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藤井寺市と羽曳野市にまたがって所在する
古市古墳群と周辺の遺跡を巡る

 「ヤマトタケルと白鳥伝説のまち・羽曳野市 地名の由来 

 羽曳野市の地名の由来は、ヤマトタケルが東征の帰途、伊勢の能煩野(のぼの)で亡くなり、白鳥と化して大和の琴弾原(ことびきはら)から河内の旧市邑(ふるいちむら)に飛来した(日本書紀)というヤマトタケルの白鳥伝説を踏まえ「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」とある白鳥神社(同市古市)の縁起にちなんで命名されたそうです。白鳥型埴輪(近つ飛鳥博物館内)

 大変、優美な名前ですね。
白鳥のごとく舞い上がり復活するまちづくり。
羽曳野市は「「雅のまち-はびきの」として豊かな自然と文化遺産(応神天皇陵を始め沢山の遺跡)を生かしたまちづくりを進めています。

 2002.9.21(土)、大阪・羽曳野市の「ヤマトタケルと白鳥伝説」という歴史シンポジュムに出かけ、「古事記」「日本書紀」に描かれた伝説的英雄のヤマトタケルが駆け巡った生涯に夢を馳せて来ました。
特別ゲストの女流俳人・黛まどかさん(美人ですね!)のヤマトタケルの足跡をたどる話と俳句談義に感激しました。

  最優秀入選俳句(羽曳野市長賞)
     羽曳野の夕空高く渡り鳥
  優秀作(黛まどか賞)
     恋すすむらし白鳥の胸ゆたか

興味がございましたら、ヤマトタケル伝説(羽曳野市のHP)をご覧下さい。
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/001/index.html

ヤマトタケルのような英雄が望まれる今日この頃です。

古市古墳群  
 当古墳群は、日本で二番目に大きな古墳である応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)を包括し、東西3km、南北4kmの範囲に分布する大古墳群としてあまねく知られています。
 また、翠鳥園遺跡やはざみ山遺跡は旧石器時代の遺跡として有名です。
 古市古墳群には、前方後円墳31基、円墳30基、方墳48基、墳形不明14基、計123基から構成され、群中には墳丘長200m を超える巨大な前方後円墳6基を含んでいます。
4世紀後半から6世紀中葉に形成されたことが知られています。

 この古墳群の特色は、墳丘長400mを超える巨大な前方後円墳、誉田御廟山古墳から一辺10mに満たない小型方墳まで、墳形と規模にたくさんのバラエティをもっていることです。古市古墳群図

 古市古墳群や百舌鳥古墳群に大王の墳墓と目される巨大古墳が造られるのは、5世紀を中心にする時間帯です。この時間帯はまさに中国文献に登場する倭の五王の時代と重なります。この5人の倭王の墳墓は古市古墳群と百舌鳥古墳群に築かれたのです。倭の五王は国内の政治的安定と東アジアの国際社会への雄飛を巨大な墳丘に託したのであろうか。

古市古墳群配置図 (右図) 
 @津堂城山古墳
 A允恭陵(市野山古墳)
 B中津山古墳(中津姫陵)
 C応神天皇陵(誉田御廟山古墳)
 D仲哀天皇陵(岡みさんざい古墳)
 E墓山古墳
 F日本武尊白鳥陵
 

 
  2002.10.12(土)、郷土の文化財を見学する会で「古市古墳群と周辺の遺跡を巡る」に参加した。
遺跡案内は、藤井寺市教育委員会の上田 睦氏。

ウォーキングコース  約7.5km
 近鉄古市駅→白鳥陵→軽里古墳群→古市大溝→翠鳥園→浄元寺山古墳→
墓山古墳→はざみ山遺跡→野中宮山古墳→はざみ山古墳→応神天皇陵古墳
外濠外堤(昼食)→茶臼塚古墳・他→誉田白鳥埴輪窯跡群→近鉄古市駅

古市古墳群と周辺の遺跡を巡るMAPはこちら白鳥神社の山車(だんじり)が威勢良く近鉄の踏切を渡って行った

前方後円墳の歴史編年と考察

 近鉄・古市駅に9時半集合。100人を超える参加者で駅前広場が埋め尽くされた。丁度、当日は「軽里だんじり祭り」が催されており、白鳥(しらとり)神社の山車(だんじり)が威勢良く、エイヤサーの掛け声よろしく踏み切りを渡って行った。
 上田氏の案内で、先ず白鳥交差点を南に左折して、100mばかり南進した右側に日本武尊・御陵参拝道と彫られた道標を右折して、竹内街道を真っ直ぐ西に進むと左手に立派な古墳、日本武尊(やまとたけるのみこと)白鳥陵があった。
 
竹内(たけのうち)街道は7世紀前半、推古天皇の御世に、難波から飛鳥へと通じる道として整備された国内最古の官道。東西の大動脈だった街道が走る羽曳野と藤井寺は、交通の要衝として栄えた。沿道には、応神天皇陵や仁賢天皇天皇陵など、古代の大王たちが眠る古墳が、数多く残っている。
日本武尊・白鳥陵 石畳の竹内街道
だんじりがゆっくりと進んでゆく

