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11.交野弁 方言・交野ことば


あいかりひっかり

次から次へと続けて絶えずの意味を言い表す時に使う。
たとえば、「あいかりひっかりのお客さんで」=次から次へと続けてお客で、とか「あいかりひっかり、よういのかはりまんな」=毎日毎日よく働かれますね、という使い方をする。

また、「いつも」、とか「たえず」という意味の言葉としては、
しょっちゅう・・・ふだんからいつも
「しょっちゅう言うてんのにわからんか」=ふだんからいつも言っているのに解らないのか。

あじもしゃしゃりもない

味も歯ごたえもなく、まったくまずい味のことを表わす言葉で、主に果物の味を言う時に使われる。
「この柿はなんやねん、味もしゃしゃりもないがな。」と使う。


いかれこれ

あっけなく無残な結果になる。うまくしてやられる、の意味。
いかれこれは、自分の体験を人に説明する言葉で、丁度とんびに油揚げをさらわれたように、あまりにもあっけなく奪われて、くやしいことよりも、むしろ感心してぽかんとしてしまった心境を言い表す言葉として使われる。
どもしゃない・・・どうしょうもなくて諦めな仕方がない。

たとえば、 「さあ、これからやと思うてたのに、きんのうのあほ風で野菜もん全部いかれてもて、さっぱりいかれこれになってもてわちゃくちゃや。こうなったら、はよ片付けなどもしゃないな。」=さあ、これからだと思っていたのに、昨日の強風で野菜物が全部駄目になってしまって、あっけなく無残な結果になってしまって、言うこと無しですよ。こうなったら、早くあきらめて片付けなければ仕方がないな。」

いかれこれは、このようにちょっとの出来事で、長い間丹精込めて育てたものが、駄目になってしまって腹立たしい気持ちを相手に言うのではなく、自分にあきらめの気持ちを持たせる意味で言う。
世の中には、いくら苦労をしても報われないことが多い。そのようなとき、いろいろ詮索しても始まらない。むしろ、その過ちをしっかりと認識してさっぱりとあきらめ、次のことを考え、それに励むべきである。

ここにあげた三つのことばは、いずれも、このようなときに、「いかれこら」で嘆きを発散させ、「わちゃくちゃ」で諦めの気持ちを起こし、「どもしゃない」ではっきりと諦めの決心をして次の事に踏み切る自浄のセット言葉になっている。

いっこさんこ

一つのことをする機会に、他のことまで無理してでもすることの意味。
「今日は雨やけど昨日のええ天気に、洗濯から家の掃除、それに庭の掃除まで、いっこさんこにしといたんでよろしました。」とか
「今年の秋は雨で遅れたけど、こないだの日曜日にコンバインで刈って、よさりの間に乾燥してもて、あけの日に臼挽きまで、いっこさんこにやってもて、やれやれだ。」
というような使い方をしている。

「広辞苑」にいっこうさんぞん(一光三尊)=仏像で三尊(中尊と両脇士)が一つの大きな光背を負っている形式。長野善光寺の本尊がその例とある。

善光寺参りをされた人の土産話が報恩講等の説教で「いっこうさんぞん」の話を聞き、それが口伝えられているうちに、いつしか、ものごとを一つにひっくるめるというようになったと言われている。

うそうそ

夕方、日が沈んで薄暗く、人の顔の判別がし難い状態のことで、夕方遅いことを表わす言葉。
この言葉の語源は、暗くなってはっきりわからないことから、このように言い表わされたものと思われる。

「おしまいやす。えらいうそうそまで、しっぽりでんな。」というように、夕方の薄暗い中で、田圃帰りの人や職人さんに出会った人は、このようなねぎらいの挨拶を送る。
聞く人にとっては、疲れた心になんともいえない安らぎを感じさせる言葉である。

