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   今城塚古墳現地説明会   2001.9.23 午前10時〜15時

 9/23(日)、午前9時15分頃、JR摂津富田駅に到着。駅前から臨時バスにて現地に向かう。約15分ばかりで今城塚古墳に到着した。
 外濠をぐるりと廻って、古墳の後円部に進むともう既に沢山の考古ファンで一杯であった。時間は午前9時45分頃だった。高槻市の職員さんから現地説明会資料を頂き、立ったままで目を通す。2列に並び、後ろを振り向くと10分もすると、何百人と列に並んでいる。やはり、大王級の古墳の発掘(特に沢山の形象埴輪が出土した)は、極めて関心が高い。良い天気で暑い。それでも古墳の樹木の陰があり、他の古墳現地説明会と違ってまだしのぎやすい。列はのろのろしか進まないが・・・・。
 11時過ぎ、やっと埴輪の出土現場に近づき、埴輪の出土現場の写真を次々と撮影した。
太刀、盾、囲い、家、人物、動物、鳥、などと埴輪の破片の近くに標識が立てられていた。円筒埴輪の破片も一列に並んでいた。今回の発掘では、わずか126uの範囲内に、61点もの埴輪が出土した。
ますます、これからの発掘調査が期待されるところだ。 

古墳の後円部の丘は
沢山の考古ファンで一杯
形象埴輪の出土現場 家の形象埴輪の破片
人物(巫女・武人の
埴輪)など
外濠の発掘現場 上の段に、沢山の形象
埴輪が出土した

第5次今城塚古墳の調査(現地説明会資料)

調査地 高槻市郡家新町
調査面積 約680u
調査期間 平成13年6月25日〜現在調査中
調査主体 高槻市教育委員会 文化財課 埋蔵文化財調査センター
調査担当者 宮崎康雄 高橋公一 西村恵祥

1.はじめに

今城塚古墳は6世紀前半に築かれた淀川北岸で最大の前方後円墳で、二童の濠をめぐらし、総長は350mをはかります。「今城」の名は戦国時代に墳丘や濠を利用して城砦とされたことに由来します。

本市教育委員会では今城塚古墳の保存整備に向けて平成9年度から規模確認調査を実施しています。過去4回の調査では、墳丘と内濠・外濠などの規模や形状、その後の改変の様子などを知る手がかりを得たほか、戦国時代の今城山城築城時に組織的におこなった大規模な土木工事や、大地震による墳丘崩壊の状況が判明しています。

今回の第5次調査は、古墳北側の内堤から外濠にかけての形状や遺存状況を把握するためのもので、調査区を北側内堤中央部に設定し、実施しています。

2.調査でみつかったもの

く内堤>

上面幅が約23mと調査区周辺部での幅約18mよりも広くなっていました。北端部から南約6mまでは北側の外濠に向かってゆるやかに傾斜しています。

内堤上面から検出したものは円筒埴輪列と形象埴輪群及び溝2条などがあります。

円筒埴輪列は内堤の南北に各一列あり、14.7mの間隔をとり内堤と平行に並んでいました。現存するのは基底部付近のみで、体部はすでに破損していました。円筒埴輪には基底部付近の外径が40cm前後のもののほか、約45cmの大ぶりの埴輪と35cm前後の小ぶりの埴輪が混在していました。前者は北側、後者は南側埴輪列でより多く使用されていました。また、埋める深さが一定でなく、周囲や底に小石等を据えているなど、埴輪列の高さや傾きを整えるための工夫がうかがえます。

