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伊賀上野・上野城、上野公園、
忍者屋敷を訪ねる


 8月19日、うだるような暑さの中を、国道163号線を一路伊賀上野に向かった。
途中、木津を過ぎ笠置付近で叩きつけるような物凄い雷雨に遭う。10分ばかりして小さいトンネルを出ると、うそのように雨が上がり、また暑い。右手に見える木津川の河川敷きは、沢山のキャンプ客で賑わっていた。
 上野市内に入ると、右手に綺麗な上野城が見え、国道沿いには現代風の新しい店が建ち並んでいた。
 上野公園は、夏休みの家族連れで賑わい、忍者屋敷は「くの一」の説明で人気が高く、特に子供さん達は、忍者用具を熱心に観察し忍者の真似事(忍術?)を楽しんでいた。
 また、伊賀上野は芭蕉の故郷でもあり、芭蕉記念館、生家など至るところで芭蕉の句に出会える街である。上野城からは上野市内が一望され、だんじり会館など訪ねると上野の歴史が垣間見えます。


伊賀上野城の沿革

伊賀産業文化協会 発行のパンフレットを参照

上野城

 『忍者の里』と呼ばれる伊賀国は、山に囲まれた9里四方の小さな盆地、その中心は上野市である。街の北側の丘には、白亜三層の伊賀上野城が、静かな雰囲気を醸しながら、端麗な姿を見せている。
 伊賀全土を焦土と化した「天正伊賀の乱」後、大和郡山から移って伊賀国を領した筒井定次は、直ちにこの乱によって焼かれた平楽寺跡に城廓を築き、三層の天守を構え、殿門を整えた。しかし、秀吉の没後、徳川家康が関ケ原の戦いに勝ち、豊臣政権の継承者としての地位を確立するに及んで、家康は慶長13年(1608)、定次を失政の理由をもって改易、筒井氏改易のあと、伊賀・伊勢両国の城主として、伊予から移ってきた藤堂高虎は、「津は平城なり。当座の休息所までと思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし。」との家康からの秘命を受け、筒井の故城を拡張して大改修に着手した。
 当時、戦国武将のなかでも築城の名人と評されていた高虎は、白ら縄張りを指図、目前に追る豊臣氏討伐戦に備えるため、地山を利用して濠を深くし、30mの高石垣で囲み五層の大天守を築いたのである。
 ところが、竣工直前の慶長17年(1612)9月2日、暴風雨のため天守が倒壊、そのうち大坂夏の陣で
豊臣方が滅亡Lたのと、いわゆる元和堰武(えんぶ)以後の武家諸法度によって諸大名の城普請を禁止したので、この城は再びたてられることがな〈明治維新を迎えた。
 ところで現在の伊賀上野城(雅名白鳳城)は、昭和10年川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて往時藤堂高虎が築いた基台に木造建築による模擬復興したものである。
 天守の結構は、三層三重の大天守、外壁は純日本式土蔵壁とし、本体の総丈76尺(23m)基台をあわせると110尺(33.3m)建坪面積は、71坪2合5勺(276u)である。小天守は総丈31尺5寸(9.54m)、建坪面積21坪5合5勺(83.6u)で、その構造は大天守と同様手法にとるものである。

 上野城の特徴
  ◆昭和建築の木造最後の城
  ◆内堀の石垣の高さ日本一といわれる(30m)
  ◆天守三階の絵天井は横山大観ほか名詩の色紙46点
  ◆小天守内には深さ50間(100m)の忍井戸あり
  ◆碧緑の上に鳳凰が翼をやすめる美観に似て白鳳城の雅名あり


