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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田政信さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

2003.3.17(No80)

    現代の日本人は野菜不足

 私たち日本人は世界でも雑食性が高い人種です。味の情報量が多いということは、それだけ脳の神経を日常的に使うことになり、脳の老化を防ぎ、創造性を強めてくれます。
Q:どういうことか世界一の長寿国といわれるわりに現代の日本人に不 
  足しているのが野菜ですね。
A:体にいいとわかっていながらも栄養のバランスを考えて食べるこは 
  非常に難しいというのが実情です。
Q:「邪馬台国」の人たちはどのように摂取していたのでしょうか
A:普段の食事において健康を意識して野菜を摂っていたということはな
  く、食料の事情から当然のように野菜中心の食生活を営んでいたと 
  思われます。
Q:その点、現代人はどうでしょう。
A:今、「野菜が体にいい」ということを知らない人はほとんどいません。  
  それなのに現代人が野菜不足というのも何とも皮肉な話と言えます。
Q:そこで、登場するのが健康食品でっか
A:日頃不足しがちな野菜の栄養素を摂るのもよし、また、嫌いな野菜の栄養素も手軽にとれるようになっています。
Q:いくら医療技術が発達しているからといって不摂生な生活に安心してはだめですね。
A:そうだ!「自分の体は自分で守る」といった意識の改革が必要な時代 だといえます。
Q:病気にかかってから治療するのではなく、病気になりにくいからだを
  作ることですね。
A:そうだ!そうだ!病気になりにくい体をつくって生き生きとした生活を
  送る、これが本当の健康な生活といえるのではないでしょうか。
 
  よく考えてみると、それはごく当たり前のことで、それこそ「卑弥呼」の時代よりもずっと前からなされてきたことなのです。
  しかし、その当たり前のことすら忘れてしまっているわたしたち現代人にとって「卑弥呼」から学ぶことは、いや当時の生活から学ぶことは沢山あるといえそうです。
  最後に!健康食を「ま・ご・わ・や・さ・し・い」で行きましょう。
  (ま)豆類・(ご)ごま類・(わ)わかめ等の海藻類・(や)野菜(さ)魚類・(し)しいた等のキノコ類・(い)イモ類です。

2003.3.14(No79)

    「邪馬台国」の長寿の秘密は

 3世紀と現代を比べてみると、3世紀の頃は、確かに新鮮な空気があり、ストレスなども少なく、長生きできる自然環境にあったとはいえ、医療技術など現代では比べものになりません。
ちょっとした病気で簡単に命を落としてしまうことも多かったはず。
 
Q:では、なぜ邪馬台国の人々は長生きできたのしょうか?
A:ひとつのヒントが「魏志倭人伝」にあります。
  「倭の国は、温暖で、冬も夏も生菜を食う」とある。
Q:野菜類ですか。
A:そうです。古代人が食べていた自然のままの野菜には多かれ
  少なかれ薬効成分が含まれています。
Q:たとえば
A:ネギの葉にはビタミンCとカロチンの相乗作用によって風邪の治
  りを早めてくれたり、発汗作用で汗と一緒に体の不要物を排出  
  する効果があります。
Q:そのほかには 
A:里イモのネバネバした部分は、ムチンという物質で体細胞の老 
  化を防ぐ効果があるといった具合に。
Q:当時、栽培されていた野菜にどんなものがあったのでしょうか
A:ゴボウ・シソ・カブ・ダイコン・ニンニク・ニラ・ネギ・里イモなど栄
  養学的に見ても体にいいものばかりです。本当に野菜は、古代
  人の健康にとって欠かせないものだったといえます。
  
        次号に続く
2003.3.12(No78)

      邪馬台国は長寿国だった?
 
