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神功皇后の道・朱智神社、天王の石仏群

 隊長の平田さんが100キロマラソンの練習を兼ねて、交野山から傍示を越え京田辺市の天王、高船、打田地区を走り込まれており、これまでこの地区の神社や墓地、石仏などを詳しく探査されていた。3月17日にも一度、津田から尊延寺、三之宮神社(穂高)、朱智神社(天王)、天王墓地、笠上神社、須賀神社などを巡った。ここは、「神功皇后の道」ではないかと言われる。

 交野市私市には、神功皇后が三韓征伐の途中、磐船から天王へと祖父の迦爾米雷王(かじめいかずち)に別れを告げるためお出でになったという、伝説が二つある。(交野市史より)
1.なべ石 
  磐船川(天野川の上流)を田原盆地に上り詰めた奈良県と大阪府の境に、黒い大石が路上にあった。 神功皇后が三韓征伐の途中、ここまで来て炊事を始められたが、鶏の鳴き声を聞かれ、もう朝だとお感じになった一行は、大石の上に「なべ」を置いたまま、出発されたので、以来なべ石というようになった。残念なことに、河川改修工事が行われ現在はない。
2.梅の木
 神功皇后が三韓征伐にお立ちになる前、祖父の迦爾米雷王に別れを告げるため、祖父の住んでいる天王にお出でになった。そして暇乞いをしたあと、磐船谷に沿って大和に行かれる途中、磐船明神の手前に来られた時、その路傍で兵をとめ休憩して食事をとられた。食後、皇后は梅干しの種を捨てられたが、その種が芽を出して立派に成長した。
 その後、平安時代になって男山に岩清水八幡宮がまつられ、毎年秋になると放生会が行われるようになり、この放生会の渡御に御前払いとして私市村の神人が奉仕することになった。その際、神人たちはこの梅の枝を持って行列の道を払うことが、古来からのしきたりとして今に伝えられている。

朱智神社(しゅちじんじゃ)(京田辺市天王高ケ峰25)
  標高200mはあろうか、山代と大和をつなぐ平地が望める。
 主神:迦爾米雷命  配神: 建速須佐之男命、天照國照彦火明命
迦爾米雷命(かじめいかずちのみこ)=(神功皇后の祖父)を主神とし、古代この地一帯に勢力のあった息長氏(おきながし)の祖神を祭っている式内社。社伝では、仁徳天皇のとき、現在地より西方の西峰頂上に創建され、宣化天皇元年(535)天王号を付け、朱智天王と称したとされ、地名の「天王」はこれによるものとみられる。
 貞観11年(869)、朱智神社の祭神としてまつっていた迦爾米雷命(牛頭天王)を、祗園の八坂神社の前身である八坂郷感神院にうつしたことから、八坂神社の元になる神社といわれている。今は行われていないけれど、昔は祇園祭のときに天王地区の榊をうつすことが恒例となっていたようである。

朱智神社の本殿 周りの楓の緑が燃えるように美しい!
石の鳥居をくぐると左手には大きな常夜灯、
石段の途中には木造の鳥居が建ち、厳かな神域である
本殿は一間社流造・檜皮葺、 向拝の木鼻の表には牡丹、裏には狐を彫りだし、
正面の蟇股は唐獅子や牡丹等が見える。1612年再建の桃山時代の様式を伝える。

天王墓地内の石仏群 天王下樋ノ本

  天王のバス停から東へ80mばかり行った北側に天王の共同墓地がある。
六地蔵に迎えられ墓地へと上がる手前に、多尊石仏三体が大事に安置されている。
 中央の十六尊石仏は天正18年(1590)6月3日の銘があり、5段に分けた第一段目に地蔵像を、他の段には15の石仏(地蔵像、阿弥陀像)を厚肉彫りで刻んでいる。15の石仏の横には女性の名前が刻まれていることから、生前に死後の法要を営む逆修(ぎゃくしゅう)の碑と見られる。
 並んでいる三十三尊石仏は、三十三観音を刻んでいるものである。左は板碑の十六尊石仏
天王から生駒市にかけて、こうした石仏群が散在している。(京田辺市教育委員会の立て札より)


宝瓶三茎蓮を墓地内で発見! 
   (石鏃NO131号を参照)

 2002年の交野市内石仏調査の際、宝瓶三茎蓮を7体確認し、今年再度の調査で6体を発見した。
 この日も、天王墓地内で石造龕(石屋形)の内壁に刻まれているのを発見。花瓶を刻んだ石造物は数量的に多くはない。
 宝瓶三茎蓮発見に一同、大いに感動した一日でした。



石造龕(石屋形)の左内壁に
宝瓶三茎蓮が刻まれているのを発見

宝瓶三経蓮
石造龕(石屋形)の内壁に
刻まれているのを発見
宝瓶三茎蓮

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