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後鳥羽上皇交野八郎

 平安時代の初め、桓武天皇・嵯峨天皇その外多くの宮廷人が、交野で遊猟したことは良く知られていますが、藤原時代から鎌倉時代には、あまり文献には上らない。しかし、時には天皇や宮廷人が、遊猟などのために交野地方を訪れることがあった。
 それは新古今集等当時の和歌集で、宮廷の歌人が交野遊猟を数知れず歌っている。

承久の乱の中心人物だった後鳥羽上皇(82)は、英邁で、大いに武術を好む性格の強い君主だった。その宮廷では北面の武士に対して、西面の武士を配し、射芸に優れた武士を求めたり、宮廷内に番鍛冶を設けて、みずから刀剣を鍛えるなど、あるいは宇治川で水練を実習したり、城南宮で流鏑馬をするなど、これまでの天皇や上皇とは、まるで違った活発な行動をとられた。それは鎌倉幕府が、政権を朝廷から奪い取ったことに対して、強い憤りを抱かれ、その討幕の意思の焔ともいえるものが、こうさせたのであろう。

 しかしまた、この上皇の激しい性格は、武芸ばかりでなく、和歌、管弦、蹴鞠、囲碁、双六等、多芸多能で、いずれの面でも人後に落ちることは無かった。

 中でも和歌は、新古今調の一流作者であった。この上皇の交野地方遊猟の記録はないが、その作歌を見ると、最勝四天王院障子の和歌に

  やどかさん人もかた野の笹の葉に深山もさやと霰降るなり

百首には

  やどからんかた野のみ野の狩衣ひもゆうぐれの楢のした陰

などと歌っておられる。平安時代からの遊猟の季節は、近頃と殆ど同じく、秋から翌年春の初めまでだったから、遊猟中、雪や霰の降る野に立たれたこともあったのだろう。また、近くに人家がなくて、黄葉した楢の木の下に露営しようと思われたこともあったろう。こんなにして、討幕準備のために、心身を鍛えられたのかと思われる。

 当時この地方に、交野八郎という大盗賊がいて、上皇が船で通過せられる川に、その姿をあらわした。御船を襲うつもりなのだろう。場所はわからないが、いずれ交野に近い淀川の水の上のことかと思われる。他の天皇と違って、勇壮な方のことだから、たちまち舳先(へさき)にたって、逃がさないように捕手を指揮し、櫂(かい)をとって近づく八郎を一撃に倒し、からめ取られたとの話が残っている。これも上皇遊猟中の出来事だろう。

 上皇が天皇だった時、その第一皇子が4歳で、早くも皇位を譲って、みずからは上皇となり、新天皇すなわち土御門天皇(83)の後見をしられたのである。これはすでに幕府を倒そうとの、下心があったからである。ところが土御門天皇は、その性格が大変温和でやさしい人だったから、はげしい気性の上皇は、討幕のためにもっと鍛えられるがよかろうと、交野地方の遊猟をさせられた。それは天皇が8歳の時からだった。当時のことを藤原定家が残した「明月記」によると

 建仁3年(1202)の秋10月   天皇の年 8歳 
   元久2年
(1204)5月         年 10歳
    建永元年(1206)秋          年 12歳

この三度の遊猟でも、天皇はその生来の性格で、あまり殺伐なことを好むようにはなられず、また上皇がその念願とせられる討幕についても、きわめて消極的であった。そこで、ついに上皇は、これはものにならぬと感じられ、天皇16歳の時、しいてその位を皇太弟の順徳天皇(84)に譲らされた。そして承久3年(1221)土御門上皇のいさめにもかかわらず、後鳥羽上皇と順徳天皇のはからいで討幕の宣旨が下され、やがて皇軍の敗戦によって、三上皇は配流となり、鎌倉幕府の基盤はいよいよ強固になったのである。


交野市史の資料を参考




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