交野市は、大阪府の北東部に位置し、大阪市、京都市および奈良市までの距離がそれぞれ約20kmの所にあり、古くから、この3都市の文化を吸収し、独特の風土を培ってきました。周囲は、東は生駒山系を境として奈良県と接し、西は寝屋川市、南は四条畷市、北は枚方市に接しています。
交野市の面積は、25.56Kuで人口、77,672人(令和2年9月末現在)の住宅都市です。
東西4.5km 南北6.5km 周囲27km 海抜最高345m 海抜最低15m。
面積の約半分が山地で占められ、その中に金剛生駒紀泉国定公園、府民の森などがあり、四季折々の美しい風景は市民のみならず、大阪府民、さらには近隣の人々に愛されております。
市制施行−−昭和46年11月3日
【交野市民憲章】[昭和56年11月3日制定] 日本一短い市民憲章
交野は、古くから多くの人々に愛されてきました。
私たちは、このまちの良さをいかしつつ、さらによりよい交野を求めて、 ここに市民憲章を定めます。
和 (自然と・文化と・人と)
市の木−−「さくら」(昭和47年2月25日制定)
交野は古くから桜の名所で、「太平記」に「落下の雪にふみ迷ふ、片野の春の桜がり・・・・」と記されている。
市の花−−「つつじ」(昭和47年2月25日制定)
交野市域に自生するミツバツツジ(おそめつつじ)、モチツツジの保護、増殖をは図る目的で制定。
市の鳥−−「きじ」昭和61年11月3日制定)
交野市の大切な自然を守るとともに、野鳥の保護増殖を図ることを目的に、かたのの古歌に詠まれるなど古くから交野にゆかりの深い鳥「きじ」が選ばれました。
●沿革
交野市に人が住み始めたのは、今からおよそ1万2,000年前といわれ、 古い歴史を伝える遺跡に縄文時代の神宮寺遺跡、弥生時代の南山遺跡、星田坊領遺跡などがあります。
古墳時代の前期(290年〜450年)ごろ、肩野物部(かたのもののべ)氏の祖先伊香色雄命(いかしこおのみこと)が、天野川流域に住みついて農耕文化を広めたほか、部民を使役して古墳を築きました。
一方、交野忌寸(かたのいみき)の祖漢人庄員は一族をひきいて帰化し、倉治地域から寺地域の山麓の地において、機織りの技術をおこしました。
奈良時代の条里制は今もその姿を残しています。
平安時代には天皇や皇族、宮廷の人たちが交野が原を訪れ遊猟を楽しんだことが「続日本紀」や「日本後紀」に記録されています。室町時代に入ると応仁の乱が起こり、それ以降交野も戦乱の渦中に巻き込まれました。江戸時代に入ると、交野は幕府直轄の代官と譜代諸侯の支配を受け、以後300年間農民は米麦や河内木綿の手工業などで生活を営んでき ました。
明治維新以後河内県、堺県と管轄が変わり、明治14年に大阪府管下となり、明治22年市町村制が交付されて交野村(私部、倉治、郡津)、磐船村(森、寺、私市、傍示)、星田村ができました。
昭和14年交野村と磐船村が合併して交野町となり、昭和30年町村合併促進法の施行で交野町と星田村が合併し、新しい交野町になりました。人口 わずか1万人で素朴な農山村の面影を残していましたが、昭和45年10月1日には3万3,701人(国勢調査)を数え、都市的施設の充実に努めるため昭和46年11月3日市制を施行しました。以来30年、交野は緑豊かな田園都市として7万8千余人の人口をかかえるまちになりました。
平成5年11月3日には、市民が健康で豊かな生活を実現できるように「健康福
祉都市かたの」を宣言しました。
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