 昔に比べて、現代人の寿命はずいぶんと長くなりました。
とはいっても、長く生きることだけが健康というわけではありません。
たとえ寿命が短くても、昔の人々の中には健康な人もたくさんいたのではないでしょうか。
Q:「邪馬台国」は長寿国だったのでしょうか?
A:卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名ですが、彼女の生活、姿などの大部分は謎に包まれています。3世紀の半ば頃、中国で書かれた史書の一部である「魏志倭人伝」に当時の日本人の生活ぶりや健康状態、食生活などが記述されています。
Q:そのなかでも特に注目すべきことは?
A:「人々は長寿で、百歳、あるいは8〜90歳まで生きる」というくだりです。もちろん、「白髪三千丈」のような誇張表現が多い国だけにそのまま信用できるとはいえませんが。
普通に考えても、現代人よりも寿命が長いということはまずありえないことです。
Q:かといって、全く否定できないのも事実ですね。
A:そうです、同書によりますと、卑弥呼が死んだのが、西暦247年。
卑弥呼が少女時代に女王になった年代から数えてみると、少なくとも80歳前後まで長生きをしていたことになります。
 
90歳、100歳はオーバーにしろ、歴史書に記述されている位ですから
3世紀の邪馬台国の人たちは当時としては長寿で健康だったのでしょう。
                 次回は「長寿の秘密は?です。

2003.3.10(No77)

      高地性集落
       
(弥生のムラの戦争跡か)

 高地性集落は、西日本に顕著に存在する。
時代は弥生中期の紀元前後一世紀ころだ。しかも、その多くは瀬戸内を中心に集中している。さらに言えば、海を眺望できる高台にある。
遺跡には竪穴式住居跡や土壙墓、それに石鏃、土器などがあり、明らかに火を炊いた跡があった。(香川県・紫雲出山遺跡)
海を望む標高350b強の山頂にある集落だ。出土品からみて集落としての生活環境はすべて整っていたから、むしろ「なぜ高地を選んだのか」のほうが問題となったのだ。
高地性集落が問題になったのは、弥生時代中期には多くのムラ権力が互いに対立、略奪、併合を繰り返し、巨大化されていく過程にあったということにあった。いわば「弥生戦国時代」の象徴という見方だ。
武装するムラ、要害に囲まれたムラ、これが高地性集落であり、ムラどうしの戦いと情報連絡は、狼煙(のろし)通信でおこなった。
やがて、紀元後二世紀ごろ、弥生のムラの権力は九州や近畿の巨大なクニとして収斂(しゅうれん)されてゆく。
高地性集落は近畿では、大和や河内のクニを取り囲む高台に多く発見される。まさしく見張り、通信のための、あるいは防御の前線基地化されていくのだ。低湿地の開拓、農耕の発展と生産性の向上、やがてムラどうしの対立、武装するムラ、防衛と互いの通信。高地性集落はクニの出現への過程で生まれたムラ形態であり、弥生が戦争の時代であったことの象徴ではなかろうか。
 当交野市では標高215bといった高所に遺跡があり、採集された土器もすばらしいことから「南山弥生時代住居遺跡」と名付けている。
この南山遺跡は、昭和34年発見されて以来、発掘調査は実施されず、保存につとめられたこともあり、その実態はわからない。
極めて狭い尾根の稜線を占めて設けられた遺跡だけに小規模な遺跡と考えられる。南山遺跡の場合、遺跡下の道を西へ下ると拠点的な大規模な集落と考えられる山裾の森遺跡に出る。この二遺跡の関係は南山遺跡の僅かな人々と森遺跡に住む数多い人々間に類縁のあることを推測させられる。
まだまだ、これから「交野のロマン」を探っていきたいと思います。


2003.3.5(No76)

             吉野ヶ里フィーバー

 1989年2月、全国紙はいっせいに「世紀の大発見」を唱えた。
「佐賀平野に巨大集落跡、古代史が書き換えられる!」ひどいのになると「邪馬台国ついに発見!」これが吉野ヶ里フィーバーだ。
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡と三田川町にまたがる弥生中期の遺跡で、それまであまり注目されてなかった有明海沿岸の地で発見された。
Q:規模等について
A:総面積30f。全国最大の環濠集落である。1986年から発掘調査がおこなわれ、3年後ようやく公開された。
Q:この遺跡どのぐらい続いたのですか
A:紀元前3世紀前半〜紀元後4世紀くらいまで続いた遺跡で、驚くほど長期にわたった。
Q:吉野ヶ里遺跡は、邪馬台国ですか
A:邪馬台国ではありえない。なぜなら、邪馬台国は三世紀初頭から中期に栄えた国で、吉野ヶ里遺跡のいわゆる環濠集落としての絶頂期は最も近い時期からでも、その半世紀くらい前のものだからです。
Q:吉野ヶ里遺跡の広さとは
A:奈良県の唐古遺跡が10fで、ついで大阪府の池上・曽根遺跡で7fです。
Q:全国で環濠集落集落はいくつくらい発見されていますか
A:200以上発見されているが、たいていは1f未満のもの。
Q:環濠集落集落とは
A:自衛されたというか、武装されたムラあるいはクニで、常に戦争が前提にあった。ということは、必ずリーダーあるいは権力者、ひょっとして王に近い存在があったわけ?
 
