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恭仁京から紫香楽宮へ
2001.12.8 大阪→京都・恭仁宮跡→滋賀・紫香楽宮跡→大阪
京都府相楽郡加茂町恭仁京から滋賀県甲賀郡信楽町宮町遺跡へ
12/8(土)、郷土の文化財を見学する会より恭仁京(くにきょう)から紫香楽宮(しがらきのみや)を見学に出掛けた。 聖武天皇がなぜ、5年間に都を4ヶ所も移動したのか?その背景には何があったのか?古代史のなぞ解きに行った。 それは周囲を山に囲まれた静かな台地にあった。 この山深い穏やかな土地を歩きながら、戦乱や政争、飢饉や疫病などの当時の不安定な日本の国を大仏を造り救済しょうとした、聖武天皇の強い意志を見たような幻覚を感じた。 私にとって、謎解きはまだ、始まったばかりである。 聖武天皇(701〜756、在位724〜749) 文武天皇の第一皇子。藤原不比等の娘の光明子を皇后とし、皇族から皇后を立てる習慣を破った。 仏教を信じ、全国に国分寺や尼寺を建てたほか、奈良に東大寺を創建して大仏を造り、天平文化をつくりだした。 5年で遷都4回、聖武天皇、唐まねる? 「続日本記」によると、聖武天皇は740年に平城京を離れ、恭仁宮の建設をはじめる。 742年には紫香楽宮の造営も始めたので、国家財政を圧迫し、743年末に恭仁宮建設を止めた。翌年、焼失後に再建中だった難波宮を都と宣言。ところが、天皇はその直前に紫香楽宮へ移っており、745年正月、紫香楽宮が都となった。だが、山火事や地震が相次ぎ、4ヶ月後には平城京へ戻った。 聖武天皇の側近には、唐から帰ってきた僧の玄ム(げんぼう)や吉備真備らがいた。天皇は、当時、東アジアの中で最も進んでいた唐の文化にあこがれ、玄宗皇帝(685〜762)の3都制にならったのではと言われる。 玄宗皇帝は太原、長安、洛陽の3都制を敷いていた。洛陽の郊外には龍門石窟があり、巨大な大仏が造られていた。聖武天皇が紫香楽宮で大仏を造立しょうとしたことと符合する。 (朝日新聞) |
恭仁京跡見学
恭仁宮跡は、遺跡の分類では都城(とじょう)遺跡です。都城とは、役所と天皇の住まいである宮(きゅう)と居住城である京(きょう)を備えた都市で、藤原京・平城京・難波京(なにわきょう)・長岡京・平安京そして恭仁京があります。いずれも古代において政治の中心になった場所で、今風にいえば首都です。恭仁京遷都
恭仁京は、今からおよそ1250年前の天平12年(740)から天平16年(744)の4年間、聖武天皇によって営まれた都です。天平12年10月、聖武天皇は、奈良平城京を離れ東国(今の三重・岐阜・滋賀県方面)へ巡幸しました。
恭仁京が廃都となって2年後の天平18年(746)、宮跡の中心部分は、当時、全国的に進められていた国分寺建立の動きに合わせて、山城国分寺として生まれ変わりました。
山城国分寺跡 (恭仁宮大極殿址)石碑 |
山城国分寺跡(恭仁宮址)石碑 の前で詳しく説明を受ける |
恭仁宮大極殿礎石 大極殿基壇の北西隅に残る礎石 他に、南西隅に九重の石塔の台座として使われている礎石など数点があった |
大極殿(石碑)から北方面を撮影する (田圃一帯を恭仁京跡地として保存されている) 13年度の調査で「内裏西地区、内裏東地区」が確認された 築地塀、掘立柱塀などで囲まれていた |
山城国分寺跡(恭仁宮大極殿址)の南に恭仁小学校がある、基壇より1.5ばかり低い所に建っている | 国分寺七重塔の礎石 |
国分寺七重塔の 素晴らしい礎石 |
塔の心礎 (大きさは人の足で判断ください) |
国分寺復元模型(