 竹内街道を右折して、軽里3丁目交差点を北に渡ると直ぐ左手に巾20mばかりの西北に真っ直ぐに伸びた空き地がある。ここが、古市大溝の跡地である。古代の人工水路であり、運河もしくは灌漑用水路と考えられており、掘られた時期は6世紀中頃と7世紀初め頃という2説が有力ですが、運河であるなら、水運に関係が深く、野中寺の建立氏族という説もある船氏との関係が興味深いところです。今は、一部が駐車場として利用されている。
 再び、軽里3丁目の信号を東に渡り、スーパーイズミヤの東側にある、翠鳥園遺跡公園を訪れた。サヌカイトを丁度輪切りにしたようなモニュメントの中に入ると、中央付近からサヌカイトの柔らかくて澄んだ音色が聞こえてきた。平成4年(1992)、府営住宅の建設現場から、予想もされなかった旧石器時代(20,000年前から10,000年前)の大遺跡が発見された。20,000点を超えるおびただしい数の石器類が見つかり、この場所はサヌカイトの石器制作場跡であると考えられている。 
 特に、この翠鳥園遺跡の石器類で重要なことは、石のかけらどうしがひっつき、割る前の原石の状態を復元できる接合資料が数多くあることだそうです。これを分析することによって、石を割って石器を作り上げる経過を具体的に確かめることが出来、さらに石器が残されていた位置と合わせて検討すると、20,000万年前の旧石器人がこの場所で行った石器作りの様子を再現することができることなのです
 昨年11月に、はびきの歴史シンポジュム「復元!旧石器人のアトリエ」に参加して、翠鳥園遺跡の発掘状況や実際にサヌカイトを打ち砕いて石器を作る過程などを詳しく説明を受けた。また、打ち砕かれて石器が作られた後のサヌカイトを接合する技術など大変興味深く拝聴したことを昨日のように思い出します。20,000年前から10,000年前にかけて積もった黄灰(おうかい)色の粘土層に覆われた形で、サヌカイトの小さな破片が次々と発掘され、それを一点ずつ記録し保存、接合する作業の労力の大変さに驚いたものです。
 また、この遺跡付近からも沢山の古墳の跡が発掘されている。
古市大溝跡地
現在は駐車場になっている
翠鳥園
サヌカイトを輪切りにしたモニュメント
 
 イズミヤの駐車場を西に迂回して、青山を北へ、青山古墳群へ、7基が発掘されていて円筒埴輪、家、馬、盾、衣蓋、人物などの形象埴輪が多く出土している。続いて、墓山古墳、浄元寺山古墳、西墓山古墳と巡った。墓山古墳は、古市古墳群の中でも5番目に大きな古墳で、応神天皇陵の陪塚とされている。1976年の調査では、斜面に葺石がみとめられ、転落した円筒埴輪や盾、等身大の人物埴輪(最古のもの)が出土している。
 ものの5分も歩けば、また次の古墳と、まったく古墳の町である。野中宮山古墳、はざみ山古墳、蕃上山古墳を廻って、国道170号線を東に渡ると、もう応神天皇陵の大きな山の茂みが見えてきた。さらに近づくと陵の堤の跡地には沢山の野菜やイチジクの木が植えられていた。ずーっと見渡すばかりの大きさである。堤の跡地の道路を南に5分ばかり歩いて、史跡公園で昼食。陵の周りを巡ることは出来なかったが、あらためて大きさにビックリ。
 パンフレットによれば、10階建てのビルに相当する高さで、積み上げた土の体積は140万立方メートル余りで、大型のダンプカー17万台分ものとてつもない量になる。そのために必要な労力は延べ140万人にのぼり、一日1000人が働いたとしても4年もの歳月が必要だそうだ。

 昼食後、陪塚のアリ山古墳、東山古墳を見学した。特に、アリ山古墳の中心部からは、刀や剣、鏃(やじり)、刀子(とうす)などの武器、斧や錐(きり)、鋸(のこぎり)などの工具といった、おびただしい量の鉄製品が出土した。応神天皇陵古墳の主の権力の大きさをまざまざと見せ付けるかのように、陪塚の内部には、貴重な鉄製品が惜しげもなく埋められたいた。
 午後は、茶臼塚古墳、越中塚古墳、野中古墳、向墓山古墳を見学、再び墓山古墳の東側に出て、羽曳野市役所を通り過ぎて最後は、誉田白鳥遺跡で埴輪の窯跡を見学して解散した。

 170号線を東西に、白鳥陵、応神天皇陵をはじめ大小、20箇所余の古墳、遺跡を巡り担当者から詳しく説明を受け一日、楽しく歩いた。ほとんどの古墳から白鳥の埴輪が出ていること、また埴輪のハケの模様と大きさにより時代を区別するなど興味ある話が聞けました。
 それにしても、応神天皇陵の大きさには本当にビックリしました。
 また、応神天皇陵など大王クラスの埴輪は、古墳を造る際に古墳の近くに埴輪の窯を造り、焼き上がった後は窯を壊したのではないかとのことでした。近くに白鳥埴輪窯跡が発掘されているが、窯跡からは大王陵クラスの古墳の埴輪が見つかっていないそうです。
墓山古墳の濠 応神天皇陵の西側堤