吉野ヶ里遺跡は国名はどうであれ、確実に国として、邪馬台国以前に存在していたことがはっきりしたのだ。そうすれば、世紀の発見から、またもや「邪馬台国」への発見の旅は引き続きおこなわれるのである。
 あなたの「邪馬台国」はどこにあるのですか?

2003.3.3(No75)

      ひな祭り

 3月3日は女の節句とも呼ばれている。しかし、昔は女に限らず一家中の安全を守り、邪気を払うための節句であった。もともと奈良時代のころから人間の形=人形をつくって、罪けがれを付けて川に流したり火で焼くという人形信仰があったのであるが、それがのちには、人形をつくって、それを一回ごとに捨てずに保存するようになったものだから、人形だけがいわば独立し、最後は内裏雛(だいりひな)にまで成長してひな祭りに変化していった。
 そこで雛を祭ると同時に、その前で古代的な食物である花あられとか白酒とか、ひし餅とか、ことに草餅を食べることが行われた。これは、要するに日本の古代的食事の回復であるけれども、その中に長い民族の知恵が残ったのである。
 昔は一般に婦女子は、家庭から開放されずに、社交的な場に出るということが少なかったわけだから、その日だけは自由に友達を訪問し合って、娘に社交の機会を与えようとしたわけである。
 そこで、雛かざりの前に婚礼用具のミニチュアを並べて、ままごと遊びをさせ、女の心がまえであるところの結婚生活への準備を暗示した。つまり親が、おもちゃを通じて女子の心がまえを教えるわけで、一種の体験学習である。ままごとというのは「まんまのこと」すなわちご飯を食べるということで、炊事から食事作法を練習することであるから、要するに所帯という生活の仕方の技術の練習でもある。
 それがのちに楽しみを分かつ日になり、最後には楽しみを越えて贅沢な雛飾かざりを見せ合うという大変まちがった方向へ変わってしまった。
 しかしもともとの動機は、むしろ女性たちに、社交と主婦としての家庭経営の知恵と技術を教える日だったといっていいかと・・・思う。

2003.2.28(No74) 

     古墳とはなにか?
 
 古墳時代に古墳が作られた。といえば当たり前のように思う人が多いだろう。もちろん、そのとおりなのだが、ややこしい事情がある。
そのまえの弥生時代には古墳がなかったと、考えられていたからだ。
九州では有名な甕棺があった。また、甕棺でなくても、石槨のなかに伸展葬といって、遺体をまっすぐに埋葬している例もある。ほかにも葬式のやりかたがあるが、ともかく弥生時代には、古墳のように、盛土をして墓を造ることはなかったとされてきた。卑弥呼の墓と言われている、「箸墓古墳」
弥生時代の葬制から、古墳へと移行した際の失われた輪探しが、行われるようになった。方形周濠墓・・・周りに堀をめぐらした方形の墓なども、この失われた輪の候補になった。

 ところが、そのうち弥生時代の墓でも、盛土をして塚を築いたものが、見つかるようになった。「魏志」にある卑弥呼の墓も、盛土をした墓のように描写されている。卑弥呼の墓は、冢(ちょう)という文字で記録されているが、冢という場合、盛土した墳墓を指している。
つまり、弥生時代に古墳が発見されてしまったから、まぎらわしいことになったのだ。弥生時代の墓を古墳と呼ぶと、古墳時代の古墳と混同してしまう。そこで、墳丘墓と呼ぶことに決めた。しかし、意味から言えば、古墳は前方後円墳でも円墳でも、どれも墳丘を持っている。
 この墳丘墓が、卑弥呼の墓にあたるから、おおいに用語にこだわりたくなる。「おおいに冢(塚)を造る。径百歩」とあるから、卑弥呼の墓は、どう考えても、墳丘墓ということになるのではといわれています。