俳聖殿

 俳聖松尾芭蕉翁の生誕300年を記念して昭和17年9月2日建立された全国に類をみない建造物である。木造8角塔建のこの建物は材を木曽御用林の払下げをうけ島田仙之介、伊東忠太氏の設計により棟梁森本源吉が建築。高さ19.14m桧皮葺殿内に伊賀焼による芭蕉翁の陶像が安置されている。建物外観は俳聖芭蕉翁の旅姿を表現したものである。俳聖殿
俳聖殿沿革
 1942・ 昭和17年、俳聖松尾芭蕉の生誕300年を記念して建立
 建設者川崎克氏、設計者島田仙之助氏・伊東息太氏
 棟梁森本源吉氏、殿内陶像川崎克氏作(伊賀焼)

伊賀上野城の年表

西暦 年号 藩主 摘要
1581 天正9年 滝川雄利 織田信長の臣、滝川雄利伊賀を領して上野城を築く。
1583 天正11年 脇阪安治 脇阪安治上野城を攻略、滝川氏伊勢へ逃れる。
1585 天正13年 筒井定次 大和郡山から移封、大改修を行う。
慶長13年改易、江戸で切腹命ぜられる。
1608 慶長13年
(藤堂藩主9代つづく)
藤堂高虎 伊予から伊賀・伊勢の城主となる。
慶長16年上野城の大改修を行い、外濠、内濠の工事はじめる。同17年大暴風雨のため竣竣工直前天守閣崩壊以後、再建せず、伊賀に城代を置く。
1825 文政8年 藤堂高猷 明治2年藩籍奉還
1935 昭和10年 川崎克氏が上野城の再建に着手。(昭和7年)現在の文化産業城を完成する。

◆開館時間   午前9時から午後5時まで
◆休館日    年末12月29日一31日
◆登閣料    個人大人500円小人200円
          団体(30人以上)大人400円小人150円
◆お聞合せ
 三重県上野市丸之内106番地
 財団法人 伊賀文化産業協会
 電話く0595〉21-3148


忍者博物館

 忍者屋敷
 忍者屋敷は、外観や内部は一般の農家のつくりと全くかわらないわら葺きの屋敷。
 実は、伊賀国高山村にあった土豪屋敷を上野公園内に移築したものです。屋敷の中にはドンデン返し、抜け道、物かくしなど特殊な装備がなされていて、当時の生活様式の中で、これら忍者たちの合理的で巧妙な仕掛けの数々を直接体験することができます。

 忍術体験館
 潜入から脱出までを案際に忍具に触れながら体験てきる「忍術体験館」。本物の手裏剣などの忍具約400点を展示、新登場のミニシアターも迫力満点です。

 忍者伝承館
 忍者の暮らしと知恵を新発見するなら「忍者伝承館」ヘ。九字法や人相字の体験、暗号の解読、古文書の翻訳など、忍術のトリツクを科学的に解明。謎に隠された忍者の素顔など、意外な発見がてきます。


だんじり祭り・上野天神祭り

だんじり

 上野天神秋祭りの本宮祭は、毎年10月25日。古式豊かな行列は神輿巡行、鬼行列と9基のだんじり巡行となります。

上野天神祭に「だんじり」が登場したのは、元禄年間(1688〜1704)で、宝暦8年(1758)の武者車の登場から現在のような車輪つきのだんじりの形態が確立されました。
 市内の九つの町で大切に受け継がれてきただんじりは、その町々の趣向を凝らしたもので形態もさまざま。中国の故事や偉人、縁起物の霊鳥獣などを金糸銀糸を贅沢に用いて描いた華麗な刺練幕や、繊細な彫金で飾られています。
 祭りの当日はにぎやかな囃子に乗せて、町の人々が絢爛豪華なだんじりを引いて練り歩きます。
 鬼の舞鬼の舞
 鬼行列の発祥は明らかではありませんが、元禄年間(1688〜1704)と推測されており、藩主藤堂高虎が病気平癒を祈祈願して能面を寄進したことが始まりではないかといわれています。
 日本一の大御幣を先頭に、修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじや)に引き連れられた大小多くの鬼たちや、鬼征伐伝説の鎮西八郎為朝が勇壮な姿を現します。使用される能面等は江戸時代初期から末期の作品が中心で、その多くは県や市の文化財に指定されています。

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