うんてんまんてん

天と地のように隔たりが大きいの意味で、
「そんなあほなこと言わんといとくなはれ、あことうちとは、うんてんまんてんの大違いですわ。」というように使う。
月とすっぽんと同じような対比言葉で、相手の考え違いを否定する言葉として使われる。

おっとまかせ

待っていましたとばかりに、応じることの意味で、
「あの人やったら、おっとまかせできやはるで」とか
「友達から電話があって、おっとまかせで出ていったで。」とか
「仕事がなかったんで、おっとまかせでくらついたら、えらいめにおおてもた。」というように使う。
この言葉の「おっと」は、おおそうかの意味を言い、「まかせ」は、任せて応じるの意味。

この二つの言葉を組み合わせたもので、非常に気易く応じることに使う。
この言葉の「おっと」は非常に旨く使われており、いかにも心のはずみと動作のはずむようすが感じられる。

ごきんとに

ご丁寧にきっちりとの意味で、
「いつでもよろしいのに、ごきんとに持ってきてもらいましてすんまへん。」とか、
「ごきんとにかえってお世話になりまんねんな。」というように使われる。
用意しておいたお金の返済や贈物に対するお返し等を、礼儀正しくわざわざ持ってきて頂いて恐縮に感じた時にこのようにいう。
律儀な人がよく使う言葉。
ご丁寧に、勤めて納めることで、「ご勤納」から来た言葉か。

こっきりこと


きれいに、全部、すっかりきれいにの意味で、
「こっきりこと食べんと、勿体無いで。」とか
「一万円やるけど、こっきりこと費(つこ)うたらあかんで。」とか
「娘二人、嫁入りさせたら、こっきりこと無いようになってしまった。」というように使う。

同義語の「すっかり」はスマートな言い方に聞こえ、後に残る響きのようなものは感じられないが、「こっきりこと」は、いかにも田舎臭く、老人の念の入った言い方が、耳にひっかかって残る感じがする。
また、すっかりは言葉に力を入れようとしても入れられないが、「こっきりこと」は強弱が乗せやすくて言葉の表情を変えることが出来る。
これは、あくまで会話として感情を伝え易くしてきた言葉なのであろう。

こずみがかかる

調子がついて、はずみがかかるの意味で、
「習字を習いかけたら、こずみがかかって止められん。」とか
「編み物をやりかけたら、ついこずみがかかってようのこと(他の仕事)を忘れてもた(しまった)。」言うように使われる。
このように習い事、勝負ごとなど一旦興味を覚えれば止められなくなることをこずみがかかったという。

この言葉の語源は、偏む(こずむ)=傾く、倒れ掛かるよりきてるものと思われる。
即ち、かかるで、一層傾くで止まらない意味となり、偏みがかかると上手く言い表したものと考えれる。

じごわ

たやすく見えるがなかなか強くねばりがある。やさしそうでなかなか手強いという意味で、
「この枝えらいじごわで折れんわ。」とか、「そんなじごわなこと言うては、人は相手にせんようになるで。」と言うように使われる。
 じごわとは、竹を素手で折るようなもので、割れて折れかかっても、それぞれの筋が非常に強くて、尋常なことではなかなか折れない。このように手強いことをいう。地強と書くのかもしれない。

また、人柄が素直ですっぱりした人のことを、竹を割ったような人という。じごわな人というのは全く正反対で、竹を素手で折るように手強い人である。強情な人は自分の面子が保てば折り合うが、じごわな人は曖昧な妥協ということはなく、あくまで正論でなければ納得しない。

しんどをかける、きしんどをかける

この二つの言葉は大変つらい厄介なことをお願いするとか、大変気苦労なことをお願いする場合に使われる。
なお、しんどをかけるという場合は、肉体的なこと、精神的なことを含めて使われ、特にきしんどをかけるという場合には、交渉ごと、仲裁、仲介等をお願いするときに使われている。