2003.2.26(No73)

 邪馬台国の謎をとく
 キイポイントとは?
 @場所・・・邪馬台国は帯方郡(今日のソウル市近郊)から
        約1万2000里の彼方にある。
        さらに奴国(現在の福岡県)から1400里にある。倭国は
        島が連なり、その周囲は5000里。ただし、1里は現在の
        ものではなく魏の時代の距離で測らなければならない。
 A人口・・・約7万戸、1戸4人としても約30万人の巨大都市だ。
 B気候・・・邪馬台国は温暖で冬でも生野菜が食べられる。
 C動物・・・サルや雉はいるが牛馬・豹・羊はいない。牧畜をしないと
        いうことだろう。
 D植物・・・樟・杉・樫・かえで・竹・橡(くぬぎ)・やまくわなど、温帯性
        の植物が繁茂している。
 E衣服・・・気候温暖なのか男は上半身裸、木綿の腰巻きのような
        ものをつけている。女はワンピース姿だ。履物はなく、
        ほとんどが裸足だ。
 F食事・・・米食、酒も好きだったようだ。
 G住居・・・竪穴式住居、高床式も見られる。
 H仕事・・・農業は稲作や野菜つくり、養蚕もおこなう。漁業は潜水
        漁法、海産物も獲った。
 I特産品・・絹織物、真珠、ヒスイ。 
 J風俗・・・男子はイレズミをしている。占いが好き。
 K卑弥呼の館・・城柵に囲まれ、物見櫓もあり、税を貯めた蔵もある。
           宮廷には女王が一人住む。奴隷もいたようだ。
 L鏡・・・・鏡が好きで、中国から銅鏡100枚をもらっている。
 M国宝・・・鏡他中国からは刀や金、朱、黄色の旗などもらっている。
 N卑弥呼の墓・・直径100歩の高塚。奴隷も埋められている。
 O周りの国・・伊都国、末廬国、奴国、不弥国、狗奴国、投馬国、
          斯馬国など40くらいの国がある。
 P金印・・・中国の王から「親魏倭王」の金印をもらっている。
 Q時代・・・弥生時代後期から古墳時代早期だといわれる。
        具体的には紀元180年ころから約1世紀は存在したで
        あろう。
  これだけの資料があるのだ。それほど難しい話ではないように思える
 が、しかしねそこには難所があるのだ。
 「邪馬台国への道のり」「邪馬台国を愛した鏡」そして「卑弥呼の墓」で
 ある。この三つをクリアすれば、「邪馬台国」が解けるのである。
                       参考文献:「邪馬台国論争・99謎」より
 大いに夢を、想像を、推理を、そして「九州説」・「畿内説」なのか?
 卑弥呼は何処・・・? 

2003.2.24(No72)

   邪馬台国ブームのすべては
 A:「この発見」からはじまった。この発見とは
 Q:京都府相楽郡山城町にある椿井大塚山古墳は墳丘191bの前方後円墳である。
 A:かなり古い古墳と言われているが。
 Q:古墳時代前期の四世紀前半のものと思われる。
 A:発見の経緯は
 Q:1896年(明治29年)に奈良・京都間に奈良鉄道が開された。
   ところが、このときにこの椿井大塚山古墳の前方部と後円部が
   切断されてしまった。当時、これが古墳であると誰も気づかなか
   ったらしい。奈良鉄道は、JR奈良線として現在も古墳の切断部
   を走っています。
 A:発見の決め手は
 Q:1953年、線路工事のおり、三面の銅鏡が発見された。
   そして、京都大学が調査し、石室から総計37面という大量の
   銅鏡の発見が確認された。
 A:ここで問題なのは三角縁神獣鏡の大量出土(23面)
 Q:三角縁神獣鏡の銘文には、魏の年号が記されているものがある。
   ちょうど卑弥呼が魏に使者を送った「景初」「正始」という年の名が
   刻まれていた。三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ではないか、と言われ
   るのもそのためである。
 A:三角縁神獣鏡の出土例は
 Q:全国でも多く(約500枚)、弥生期では見られず、古墳時代に
   入ってからである。
 A:三角縁神獣鏡が問題とされるのは
 Q:椿井大塚山古墳の33面の三角縁神獣鏡のうち23面が、各地の
   古墳19基で発見された三角縁神獣鏡と「同笵関係にあった」と
   する調査をした京都大学の小林行雄先生の研究にあった。
 A:「同笵関係」とは
 Q:同じ鋳型でつくった鏡。椿井大塚山古墳
 
