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有池(ありけ)遺跡
現地説明会  
2002.8.10 鎌倉時代の集落跡、水路跡が見つかり、多数の遺物を出土

最近の発掘調査から〜有池遺跡(ありけいせき)より
慶長伏見地震の傷跡を発見!

2002.8.10(土)午前10時より、有池遺跡現地にて説明会が開催された。
早朝から沢山の考古ファンが駆けつけられ熱心にメモを取りながら聞かれていた。
倉治の集落のひとつである、有池集落跡が確認された。
遺跡の一部の北側では噴砂(地震の際に下から砂が吹き出した跡)も確認された。
この地震の時期は、層位からみて室町時代以降のもので、直接集落の廃絶に結ぴつくものではなかった。

有池集落がどうしてこの地域から去ったのか興味深いなぞである。
今後、第2京阪国道予定地などの発掘が進み全容が明かされる日を待ちたい。

第1トレンチ付近の地層
7層の水平な水田耕作層があり
底面は鎌倉期と思われる水田層
上が現在の水田地
沢山の考古ファンが駆けつけられ
熱心に説明を受けられる
19トレンチで井戸を確認
中央部において掘り方東西3.7×3.0m、井戸枠推定1.5×1.0m程度の井戸が確認された。
12トレンチの多数の柱穴の跡
柱の並びなどは調査トレンチが狭い範囲のため確認はできていない。
16トレンチ 
遣構は南西から北東に向って並行して流れる幅4050cmの溝2条のほか、柱穴を確認した。
足元に、噴砂が見られる
15トレンチ
鎌倉期の耕作層で、その上には整地層が認められる。また、
噴砂の痕跡なども確認できた
発掘中の有池遺跡
上は免除川の桜並木
直ぐ近くの第2京阪国道予定地
フェンスの向こうに見えるのは交野山
第2京阪国道予定地
有池遺跡に向かっている


有池遺跡現地説明会資料より(2002.8.10)

1.有池遺跡について有池遺跡地図

 倉治の伝説によると、倉治の村は中村、有池、けつりょう、鶴ケ蜂の4つの集落が集まって形成されたと伝えられている。

その内の「有池」という地名(小宇)は、免除川の南側、現在の青山4丁目内に位置している。今も倉治小学校のグランドの南側には「機物神社」の鳥居が残っている。これは、かつての「有池集落」の存在した名残りを示すものである。しかしながら、これまで、有池集落跡と推定される地域での調査が全く行われなかったために、遺跡の性格は不明であった。

 しかし、最近になって、当遺跡内が第2京阪道路の予定地となり、平成11年度に(財)大阪府文化財調査研究センターによる事前調査が実施された。調査の結果、古墳時代後期から13、14世紀に至る遣跡が検出され、はじめて遺跡の存在が確認された。

 

2.調査に至る経過

平成13年11月頃、交野市青山3丁日432番地の1他2筆の土地について、開発者より、埋蔵文化財に対する協議がなされ、当市教育委員会で検討した結果、当地は、埋接文化財の包蔵地内には含まれてはいなかったが、周知の遺跡である有池遺跡と近接していることや、センターの講査でその近接地より遺跡が確認されたことなどから、開発者の了承を得て、平成14年l月23日に事前の試掘調査を実施した。その結果、遺跡の存在が確認された。その後、開発者より埋蔵文化財発掘の届出を待って平成14年7月16日より同年8月10日までの予定で調査を実施した。

 

3.調査の概要について

今回の調査成果について当市教育委員会は文化財事業団と協力して、出土した土器等に関しては詳細な調査を行い来年3月末までに調査報告書としてまとめる予定である。各トレンチにおいて確認できた層序や遺構の概要に関してのみ、詳しく本現地説明会資料において紹介することにしたい。遺物に関して興味の有る方は後日刊行予定の報告書を見ていただきたい。

調査は第1トレンチから第25トレンチまで設定し発掘を実施した。第1トレンチはまず本調査地内の基本的層位を確認するために、地山面よりもさらに下まで掘り下げて実施した。

その他のトレンチは、第1トレンチにおける層位の確認にて、遣構が38.8mより下位において包含されていることが分ったので、38.9m付近までを重機において取り除いた。その後、建物の基礎部分で、埋蔵文化財の保存に支障がある箇所を、人力において掘削をおこなった。次に各トレンチの概要を説明しておく。

 第1トレンチは、南北に細長いトレンチで幅1〜2mを測る。層位は一番深い北側で上層より7層目までは水平な面であり、水田耕作層と思われるが、この耕地層の時期などは不明である。また、その下で確認された黒色の粘土層も、鎌倉期あたりの水田面と考えられる。堆積の浅い南側では上層より6層目までが平坦な面で、その下に地山面がきている。北側で認められた鎌倉期の水田面と考えられる粘土層の堆積は認められなかった。このことは第2トレンチ以降の調査でも述べるが、南側は居住域であったために、水田面の堆積はなかったであろうと推定される。この調査地において現在と同様の耕作面となるのは室町時代に入ってからであろう。検出した遺構は溝や柱穴のほか、第6トレンチと接する付近で多量の土器類が出土した土坑を検出している。

 第2トレンチは、東西3.3m、南北1.5mを測る。地山は38.4mにて検出した。

上層より灰色トレンチの東側で幅1.6m、深さ40cmの東から北西部にややカーブをする溝を検出した。この溝は第1トレンチ北端の断面において確認した溝につながるものと思われる。

