2006.1.21(土) | |
上私部遺跡は、第二京阪道路の建設に先立つ発掘調査で初めて発見された、古墳時代の大集落遺跡です。人々がこの地域に住みはじめたのは5世紀ころで、当初は数棟の竪穴式住居で生活していました。ところが、6世紀になると集落内を溝で区画するようになり、大規模な掘立柱建物を規則正しく並べて建てる集落に発展したようです。 『日本書紀』によりますと、敏達天皇6年(577)に皇后の生活をまかなうための「私部(きさいべ)」が設置されたことが記録されており、ヤマト王権の直轄地である「茨田屯倉(まんだのみやけ)」も周辺に想定されています。上私部遺跡の集落は7世紀に衰退しますが、6世紀には大王と関係の深い有力な人々が暮らしていたと考えられます。 (現地公開資料を参照しました) |
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上私部遺跡の中央東寄りから撮影 |
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大阪府交野市青山の第2京阪道路建設予定地から、古墳時代中期から後期(5世紀中ごろ〜7世紀初め)の大規模な集落遺跡が出土したことがわかった。豪族居館とみられる建物群など約140棟が見つかり、集落が次第に広がっていった様子がわかる。この時期の大規模集落跡の発見例はまれで、集落の発展過程を明らかにする成果となる。一帯を勢力下にしていたとも言われる有力豪族の物部氏との関連も注目される。 道路建設に伴い、大阪府文化財センターが約1・6ヘクタールを調査。「上私部(かみきさべ)遺跡」と命名した。西側から、東西70メートル、南北40メートルに及ぶ、居館跡とみられる溝と塀で囲まれた区画が出土、この中には建物跡(東西9メートル、南北5メートル)や倉庫跡など約20棟が整然と並んでいた。土器などから6世紀中ごろの時代とみられる。 |
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現地説明会で担当職員から説明を受ける | |
西側の区画溝跡、溝の中に木片が1本見えます | |
掘立柱跡と、竪穴住居跡が重なるように出土している | |
↑掘立柱の建物群の北側の区画溝跡 | |
上私部遺跡から出土した古墳時代後期の(6世紀)の土器 一番手前の土器は、焼いたときに松などの炎で 釉薬のような色が付着したもので珍しいものである |
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灰色が須恵器、赤っぽいのが土師器 | |
上私部遺跡MAP(周辺地図) | |
上私部遺跡周辺の遺跡について 交野市には様々な時代の遺跡が数多くあります。上私部遺跡の直ぐ近くでも、はるか昔から人々が暮らしてきたあとが見つかっています。縄文時代には有名な神宮司遺跡があり、弥生時代には私部南遺跡で集落が営まれました。交野高校の周辺では古墳時代前期(1700年ほど前)に交野車塚古墳群が作られます。また、有池遺跡では平安時代の後半から鎌倉時代にかけての水田や集落が見つかっています。 上私部遺跡と同じ6世紀頃の遺跡もいくつかあります。JR河内磐船駅の周辺にある森遺跡は、鉄作りをおこなっていた遺跡として有名です。関西創価学園の付近では土器(須恵器)を焼いた窯(大谷窯・大谷北窯)が見つかっており、上私部遺跡でみられる土器とそっくりのものも出土しています。上私部遺跡で使われた土器は、この窯で焼かれ、運ばれていったのでしょう。また、南東にある龍王山の尾根筋には横穴式石室を持ち寺古墳群が見られます。なかでも3号墳は石室もよく残っており、今も立派な姿を見ることが出来ます。この古墳群のある尾根からは上私部遺跡がよく見えることから、村の代々の有力な人々が葬られたお墓だったのかもしれません。 |
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