   小林先生の説は、三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼が賜った「鏡」で、その鏡は邪馬台国が秘宝として管理していたが、邪馬台国がやがて初期大和朝廷となり、初期大和朝廷はその鏡をもとに鋳造し(同笵鏡)それを各地の豪族に支配の証として配った。
 だから、全国から出土する三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳と同笵関係にあるといわれている。椿井大塚山古墳の被葬者はその鏡の管理者だというのである。
 そして邪馬台国論争では必ず、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡が問題とされることとなった。
 奈良・箸墓古墳→京都・椿井大塚山古墳→交野・雷塚古墳が一直線上にあることから、ますます「交野の里」のロマンが広がりを見せ、いつか新発見のニュースが聞かれるであろう。


2003.2.19(No71)
 
謎の邪馬台国   [女王卑弥呼の国]
 2〜3世紀に倭にあったと同時代の中国の史書に記されている国。晋の陳寿(233〜297)が著わした[三国志]の一部に倭のことが書かれており、それを[魏志倭人伝]と呼んでいる。
約2000字であるが、内容は、倭の国々の位置・政治・風俗・産物・歴史などである。
 邪馬台国には卑弥呼という女王がおり、さらに約30カ国が連合して彼女に共立した。彼女は巫女のような女性で、弟がいて政治を助けている。239年、彼女は魏の都の洛陽に使者を送って奴隷などを献上し、「親魏倭王]という称号と金印、銅鏡100枚などを賜わった。その後も魏と交渉があった。
雷塚古墳 前方部より撮影
雷塚古墳
全長106m、後円部の径は56m
前方部は長さ50m、前方部先端、幅32m
くびれ部での幅22mである。
後円部の頂上は標高 155.3m
後円部が抜群に高く、くびれ部との差は11.6m
後円部に比べて前方部の幅が著しく小さく、
高さも著しく低いといった古式古墳の形態を

遺憾なく発揮している
ところで、邪馬台連合国の南側に狗奴国(くなこく)という強力な男国王があって、対立していた。
もともと、175年頃、倭国では大乱が数年つづいたが、卑弥呼を女王にたてると治まったのである。
狗奴国は、ついに邪馬台国側と交戦した。
魏は、247年、使者と詔書を送ってきて激励した。
やがて彼女は死に、径100余歩の墓に葬られた。今度は男王が立ったが、また国内が乱れたので、台与(とよ)という13歳の女王立てると、治まった。
ところで、問題は邪馬台国の位置である。
[魏志倭人伝]の記事から、朝鮮半島の南端から、対馬・壱岐をへ北九州に上陸するまでは問題がない。
しかし、その先は実際の地理と合わないため、その記事についていろいろな解釈が行われている。
邪馬台国の位置は、今日では九州説と大和説が代表的な意見である。
邪馬台国はどこにあったのか?
我々は大和説だとするならば、桜井市にある[箸墓古墳]が女王卑弥呼の墓との説もある。大和の古墳では最も古い型態をもつ前方後円墳である。
交野市・森古墳群にある雷塚古墳(全長106b)も同じタイプ(バチ形)の古墳である。
箸墓古墳と雷塚古墳の関連性は全く無いとはいえないのではないか?
邪馬台国と卑弥呼に関わった人が交野にもおられたのではないか?
すでに大和との交流があったと考えられるのではないか?
このように想いを抱いた時には「交野の里のロマン」はますます広がっていきます。


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