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安土城・築城年賦構造

安土城の発掘調査のことは下記HPを参照して下さい
読売新聞滋賀版「安土城・信長の夢」


安土城跡…国指定特別史跡。
 天下統一を目前の信長が天正4(576)年、
名築城家丹羽長秀(にわながひで)に命じ3年の歳月を掛けて完成した我国最初の本格的天守閣を有する近世城郭である。
 天正10(1582)年「本能寺の変」後、明智光秀
の女婿明智秀満が人城したが、光秀が山崎合戦で敗れた際、秀満は安土を放棄、坂本に戻った。後に信長の次男信雄(のぶかつ)が入り、明智の残党掃討の為城下町に放った火が城に延焼して焼け落ち今は穴太積(あのうづみ)(野面積)の石垣だけが残る。


安土城  標高198mの安土城に築かれた平山城

1.築城年賦

天正l(1573) 信長、足利義昭追放、室町幕府滅亡
天正3(1575) 信長、「長篠の戦」で武田勝頼を破る
天正4(1576)正月中旬 丹羽長秀を普請奉行に命じ築城にとりかかる
       同年2月23日 建物の一部完成
天正5(1577)8月24日 立柱
       同年11月3日 上葺
天正7(1579)5月 天主完成
       同年5月11日 信長、正式移徒(いし)
天正9年〈1581)9月 内装完成
天正10年(1582)6月2目 「本能寺の変」、信長没。
         同年6月14日 安土城天主閣炎上
天正11年(1583) 西の丸跡に秀吉、信長廟を築く

 天下人となった信長が居城として築いた安土城は城郭史上、一線を画するものとなった。
 山頂に聳える5層の天守閣はかつてない壮麗なもので宣教師ルイス・フロイス
をしてヨーロッパにもないものと言わせた(基督教国にもあるべしと思われざる甚だ宏壮なるものにして・…「耶蘇会士日本通信」)、(内部の彫刻は悉く金で……「イエズス会日本年報」)。
 山上にあるとは言え、要塞の城とは違い、まさに権力と新時代を示
す為のシンボルとしての城である。石垣で城の周囲の防御を固める城の形を完成させたのもこの城である。それまでは山の崩壊防止の為、部分的に石垣を取り入れたものはあったが、安土城は強固な石垣を大規模に取り入れ、守りを固め、より美しい城を実現、以降の城のモデルが出来あがった。
 信長時代の琵琶湖周辺の城の配置を見ると、メインの安土城、北に秀吉の長浜城、南に光秀の坂本城、そして安土城の対岸に信長の甥の織田信澄の大溝城が在り、各城は琵琶湖を渡る船で直結していた。京に通じる交通の要衝、近江を制することが日本を制することと当時言われており、その交通の重要な部分を占めた琵琶湖の水運を完全に支配する信長の城郭網である。

●設計施工の主体…尾張熱田神宮出身の岡部又衛門父子。(室町幕府の御大工=筆頭建築家)

●石塁築造…・・…戸波一門(近江穴太の特殊技術者)

●障壁画…・・…狩野永徳父子(絵師)・後藤、八阿彌一門(金工)

安土城復元模型
2.構造

 天守の外観は屋根5層、廻縁望楼型天守。内部は地下1階(石垣下。穴蔵とか、石蔵と言う。)、地上6階の7層。外観の5層と階数の不一致が草創期天守の特色。高さは丸地表より46mで我国最初の高層建築と言える。内部彫刻はすべて金。外壁は3層目までが黒、4層目が朱、5層目が金箔。屋根瓦も赤・青・金箔瓦、前列の瓦には金色の丸い飾りをつけ、屋根上には怪人面が置かれた(フロイスの記述)豪華絢欄な桃山文化を代表する建築物。

 地階・・・東西9間×南北9間(1間は2.1m)。中央に4間×6間の4階分の吹抜け空間を設け、その中央に宝塔を安置。宝塔は法華経に言う字宙の中枢=須弥山の表現であり信長は天下統一のシンボルと見た?

  1階・・・17間×17間の不等辺八角形。諸臣控室、対面所、大蔵があり、南側に座敷「盆山(ぼんさん)の間」を設けご神体たる盆石を上段書院に祭って信長の化身とし、神格化の諸行事が行われていたらしい。(イエズス会日本年報に記述。)

 2階・・・10間×12間。西北隅に2間四方の舞台を張り出す。多くの座敷を周囲に設置し広間となっていた。(今で言う議事堂か劇場のような構成。)

 3階・・・8間×11間。地階からの吹抜け空間が中央にとられ、周辺に信長常任の諸室があり、茶座敷も配置。吹抜け空間に面し高欄付き縁があり、中央に北から南へ架橋され、この橋から2階の舞台、地階の宝塔が眺められた。恰もヨーロッパの聖堂を見る思いである。

 4階・・・屋根裏部屋に相当し納戸が多い。四畳半の小座敷も在り。

 5階・・・正八角形。柱・天井はすべて朱色。法隆寺夢殿のような構成。昇り竜、下り竜、釈門十大弟子、釈尊成道説法図など極彩色で飾られた仏教的世界。

 6階・・・最上階。3間四方の正方形。廻りに高欄を巡らす。金色まばゆい室内には狩野永徳筆の金碧障壁画。

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