戻る
歴史ウォーク・竹内街道


 今回歩いたのは、二上山の西麓の磯長谷(しながだに)、---大和の飛鳥(遠つ飛鳥・とおつあすか)に対し河内飛鳥(近つ飛鳥・ちかつあすか)と呼ばれる所。
 大和側から見て陽の沈むこの地は古代「黄泉の国・よみのくに」と考えられ蘇我氏の血を引く敏達(びたつ)・用明・推古・孝徳の4帝と聖徳太子の眠る「王陵の谷」です。
 梅香が開いた形で点在することから「梅鉢御陵」と呼ばれる5陵墓を巡り、難波から磯長谷を抜け飛鳥へ大陸文化を運んだ日本最古の官道=竹内(たけのうち)街道をゆっくりと訪ね歩いた。
梅雨空のうす曇の中
二上山が美しい
壺井八幡宮の大楠木
樹齢1000年とか
泥掛地蔵で
健康と無事を祈る
源頼信の墓の脇
静かに眠る・僧隆光
聖徳太子廟
太子は母・妃と眠る
用明天皇陵
聖徳太子の父
小野妹子の墓
紅葉・桜が素晴らしい所
竹内街道を歩く探索隊 竹内歴史街道・道標
道路の整備がいい
訪ねた主なものを以下に紹介する。リーダーのI氏作成の資料集を参照
1.壺井八幡宮(つぼい・はちまんぐう)
 祭神は源氏3代。清和天皇の第6皇子貞純親王の息子経基が源氏姓を名乗り始めて清和源氏が誕生。その子が摂津の守多田満仲―その長男頼満が攝津源氏、次男頼親が大和源氏、三男頼信が河内源氏の祖となった。寛仁4年(1020)頼信は河内守に任ぜられこの地の館を営んだ。長歴2年(1038)に第3代八幡太郎義家が誕生。その後、義親→為義→為朝と継がれ7代目に頼朝となる
 壺井八幡宮は頼信の子頼義、その子義家が一門の繁栄を願って「前九年の役」の後、康平7年(1064)守護神の石清水八幡宮(京都)から勧進したもの。八幡神像は義家自作と伝える。
 また、宮司(高木家)には源氏の白旗・義家の弓・刀剣が社宝として保管されている。境内の石燈篭は神社再建時の最高責任者だった柳沢吉保が寄進したと伝えられ、元禄14年(1701)建立の銘が記されており、6月17日羽曳野市の指定文化財になったばかりである。
 また、境内には天然記念物楠の大木や史跡「壺井の清泉」(奥州から持ち帰った清水を入れた壷を井戸の底に埋めたもの)が石段下にある。

2.敏達天皇河内磯長中陵(びたつてんのう・かわちしながなかみささぎ)
 第30代(572〜585年在位)敏達天皇の御陵に比定。(考古学名=太子西山古墳)。全長113mで梅鉢御陵中唯一の前方後円墳。周囲に空堀を巡らす。内部は不明。6世紀の築造。

3.西方院(さいほういん)
 聖徳太子の侍女の月益・日益・玉照の3女が太子追悼の為推古30年(622)に創建の尼寺。

4.叡福寺(えいふくじ)
 「上ノ太子」と呼ばれる古刹。推古天皇の勅命で聖徳太子廟の香華所(こうげしょ)を建てたのが草創。後、聖武天皇の勅願で東に転法輪寺(てんぽうりんじ)、西に叡福寺を並べた。しかし天正2年(1574)「石山合戦」で織田信長により全山焼失。慶長8年(1603)豊臣秀頼が再建。

  • 多宝塔(重文)・・・承応元年(1652)建立。
  • 聖霊殿(しょうれいでん)=太子堂<重文>・・慶長8年秀頼再建。
  • 金堂・・・享保17年(1732)建造、堂内には本尊の極彩色の如意輪観音を安置。他に弘法大師作という不動明王・愛染明王がある。
     聖徳太子廟・・・考古学名「叡福寺北古墳」。自然の丘陵を削った東西52m、南北42mの楕円形状の円墳。内部は切石造りの12.6m横穴式石室。
     聖徳太子の他に母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)、妃の膳部太郎女(かしわべのおおいらつめ)の3人が合葬され、「三骨一廟」と呼ばれる。太子は推古30年2月22日49歳で没、妃はその前日、母は2カ月前の12月21日に没した。年代の確実な古墳でかつ、聖徳太子が葬られていることを否定することが困難な古墳であり、「近つ飛鳥」で唯一被葬者の明確な古墳である。

    5.用明天皇河内磯長原陵(ようめいてんのう・かわちしながはらみささぎ)
     考古学名=春日向山古墳。聖徳太子の父で第31代用明天皇(585〜587年在位)の御陵に比定。東西65m、南北60mの方墳で空堀を含めると約100m四方の墓域。

    6.仏陀寺古墳(ぶっだじこふん)
     大きな椿の根元に横口式石棺の上部が見える。蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の墓と伝える。
     下記「松井塚古墳」と同時期の7世紀後半の終末期古墳。長さ2.19m、幅1.2mの家形状。墳丘は大正時代削られた模様。凝灰岩(ぎょうかいがん)の横穴式石槨の上部が露出している。
     石川麻呂は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に蘇我入鹿(そがのいるか)を滅ぼし、後、孝徳天皇の時右大臣にまで昇進するも謀反の罪を着せられ、大化5年(649)飛鳥の山田寺で自害した。
     

  • 松井塚古墳・・・仏陀寺古墳の西80m。昭和33年井戸掘り作業中偶然発見。長さ3m、幅1.5mの小さな石室状の積石で人骨・土師器が出土した。7世後半の古墳。

    7.推古天皇磯長山田陵(すいこてんのう・しながやまだみささぎ)
     考古学名=山田高塚古墳。東西59m、南北55m、高さ11mの3段作りの方墳。幕末に大修理され最下段は原型を損なわれている。2室あり2個の石棺があった。
     日本最初の女帝第33代推古天皇(593年即位、628年没)の御陵と比定。夭折した竹田皇子(たけだみこ)と共に眠る。
     

  • 二子塚古墳(ふごづかこふん)
     二つの方墳が連なった双子方墳と言う珍しい古墳。全長61m、幅23m。同一規格、同形・同大の石室と石棺を有する。東側の石室のみ見学可能。
     元々民間所有のもので昭和31年「古墳売ります」の広告が出て、文化庁と町が慌てて買い上げた。この「二子塚古墳」が推古天皇+竹田皇子の合葬陵と言う説がある。

    8.小野妹子墓(おののいもこ)
     聖徳太子が派遣した遣隋使として3度隋へ渡る。最後は推古17年(609)に帰朝しているがその後の消息は不明。
     妹子の墓が推古陵を見下ろす景勝地に何故あるのかと言った疑問もあり、真偽の程は確かでない。

  • 科長神社・・しながじんじゃ。級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長津姫命(しなつひめのみこと)を祀る。

    9.竹内街道資料館
     竹内街道と太子町の歴史を紹介している施設。


     

  • 因みに「下の太子」=勝軍寺(しょうぐんじ)八尾市太子堂、「中の太子」=野中寺(やちゅうじ)羽曳野市野々上)である。