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大阪府岬町の古墳を巡る

歴史ウォーキングコース  約7km
  南海電車・淡輪駅→宇度墓古墳→船守神社→祗園橋→長松海岸
→寺山古墳群→番川下流遺跡→西陵古墳→西小山古墳→
真鍋古墳→白峠山古墳→南海電車・みさき公園駅

大阪府岬町の古墳を廻る写真集

 10/19(木)、朝日カルチャー歴史ウォーキング教室より、大阪府岬町の古墳群とその周辺を訪ねた。午前10時半、南海電車・淡輪(たんのわ)駅に集合。幸い爽やかな秋空に恵まれた。案内は、岬町職員の小川さん。若くて気さくな先生である。長松海岸の絵(長松海岸の堤に描かれている絵の一部)
 淡輪駅前を西に行き200mばかりで左折、南海電車を渡って直ぐに、前方に堀に囲まれた大きな古墳が飛び込んできた。宇度墓古墳である。全長170mの前方後円墳。現在は、宮内庁の管下に置かれた陵(垂仁天皇皇子・五十瓊敷入彦命墓(いにしきいりひこみことはか))となっている。先生から説明を受けていると、小型二輪に乗り日の丸をハンドルに立てた、厳しそうなご老人がお出迎えになる。もう30年からこの古墳を見守っておられるとのこと。
 再び電車道を越し岬町の旧街道に戻り、重厚な建物が建ち並ぶ住宅街を行くと左手に船守神社。境内に樹齢700年と言われる、楠の大木がありご神木として祀られている。
 大阪府随一水質が良いという番川沿いに下り、大阪湾に面した長松海岸に立ち寄り、昼食。番川には、夏は蛍が舞い踊ると言う。付近には、灯台とみさき公園があり、海岸沿いには松林が植林され、天気の良い日には四国まで見えるという磯の香りがする海岸である。ナウマン象の絵(長松海岸の堤に描かれている絵の一部
 長松自然海岸の沖合いでは、沢山のナウマン象の化石が底引き網で揚がり、現在深日にある宝樹寺というお寺に保存されていると聞く。
 大阪湾は、何万年前は水のないからからの平地で、大陸と日本列島が陸続きであった頃に、ナウマン象やオオツノシカなどをはじめ沢山の動物が渡ってきた。
 午後は、番川下流遺跡の住宅地の中を歩き、番川に架かっている祗園橋の手前で右折、南に進み再度南海電車線を越し、少し高台にある西陵古墳に到着。そこから右手に西小山古墳、その下に宇度墓古墳が見える。
 また、南の山の中腹に見える、府立岬高校にも古墳が発掘され、その下の右手に見える尾根に、白峠山古墳があると説明を受ける。
 本日の最終行程である、白峠山古墳を目指して国道26号線を黙々と歩く。
 国道から少し登ったところに、現在はみさき山荘内にある、白峠山古墳に到着。修復・復元された横穴式古墳に入り、最後は展望台に登り眼下に見える岬町を一望しながら、古墳群を確認。
 今回は大阪府最南端の岬町の古墳を廻り、紀伊から堺への海路の中間地点として古代国家政権に大きな影響を与えた町の歴史を学ぶことが出来た。私にとって貴重な歴史ウォーキングとなり大満足の一日でした。
 

大阪府岬町の古墳を廻るMAP
 

大阪府岬町の歴史(古代)
 @岬町の地理
  大阪府の最南端に位置し、東西約10km・南北約6kmの広がりを有し、総面積は約49.14ku。
西・南は和泉山脈に囲まれ、東は阪南市と丘陵を境に、また南は和歌山県に接している。北は大阪湾に面し、西から東北に連なる和泉山脈から派生した尾根が海岸付近まで及び、山地と丘陵が海岸に迫っている。 町域の大部分が山で覆われており、全面積の約80%を占めている。
 平野は、町域を北方に流れながら和泉山脈から大阪湾に注いでいる4つの大きな河川の河口付近に存在している。東から番川流域には淡輪、大川流域には深日、西川・東川流域には多奈川といった集落が存在し、これまでにそれぞれ特徴のある歴史文化を形成してきた。

 A岬町の歴史
  岬町で最古の遺跡は、淡輪遺跡である。この遺跡内で旧石器時代の石器が発見されている。また、淡輪遺跡は、大阪府下でも縄文時代の遺跡があることで有名である。縄文時代の住居跡や墓が発見されており、また、弥生時代や中世の遺跡も確認されていて、長期的にこの地で生活を営んでいたことが窺える。

 B岬町の古墳時代
  大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られた5世紀の半ば。紀伊から和泉(堺)へ向かう海の交通路としてその中間地点となる岬町は大阪湾の入り口である要因から非常に重要な地域であったようです。その理由として最も有力な根拠は、岬町には、200mを越える前方後円墳がこの狭い平野の中に2基も存在していることであります。
 岬町には、全部で40をこえる古墳があり、町内の各所で見られますが、特に巨大古墳が存在する淡輪地域では全体の80%を越える数が存在しています。
 
 淡輪地域は、前述のとおり番川によって形成された小さな平野がありますが、その平野のほぼ中央にまさに大阪湾を見下ろすように巨大古墳かあります。この巨大古墳は、西陵古墳・宇度墓古墳と言い前者は太正11年に国の史跡として、後者は、明治初期に官内庁の管轄に指定されています。
 またこれら古墳のほぽ中央には、直径約40mを越える大きな円墳があります。これは、西小山古墳と言い中から様々な鉄製の武器や勾玉などが発見されています。
 岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であります。被葬者あるいは、この地域の有力者のレペルを古墳の大きさあるいは、副葬品で比ぺるとすれぱ、かなりの権力をもつ被葬者が想像されます。
 大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わったしかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは言うまでもありません

 古墳時代の人々のくらし
 この巨大古墳が作られたことによる影響は、町内の各所で見られることが出来ます。
 番川河口付近に存在する遣跡で番川下流遺跡があります.この遺跡では古墳時代の建物跡が数多く確認されており、埴輪や塩作りの土器、たこ壺などが発見されています。
 それ以外に海岸付近で塩作りの遺跡が発見されています。古墳時代は、分業の時代でもあります。国家の基礎基盤が整うにつれ、米・鉄・塩等の生産が分業化され国の管理下におかれる時代であれぱ、恐らく岬町の古墳時代は、鉄と塩と海運業中心とした町であったように思います。


当日頂いた資料を参照にして作成しました

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