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天下分け目の山 崎 合 戦


天王山山頂天王山

  標高270.4m。丹波山地の東南端に位置。天正10(1582)年、信長亡き後の天下分け目の秀吉対光秀の合戦の舞台となったことは余りにも有名。

 

◎山崎城跡・・・当初、山名是豊氏が築城、後秀吉が大阪築城まで居城とした。天守を構築していた。現在、平坦な山頂に土塁・井戸跡が残るが非常に分かり難い。

山崎合戦

 宝積寺〜山頂間の6ヶ所に「山崎合戦」を解説した陶板画が整備された。
 (解説→堺屋太一氏、原画→岩井弘元京都芸大教授)

 天正10(1582)年6月13日午後4時、円明寺川(小泉川)を挟んで光秀軍と秀吉軍が対峙、光秀方は先鋒の斎藤道三らに加勢を加え5千、山手側の先備えに各2千、本陣の5千を含め総勢1万6千余。片や秀吉方は先鋒が高山右近(高槻城主)、中川清秀(茨木城主)ら4千5百、丹羽長秀、池田恒興軍8千、織田信孝軍4千に主力の秀吉軍2万を合わせ4万(「太閣記」による)。光秀陣営の様子(陶板画)
 高山隊が光秀軍の御牧三左衛門らに打ちかかり開戦。山手から中川、川手から池田隊が進み御牧らを包囲して討ち取る。

 御坊塚に陣した光秀は5千の旗本を率いて御牧らを救援せんとしたが比田帯刀が馬の轡を抑え勝竜寺城へ退却、態勢立て直しをを進言、光秀を城内に導入した。
光秀軍は淀、鳥羽
と敗走。
 夜半光秀は秀吉の包囲網をかいくぐり勝竜寺城を脱出、久我縄手(現、国道171号)から坂本城へ落ち延びんとしたが途中、山科小栗栖の竹薮で農民の竹槍にかかり55歳の命を閉じる。光秀軍の一部は丹波亀山へ敗走、坂本へ向かう陣との混乱を招いたことが光秀軍の壊滅を早め、この間3時間、合戦は光秀方の惨敗に終る。


6月2日・・・光秀、本能寺に信長を討つ。4日・・・光秀、近江に入る。

8日・・・光秀、居城坂本城に戻る。9日・・・光秀、京都に入る。(天下平定宣言予定)

13日・・・光秀、敗死。



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