 一般にしんどいとは辛労のことで、自分が体験して大へんな労苦(苦しい、つらい、きつい、疲れた等)を表現する言葉である。このような労苦を人にお願いするとき、交野の人たちは二通りの使い方をする。
 一つは、普通に考えてしんどいと思われることを頼むときで、「しんどいこと言いまっけど頼みまっさ」とか、「しんどいめにあわしてすんまへんけど頼みます」といい、もう一つは、物事の内容が非常にしんどいと思われるとぎ
には「しんどかけまっけど頼みまっさ」とか、「きしんどをかけてすんまへんけど」というように、特別な使いわけをしている。
 言葉では、しんどいとしんどの違いであるが、しんどいと言ってしまえば相手の人の心にしんどいと伝わり、心の働きが鈍くなるということを意識して、軽くしんどと言うのではないかと思われる。
 このように考えると、むかしの人々が気持ちを伝える言葉を使うとぎには、こまかい心づかいをしていたようすがこのニつの言葉からもうかがえる。

せいてせかん

今すぐとはいわないが、なるべく速くして欲しいの意味で、「これ、せえてせかんけどしといてや」というように使われている。このように人から依頼された場合、どのように考えたらよいか迷われると思う。
 交野で育った人でも十分理解されてない人があるので、他所から来られた人にとっては、大変難かしいことと思われる。

 交野では急ぐことを「せく」と言う。このせえてせかんの言葉を考えると、せえて(急いで)とせかん(急がなくてよい)の組み合わされたもので直訳すると、急いで急がなくてよいとなる。しかし、下のせかんは、上のせいての反語としてかかったもので、急いで、急がなくてよいというのは、急がなくてもよいが急いでとなる。しかし、本来の意味は「あなたは」急がなくてもよいと思うが、「私は」急いで欲しいということである。この言葉は、人に物事を依頼するとぎの言葉で、少し遠慮した気持ちで言うため、このような曖昧
な表現になっている。

せちめん

けつくさいこと、世知辛いことの意味で、相手の人に正面きっていうときに使うことばである。この言葉は、「せちめんなことを言うようやけど、あの本返してや」とか「せちめんなことを言うてすんまへんが、前に立てかえといたん、千円ですねん」というように使われている。
 人に貸したものを請求するのは、大へん心苦しくなかなか言えないものである。特に親しい間柄であればなおさらのことである。このようなときに、相手の心を傷つけないよう、また自分もけちくさい人と思われないように「世知辛いことを正面から向かっていうのは失礼でどうかと思いますが」と気持ちを低くして言う前言葉として使われている。
 自分が貸したことを覚えているのは、善意が強く働いて貸したときで、忘れてしまうのは、相手の好意を十分に受け止めていなかったときに多いのではなかろうか。このように、相手もこちらの好意を十分に感じとったときあ覚えているが、善意が独走したときは忘れ去られることになるので、心すべきことだと思う。

てんぼこり

したい放題、のび放題など、なすがままに大きくなったことをいい表わす言葉であり、「うちの子は、一人息子やと思うて可愛がって育てたら、今では、てんぽこりになってもて、なぎ(難儀)してまんねん」といような使い方をする。
 樹木が天に向かってすっくと仲びたものは素晴らしい。しかし、横に広がったものは素晴らしいとは思わいですごいと感しる。人の姿も同じである。ましてや人柄として表われる心についてはなおさらのことである。この言葉は子どもの躾を考えるとき、反省の言葉として使われている。
 交野では木が繁ることをほこると言う。てんぼこりは天に向かって伸び放題に繁っていることを言う。木を子どもの心に置き換えると、何にも束縛されずに誇る(自分でよいと思って誇示する)と大変なことだと感じる。この場合、木であれば不要な枝を切り落せばよいが、心は切り落とせないことに気がつく。木や子供をまっすぐに伸ばすためには、最初からわずかずつの心遣いを加えることが大切である。


交野市史の資料を参考



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