形象埴輪群は北側円筒埴輪列の北約126uの範囲にまとまって検出しました。

これらは少なくとも、家4、囲い10、器財(蓋2、大刀6・盾1、靱(ゆき)1)、人物(武人2、巫女6、カ士2、椅子に座る人物2)、動物(馬1・犬?4・鶏1・水鳥7)などがあります。そして、基底部か遺存して本来の位置がわかるものだけでも61点以上あります。家形埴輪には円柱を持つ高床式で屋根を千木や鰹木で飾る神殿様の希有な例や、内部に須恵器の杯を据えた珍しい例もあります。囲い形埴輪は南北一列に並び、埴輪群を東西に分断するように区切っていました。人物では玉纏大刀(たままきのたち)を佩いた武人や椅子に座したとみられる人物があります。

これらの埴輪はすぺて北西約1.2kmの新池遺跡でつくられ、運ばれてきたものと考えられます。

円筒埴輸列に挟まれた内堤の中央部では凝灰岩と鉄斧が出土しました。凝灰岩は二上山産出の白石とみられ、表面にはノミで加工した痕跡を留めています。この周囲には拳大以下の小片があり、加工の残滓とみられます。後円部出土の白石製石棺片と比べて仕上げが粗く、棺そのものではないようです。出土位置が円筒埴輪列の中間で造り出しの真正面に位置することや、石全体の長軸が内堤に平行であることから、意図的に据え置かれたものかもしれません。鉄斧は南北の円筒埴輪列の中間地点、内堤表面が土塁状に高まった部分から単独で出土し、全長8.9cm、刃幅4.7cmの袋状鉄斧です。

溝1は調査区中央付近を南北にのぴ、南側では西へ屈曲するようです。円筒埴輪等を切り込んで掘削していました。幅1.5〜1.8m、深さ0.3〜0.4mをはかります。

溝2は内堤北側をやや蛇行しながら東西にのび、溝1を切っています。幅0.4〜0.8mを測り、深さは未完掘のために不明です。溝内には埴輪が落ち込んでいました。内堤北側は、上面が北に下降することや、形象埴輪群の検出範囲では盛土の表面に礫がほとんどみられないことから、内堤本体に付加された可能性が想定され、こうしたことから地滑りや不同沈下をおこしていると考えられます。このため、溝2は第4次調査の結果ど同様に1596(文禄5)の伏見地震による地割れの痕跡である可能性があります。

く外濠>

外濠の遺存状況を確認するため、内堤北側を被う近・現代の耕作土と整地土を除去するとすぐに地山(古墳築造時の基盤層)となっていました。内堤裾部に流出土がわずかに堆積する以外外濠のほとんどは、すでに削平されていました。北側調査区中央部では耕地開発以前に埋没した幅7m、深さ2mをはかる東西方向の大溝を検出しました。埋土には砂や礫が多く含まれ、一定量の水流があったことがうかがえます。底から家形埴輪、埋土上層からは11世紀中頃の瓦器椀がみつかりました。

3.調査でわかったこと

今回の調査では今城塚古墳北側の状況、とくに内堤での円筒埴輪列・形象埴輪群について良好な資料を得ることができました。とくに形象埴輪群は家、大刀・盾や人物などを列状あるいは群をなして計画的に配置していることが確認され、大王陵級の埴輪祭祀の実態がうかがえる貴重な資料となります。また、形象埴輪の配置状況をみると、埴輪祭祀の実施にあたっては古墳の北側(外側)からの視点を強く意識しているようです。なお、この形象埴輪群は今回の調査区域外にも広がつていることから、今後の調査が期されます。

出土埴輪の復元想像図



◆高槻・今城塚古墳、王冠の埴輪も
 読売オンライン関西発 より掲載 2001.9.24


 継体天皇陵との説が強く、古墳時代の大王(天皇)の葬送儀礼を再現したとみられる埴輪(はにわ)群が出土した今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市郡家新町)で、さらに王冠の一部と鷹匠(たかじょう)の手の埴輪が出土していたことが二十三日わかった。高槻市教委は「大王の後継者か有力な豪族、鷹狩りの長も葬送儀礼に参加していたことを示す資料で、大王の葬送の細部がより明らかになった」としている。また、この日、現地説明会があり、古代史ファンら六千五百人が訪れた。

