私市(きさいち)の名の起こり

「日本書紀」に私部(きさいちべ)と記されている。
これは后(きさき)のためにいろいろ関係した仕事をする役所・これを私府(きさいふ)といい、その任に当たる人を私官(きさいかん)といった。
后(きさき)のために農耕をしたり、あるいは身の回りの世話をする人々を総称して私部(きさいべ)といい、いわゆる部民(べのたみ)である。

物部守屋(もののべのもりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に対抗する為、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきひめ)後の推古天皇に献上した。
この時以来、交野市の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民として組織された。

その中心になった村が私市であり、私部であった。
また、私市(きさいち)は、交野が原の中心地であり、いわゆる「私部内(きさいべのうち)」である。
これが、後世、訛って、「きさいちのうち」「きさいち」となったという。

また、私市は、磐船街道を通じて交野市と生駒郡を通じて大和の国と結ばれており、全く交易の場として無関係ではなかったと思われる。
それゆえ、発音どおり、「きさいち」の意味も加味していると言われている。