郡津(こうづ)の名の起こり

郡津と書いて「こうづ」と読む。

「こうづ」の起こりは、
村の名は郡衙(ぐんが)=(役所)の門の前から起こったので郡門村である。

最初は「こうど村」といった。「こう」は郡、「ど」は門の意味である。
ところが、いつのまにか「ど」が「づ」に変化して「こうづ」と呼ばれるようになって、本来の地名の意味がわからなくなってしまったが、漢字では「郡門村」と記していた。

しかし、江戸時代の末、文化元年(1804)大坂町奉行の命によって「こうつ」の発音どおり「郡津」と改めた。

古代律令社会において全国支配の為に国郡制が実施された。
国には国司、郡には郡司がおかれ、それぞれ国・郡を統括した。
国司は中央から派遣されたが、郡司はその地方の有力豪族が支配することが多かった。
そして郡司がその地方の民を統括し、年貢米を徴収した。郡衙跡地図

その中心地が郡衙(ぐんが)で、役所があって、米蔵等が林立していた。
この郡衙の立地状況は背後が台地か丘陵で、前面に肥沃な沖積平野ないし、開析谷が広がっている。
そして、その平野には条理に区画された水田が広がっている。

「郡津」には、倉山という地名が残り、しかも明遍寺から郡津神社にかけて一段高い台地となっている。

この台地に郡司が住み、蔵が建ち、郡司の勢力が盛んであったことを示す長宝寺が建てられていた。
また、周りには、丸山古墳、大塚,梅塚などの古墳があり、「郡津」は相当に栄えた郡衙(ぐんが)であったことがうかがえる。