 王冠の埴輪は二片あり、一片は幅十二センチ、高さ十センチで丸みを帯びており、もう一片は底辺七センチ、高さ六センチの三角形状。すでに見つかっていた、イスに座る人物埴輪の近くにあった。この人物にかぶせていたと見られる。鷹匠の手は、武人の埴輪の近くから出土。長さ十二センチ、幅六センチで、鷹を止める小手も描かれている。王冠の埴輪の一部

 今城塚古墳は六世紀前半の前方後円墳で、考古学界では継体天皇陵とされている。市教委は「古墳時代、大王が鷹狩りを行い、イノシシを捕まえていたという文献があり、鷹匠が葬送儀礼に参加する地位にあったことがわかる」という。

 甲子園短大の原口正三講師(考古学)は「王冠をかぶっていた人物は、大王の後継者か有力な豪族だったと思うが、大王そのものだった可能性もある。儀礼時の様子を考えるうえで、人の配置がわかる貴重な資料だ」と評価している。(9月24日)

 写真=現地説明会には多くの見学者が訪れた(23日、大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳で)


今城塚古墳 2001.9.20 Asahi.comより掲載
 

最大級の家形埴輪、巫女埴輪など出土 大阪・今城塚古墳

家形はにわ(手前)をはじめ、多数のはにわが出土した今城塚古墳=20日午後、大阪府高槻市で

 真の継体天皇陵とされる大阪府高槻市の今城塚(いましろづか)古墳から、推定で高さ約170センチの国内最大級の家形埴輪(はにわ)が出土したと、高槻市教委が20日、発表した。巫女(みこ)や武人、鶏などをかたどった埴輪も一緒に出土しており、60点を超える埴輪群は大王(継体天皇)の葬送などの儀式を再現したものとみられる。家形埴輪は神殿風で、王宮の建物を模したと考える研究者もおり、未解明の天皇陵の実態を知る貴重な手がかりになりそうだ。

 今城塚古墳は6世紀前半に築かれた全長190メートルの前方後円墳。市教委によると、埴輪群は古墳北側の外濠(ぼり)と内濠の間にある堤の中央で確認された。約125平方メートルの狭い範囲に家形埴輪4点、武人2点、巫女6点、力士2点のほか、鶏や馬など動物をかたどった埴輪などが配置されていた。

 巫女が並び、いすに座った身分の高い人物らしい埴輪が整然と配置されていることから、市教委は大王の葬送儀礼を模したものとみている。埴輪の多くは破損しており、今後1年がかりで復元作業を進める。

 家形埴輪の土台には、直径約13センチの円筒の柱が残り、屋根を飾る千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)などの破片が見つかった。高床式で、幅110センチ、奥行きが80センチあり、高さは約170センチと推定される。市教委によると、大きさは76年に同古墳で見つかった幅82センチ、奥行き57センチ、高さ159センチの家形埴輪をしのぎ、国内最大になるという。

 宮内庁は、同古墳から西へ約1.5キロ離れた大阪府茨木市の太田茶臼山古墳を継体天皇陵に指定しているが、埴輪などの研究から継体天皇が亡くなった6世紀前半より1世紀ほど古い古墳の可能性が高く、今城塚古墳が真の継体天皇陵という見方が定着している。

 同古墳は国の史跡で、高槻市教委が97年から発掘調査を続けている。説明会は23日午前10時から、高槻市郡家新町の現地で開かれる。

     ◇

 国立歴史民俗博物館の白石太一郎教授(考古学)の話

 今城塚古墳が継体天皇陵であることは学問的には認められており、被葬者が特定できる非常に貴重な古墳と言える。今回見つかった埴輪群も天皇陵にふさわしい規模と内容で、大王の実態を解く手がかりになる。同じクラスの天皇陵の調査ができない状況のなか、素晴らしい成果だ。(20:28)

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