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河内飛鳥の伝説
石部正志著「河内飛鳥を訪ねてみよう」を参照

1.春日仏師の伝承
 太子町春日北堂にある新池の西向のぶどう畑のあたりに、葛井寺(ふじいでら)の国宝千手観音像等を刻んだという春日仏師の家があったという。地元には次のような伝承も残る。
 その昔、春日仏師と称する優れた仏工がいた。各地の寺院よりの依頼しげくと見えて日夜余念なくのみを振るう仏師に、村人たちが声を掛けても手を休めることはなかった。いつしか村人たちは、年老いた仏師が仏像以外のものを一心に彫っているのに気づいた。
 それは今にも飛び立ちそうな一羽の大きな鶴であった。翌朝、村人たちがいつものように仏師の仕事部屋をのぞいてみて驚いた。台座に足跡だけを残して鶴が忽然と姿を消しており、どこをさがしても仏師の姿がない。
 仏師の行方を案じて集まった村人たちは、朝焼けの東の空に、何やらを背に乗せた大きな鳥が飛んでゆくのを見つけた。その後、仏師の姿を見るものはなかったということである。(太子町誌より)
 
 太子町誌に高野山のもと仏師で代々松井姓を名のる河内出自の家系の話があるが、現在、太子町には春日地区を中心に松井姓を名のる家が多い。かっての一時期、ここに仏工を業とする集団の居住があったのであろうか。
当日、探検隊の一人が目ざとく、松井姓が多いのを発見。

2.石川五右衛門の伝承
 遠州浜松に、大野庄左衛門師泰という武士の家があった。この師泰には先妻の子藤若と後妻の子柳の前というひめがあったが、彼の死後、後妻の腹心近藤助衛門膳平らがはかって相続争いとなった。
 これに対し大野家の忠臣真田哉之進らは近藤一派を打ち倒そうとしたが逆に攻められ、哉之進らは浜松の地を追われた。哉之進は妻子と一人の従者を連れて河内石川の里まで逃れ、ここに一軒家を借り妻に茶店を出させて、自らは五右衛門と名をあらため、従者の弥之助とともに荷かつぎ人足として細々と生計を立てていた。
 しかし、いつしか生活の苦しさからか、五右衛門は心ならず弥之助とともに、妻に隠れて旅人をおそう追いはぎをはたらくようになり、ついには堺・住吉・天下茶屋から京都あたりまで足にかけての大泥棒となった。
 ある時、淀川堤の橋本の宿で立派な服装をした二人の女客に目をつけ、その夜のうちにそれを殺して強盗をはたらいた。盗んだ品々を調べてみると、大野の家紋のついた守袋が出てきた。
 五右衛門はわが目を疑ったが、やはり今殺して来たのは、仇に当たるとはいえ、かっての主人の娘柳の前であった。さすがの五右衛門も巡る因果の恐ろしさに悪業の数々を反省した。しかし、時既に遅く、これより数日後ついに捕らえられ、妻子ともども京都へ送られ、七条河原で釜ゆでの刑に処されたということである。
 太子町葉室のかっては幹線道路であった小道の傍らに五右衛門の腰掛け石と伝承する石があるが、本来はこの小道によって壊された古墳の石室の一部が露呈したものであろう。

3.叡福寺の七不思議
 叡福寺応永年中行事記によると
1.聖徳太子磯長墓の墳丘を二重にめぐらしている結界石(けっかいせき)のうち、弘法大師の築造と伝承される内側の結界石の数が何回数えても合わないこと。
2.墳丘内に松のはえないこと。
3.墳丘内に笹のはえないこと。
4.洪水になるような大雨の時でも、墳丘より大水のでないこと。
5.天喜2年(1054)のこと、「吾が入滅以後430余歳に及びてこの紀文出現せん」ことを記した磁石紀文が、太子の予言どおり当時の僧忠禅によって境内より掘り出されたこと。
6.太子の母后葬送のとき、自らその棺を担って磯長の廟前までこられ、その棺の轅(ながえ)を廟の西前につきさして、「もし、吾が説く大乗仏教の法が国中に流布して、末代の衆生を救済するならば、この木が根づいて、枝葉が繁茂するであろう」と誓願されたとおりの楠木の大木が生繁っており、これを大乗木ということ。
7.正歴5年(994)僧康伝大徳が、墳墓の石室内を拝観したところ、母后と太子と妃の三つの棺があり、太子の遺骸はまるで生きるが如くに残っていたこと。
以上七つの不思議をあげている。