善悪もろもろの業によって、自分自身、その報いを受けるということです。結局、自分の過去世の業が、現在世の自分を作り現在世の自分の業が、未来世の自分を作っていることになるのです。
 過去世の業を一切ふくめて「宿業」といいます。私たちはこの宿業を原因として生まれてきたのであります。それが「宿業を因として」の一句であります。 
                                           参考:「母」  高田好胤著

2003.1.8(No61)

 羊
 柔順で臆病者といったイメージを持つ羊さん。
西洋では信仰者として神に仕えたり、料理の世界では消化に良く、疲れたからだにやさしい肉食として評判がいいのです。
 
 哺乳類・偶蹄目・ウシ科・ヒツジ属[羊の皮をかぶった狼]という表現にあるように、純朴なイメージをもったヒツジです。歴史的にみてもイヌに次いで家畜歴も古く、扱いやすい動物なのかもしれません。
今年、わたし達の前にはどんな暮しの道がひろがっているのでしょうか?。
たとえどのような道であろうと今日の一歩、毎日の確かな暮しの歩みこそ、明日のよりよい一歩があると思います。
昼の時間が最も短い冬至のころが一番寒くてもよさそうなものだが、実際の気象はそうはなってない。
寒いのは、寒の入りから節分までのいわゆる「寒の内」で、ちょうどいまの時期である。
日は長くなりはじめたのに、寒気は逆に厳しさを増していく・・・・。
明日のより良い一歩を目指して。
   参考:1/1花王石鹸の広告・トラピックス倶楽部・よみうり、編集手帳より


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