傍示(ほうじ)の名の起こり
傍示の里風景

傍示と書いて「ほうじ」と読む

傍示とは、傍(ふだ)を立てて、ここが国境(くにざかい)であることを示したことから、つけられた名である。
傍示は河内の国と大和の国の国境である。

しかも、交野から高山を経て奈良へ通じる「かいがけ(峡崖)道」にあたっている。


かいがけ のぼれば 地蔵が笑う かいがけ地蔵
「交野郷土史かるた」より

竜王山麓一帯から南川にかけて、南山遺跡、山麓の横穴式古墳、府立交野高校の車塚古墳など多数遺跡が確認されていることから、古い時代からこの「かいがけ(峡崖)道」は、頻繁に利用されていた。

奈良時代、東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、結局、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、奈良へ行くことになった。

その一行は途中二手に別れ、一隊は枚方市の百済寺に、もう一隊は交野郡の獅子窟寺に宿泊。
そして、この「かいがけ道」を通って奈良の都に入ったと言われている。
奈良時代から平安時代以降、熊野参りの人々がこの道を利用している。

このことから、ここ傍示は、国境の標柱を立て、往来の人々にそのことを表わしたのである。


傍示の里・田植え時
伊丹一族傍示の里へ
「交野郷土史かるた」より

現在の傍示には、「伊丹」姓が多い。
この伊丹氏が傍示の里にやってきたのは、天正元年(1573)のことである。
この年、かって摂津国伊丹城の城主であった伊丹兵庫守親興が、室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と戦った。
戦況悪く、宇治の槙島城が落とされた為、親興は高槻芥川城に逃げ込んだ。

しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも親興は討死してしまった。
荒木村重は、この功によって、伊丹城主となった。
そのため、残った伊丹一族は淀川を渡って交野に逃げこんだ。
けれども、織田方の追手が厳しく、ついに寺村の竜王山のうしろ、この傍示の里に入り込んだ。

そして、この地を安住の地として、代々住んできたのである。
また、大坂の冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大坂方の武将として出陣している。