(山城郷土資料館に展示されている)
紫香楽宮(しがらきのみや)は、奈良時代中頃、天平14年(742)に聖武天皇によって造営され、東大寺に先がけて大仏を造ろうとした都です。
現在、黄瀬・牧の両地区にまたがる丘陵の残る礎石遺構が天皇の宮殿跡として大正15年10月20日に国の史跡に指定されました。
しかし、近年の発掘調査の結果などから、実は宮殿でなく、大仏を造ろうとした甲賀寺とする見方が有力です。
昭和58年から発掘調査を始めた遺跡で、調査では、当時の人々が使っていたさまざまな生活用品が出土しています。
特に現在の静岡県や千葉県をはじめとする東日本諸国から中央政府に届けられた税の荷札や中央官庁の事務内容を書きしるした木簡が出土したことから、この遺跡こそ聖武天皇の宮殿があった紫香楽宮の跡地と考えられています。
信楽町の北部にある飯道山(標高646m)は、その山容から古代からの山岳信仰の聖域であったことが推測され、『延喜式』には「いいみちじんじゃ」の名で見ることができます。
紫香楽宮の東脇殿(手前)などの遺構が出土した宮町遺跡(中央右側が2棟の建物跡、上方が西脇殿跡、本社ヘリから) |
聖武天皇の紫香楽宮(七四二―四五)があった滋賀県信楽町の宮町遺跡で、国の政治や儀式を行う朝堂院の東脇殿(わきでん)とみられる奈良時代中期の掘っ立て柱建物跡などが出土したと、信楽町教委が十三日発表した。昨年わかった全長百メートルを超す西脇殿と対になっており、他の古代宮殿と同じ東西に脇殿が並ぶ左右対称の配置が判明。専門家は「離宮として建設されながら、奈良時代の都・平城宮に匹敵する壮大な建設プランがあった」としている。
また両脇殿に挟まれた北側から建物跡二棟も出土。北側は長さ二十・八メートル、幅十一・九メートル、南側は長さ二十七・六メートル、幅十一・九メートルでいずれも四面庇の豪華な構造。天皇が政治を行った大極殿との指摘もある。北側の建物を取り壊した跡に門(幅十四・六メートル)と塀(長さ六十五・三メートル)を建設しており、これらの配置から朝堂院全体は約百三十メートル四方以上らしい。
◇計画性しっかり
紫香楽宮跡調査委員会委員長の小笠原好彦・滋賀大教授(考古学)の話「離宮規模とみられてきた紫香楽宮が、かなり計画性を持ってしっかりと建設されていたことが分かった。北側には内裏もあったはずだ」
紫香楽宮 天然痘の大流行や藤原広嗣の乱(七四〇年)など社会不安の中、恭仁京(京都府加茂町)、難波宮(大阪市)と遷都を繰り返した聖武天皇が七四五年一月、最後に「新京」とした都。実質五か月間に終わったが、東大寺(奈良市)に先だって大仏を建立しようとした場所として知られる。 |
紫香楽宮跡と推定される宮町遺跡 (13年度調査区) 2棟の殿舎跡を確認、掘立て柱の建物跡 説明している人が立っている場所が 紫香楽宮の中心部分 周囲を山に囲まれた中心地点 |
左の説明している部分の南西側 2棟の殿舎跡(南側は幅12m、長さ37m 北側は幅12m、長さ27mの規模) 西日がきつかった |
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紫香楽宮の朝堂的性格を 持った脇殿(建物跡) 東脇殿(南北に長い建物跡)を確認 幅12m、長さ113m柱穴が 3〜4m間隔で21個見つかっている |
宮町遺跡から飯道山(修験山)を望む 周囲を山で囲まれている 誠にしずかな田園風景である |
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甲賀寺跡(塔の心礎) これ以外に寺の夫々の建物の 礎石が残されている |