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東海道五十六次・枚方宿

枚方宿
 秀吉築造の淀川左岸の文禄堤の上に発達し、近世初頭に成立し街道と水運の両面から宿駅として発達した町です。延長約1500mあります。明治末に京阪電車が開通してその機能は終わりました。最近までその町並みを残していました。堤町の木南邸
 枚方は京都と大阪のほぼ中間にあり、淀川に面して古代から河川・陸上交通の要衝でした。京と大坂を結ぶ京街道は秀吉築造の文禄堤の築造に始まるとされています。
 
徳川家康は慶長六年(1601)から五街道の整備に着手して、京街道も東海道の延長として、伏見、淀、枚方、守口の4宿を設けました.枚方宿の成立は明確ではありませんが、江戸時代初頭頃に整備されたようです。

 枚方宿は岡新町、岡、三矢、泥町の4か村からなります。宿場町は安永四年(
1775)三矢村明細帳に「旅籠や商売人、百姓などが入り交じる」と書かれています。農業を含む多彩な業種が混在して居住していたことが分かります。また別の資料からも半数以上が農業以外の諸営業や賃労働によって生活していました。旅籠の数は天明期(17811788)には32軒だったのが、天保十四年(1843)には69軒に増えています。三矢町や泥町に旅籠がが軒を連ねていたようです。船宿「鍵屋」、現在改修中
 享保十五年(1730)の絵図を見ますと、建物が街道の両側に立ち並び、屋根の表現は茅葺きのようです。発掘調査でも屋根瓦が出土しないことからも18世紀はじめ頃まではこの推測は正しいようです。ところが18世紀中頃に入りますと、瓦葺きの町屋が増えてきます。幕末には瓦葺きの町屋が並ぶ状祝になっていたようです。建物は街道に面した部分から、次第に時代が新しくなるに従って奥行きが出て来ます。そして淀川にむかって拡張されてゆきます。

 枚方宿は街道と水運の宿でした。従って街道に面した側ばかりではなくて、淀川に面した側にもその宿の痕跡を残しています。屋敷地裏手の水際に設けられた石垣は数カ所残っています。淀川に面した側には石垣や土手が入り組んで凸凹した状況だったようです。『河内名所図絵』には川に張りだした川座敷に降りる木戸門が描かれてきます。この木戸門が高島良一家(鍵屋 堤町)に残っています。
 
現在では淀川改修工事で失われてしまいましたが、枚方宿の荷揚げ浜である三矢浜がありました。この浜には、陸揚げ荷物、浜出し荷物の保管、船積みの手配を行う浜間屋がありました。幕末には大塚屋八郎兵衛(現在の奥田光正家)が浜間屋を営んでいました。このように枚方宿には表の街道に面した町並みがありました。重厚なつくりの民家
 枚方宿の建物の特徴には、二階の壁には漆喰を軒の裏まで塗っています。窓も漆喰を塗り込んだ太い虫籠窓(むしこまど)で統一されています。この窓は十八世紀の町屋から受け継がれています。一階には部屋の表側に出格子を設けて、入口は引き込みか摺り上げの大戸を入れています。小野誠一氏住宅では表に、揚見世(あげみせ)と半蔀(はじとみ)の組合せが残っています。枚方宿を精神的に支えてきたのは神社、寺院でした。意賀美神社、台鏡寺、願生坊、浄念寺などがあります。


枚方宿