 当日廻った史跡のミニガイド (今回巡った古墳・遺跡を紹介)

日本武尊(やまとたけるのみこと)白鳥陵日本武尊・白鳥陵
(軽里大塚(前の山)古墳)  5世紀後半の築造
 羽曳野丘陵から東側に低く舌状に延びた尾根上に前方部を西に向けてる。
墳丘長190m、総長45m。当古墳群の中で、南部の古墳群の中では最大規模。
後円部に10cm間隔で円筒埴輪が並べられていた。他に朝顔埴輪や家・衣蓋埴輪が出土している。
 記紀の白鳥伝説に由来する、日本武尊(第12代景行天皇の皇子)の墓とされているが、根拠に乏しい。


古市大溝 6世紀以降に築造された。
 富田林市喜志付近で石川の水を取水し、古市古墳群を北流し、東除川に流れ込むと推定される古墳時代の溝です。巾8m、深さ4.5mもあり、全長10km程あったと考えられている。
6世紀以降に築造された。


翠鳥園(すいちょうえん)遺跡 後期旧石器後半の遺跡。
 石川左岸に広がる低位段丘上に位置し、標高35m。
1992年の調査で、多量のサヌカイト製の石器が出土、遺物の大半が石核と剥片で占められ、制作場所であったと考えられている。
石器製作の作業工程を知るに重要な遺跡となっている。

墓山古墳 5世紀前半の築造。応神天皇陵の陪塚とされている。応神天皇陵から出土した円筒埴輪
 古市古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を西に向ける大型の前方後円墳である。
墳丘長225m、総長300m。古市古墳群の中で5番目に大きい。
浄元寺山古墳、西墓山古墳など4つの陪塚がある。西墓山古墳は、1988年に発見され、20mの方墳で、副葬品のみの古墳と考えられ、200点以上の鉄製武器や2000点以上の鉄製農耕具が出土している。

野中宮山(足塚)古墳 5世紀前半の築造
 前方部を西に向けた前方後円墳。
墳丘長154m、総長200m。造出しに壺型埴輪列の他、家、衣蓋、盾、囲み、水鳥、鶏、馬、猪などの形象埴輪が並んでいた。特に馬形埴輪は最古と考えられている。

はざみ山古墳 5世紀中頃の築造
 古市古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を東に向けた前方後円墳。
墳丘長103m、総長186m。墳丘斜面に葺石、平坦面に円筒埴輪列。円筒埴輪窖窯(あながま)導入期のもので、応神天皇陵出土に似ている。


応神天皇陵古墳 5世紀中頃をくだらない時期の古墳。
(誉田御廟山(ごびょうやま)古墳)応神天皇陵古墳
 当古墳は、古市古墳群の代名詞となっているといっても過言ではないでしょう。
墳丘の全長425m、最大幅300m、後円径250m、高さ36m。墳丘長は、堺市の大仙古墳(仁徳天皇陵)に次いで2番目、表面積や体積では最大である。
 10階建てのビルに相当する高さで、積み上げた土の体積は140万立方メートル余りで、大型のダンプカー17万台分ものとてつもない量になる。そのために必要な労力は延べ140万人にのぼり、一日1000人が働いたとしても4年もの歳月が必要です。
 前方部は北北西を向き、墳丘を三段に築きくびれ部両側に方壇状の造出しを備え、濠と堤を二重に巡らしている。東側は二ツ塚古墳(4世紀末頃)を意識して、これを避けるようにくびれている。
 墳丘、堤には葺石が施され、円筒埴輪列がめぐり、円筒埴輪はすべて窖窯(あながま)で焼かれていた。家、衣蓋、盾、水鳥、馬形などの形象埴輪があり、魚形土製品もある。

アリ山古墳 5世紀中頃の古墳誉田白鳥埴輪窯跡
 応神天皇陵の外堤西側に並んで2基の方墳があり、北側が当古墳で、南側が東山古墳である。1辺45m、高さ4.5m。古墳の中心部から木枠で囲った四角い穴の跡が見つかり、その中の一つには、刀や剣、鏃(やじり)、刀子(とうす)などの武器、斧や錐(きり)、鋸(のこぎり)などの工具といった、おびただしい量の鉄製品が納められていた。応神天皇陵古墳の主の権力の大きさをまざまざと見せ付けるかのように、陪塚の内部には、貴重な鉄製品が惜しげもなく埋められたいたのである。

誉田白鳥遺跡
 1969年に埴輪窯が11基発見され、近隣の古墳に埴輪を供給した遺跡として有名。
この窯跡は、「誉田白鳥埴輪窯跡群」として国史跡となっている。
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