第3トレンチは、東西及ぴ南北とも2.5mを測る正方形のトレンチである。地山は38.6mにて検出した。層位は上層より灰色土、遺物の包含層である黒色土となる。遺構は東から西に流れる幅1.5m、深さ40cmを測る溝を確認した。

第4トレンチは、東西及び南北とも2.5mを測る正方形のトレンチである。地山は38.7mにて検出した。層位は上層より灰色土、遺物の包含層である黒色土となる。遣構は西端にて幅1.2m、深さ30cmを測る土壙もしくは溝?を確認し、その遺構を切って幅40cm、深さ10cmの溝が走っていた。

第5トレンチは東西2.6m、南北2.5mを測るトレンチである。地山は38.75mにて検出した。層位は上層より灰色土、遺物の包含層である黒色土となる。遺構は南西隅において幅60cm、深さ10cmの溝と北西隅において径20cmの柱穴を確認した。

第6トレンチは東西及び南北とも2.6mを測る正方形のトレンチである。地山は38.8mにて検出した。層位は上層が灰色土で、このトレンチより以北のトレンチで確認できた遺物包含層は認められなかった。よって、この付近では削平を受けていると考えられる。遣構としては南西隅か北西部に向けて走る幅20cm、深さ10cmの溝、西端では1.3m幅の土坑や柱穴を確認した。

第7トレンチはその東端を第1トレンチによって切られているため、形は歪つなものになった。層位は上層が灰色土で、その下が地山面となっていた。地山は38.75mにて検出した。遺構は南西隅から北西部にかけて2条の溝が並行して走り、それらの溝に東から西に伸びる溝が切られていた。

第8トレンチは東西3.2m、南北1.3mを測る長方形のトレンチである。層位は上層が灰色上で、その下が遺物の包含層である黒色土であった。地山は38.4mにて検出した。遺構は南東から北西に向けて流れる幅50cmの溝を1本検出した。

第9トレンチは東西3.1m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。層位は上層が灰色土で、その下が遣物の包含層である黒色土、その下が地山面となっていた。地山は北側38.4m、南側38.6mで認められ、北側の方が一段下がっていた。この一段下がった箇所の上面には鎌倉期の水田耕作層である黒色粘土層が堆積していた。遺構は溝及び柱穴を検出している。

第10トレンチは東西3.3m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。層位は上層が灰色土、下層が遺物包含層である黒色土、その下が地山面となっていた。地山は38.7mにて検出した。遺構は南東から北西に向って流れる幅1.2m、深さ10cmを測る溝のほか、西端において幅1.2m、深さ30cmを測る上坑を検出した。

第11トレンチは東西、南北とも2.2mを測る正方形のトレンチである。層位は上層が灰色土、下層が遺物の包含層である黒色土、その下が地山面となっていた。地山は38.6mにて検出した。遺構は南東から北西部にむかって流れる幅60cm、深さ20cmを測る溝を検出した。この溝は居住域と耕作域を区画する溝であった可能性をもつ。

第12トレンチは東西3.2m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。層位は上層が灰色土でその下にすぐ地山がくる。地山は38.7mにて検出した。遺構は多数の柱穴を検出したほか、南から北に走る溝や土坑を検出した。柱穴の底には石を置いているものも確認した。柱の並びなどは調査トレンチが狭い範囲のため確認はできていない。

第13トレンチは東西3.3m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。層位は上層の灰色土の下に地山を検出した。地山は38.8mで確認された。遺構はトレンチの西側で幅3040cmの南西から北東に向って流れる2条の溝のほか、東側では幅1.8m、深さ5cm程度の浅い土坑を確認した。

第15トレンチは東西3.3m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。このトレンチでは東部が西部より一段高く、段差が認められる。そのため、東部では上層の灰色土の下に、地山の整地土、その下に遺物の包含層である黒色土が堆積する。地山は38.3mにて確認された。西部では最下層が黒色の粘土屑であり、鎌倉期の耕作層で、その上には整地層が認められる。また、噴砂の痕跡なども確認できた。西側では、地山は37.8mにて確認できた。

第16トレンチは東西3.2m、南北2.2mを測る長方形のトレンチである。層位は上層で灰色土、下層で遺物の包含層である黒色土、その下に地山が検出される。地山は38.5mで確認された。遣構は南西から北東に向って並行して流れる幅4050cmの溝2条のほか、柱穴を確認した。

第17トレンチは東西、南北とも2.2mの正方形のトレンチである。層位は上層が灰色土、下層が遺物の包倉層である黒色土である。地山は38.6mにて確認できた。遺構は東から西に流れる幅80cm、深さ15cmの清や士坑を検出した。

第18トレンチは東西3.2m、南北2.2mの長方形のトレンチである。層位は灰色土のみである。地山は38.7mで確認した。遺構は多数の柱穴が確認されたが、調査区が狭いためどのように並ぶかは明確にはできなかった。

第19トレンチは東西4.2m、南北4.0mのほぼ正方形の調査区である。堆積は東側ほど浅く灰色土のみで、西側において数層の堆積が確認できた。中央部において掘り方東西3.7×3.0m、井戸枠推定1.5×1.0m程度の井戸が確認された。

第23トレンチは東西、南北とも2.6mの正方形の調査区である。第15トレンチで確認した段差が当トレンチでも確認された。一段高いところでの堆積は上層より灰色上、遺物の包含層である黒色土があり、その下に地山が続いていた。地山は38.5mで確認した。一段低い西側では最下層に鎌倉期の耕作土があり、その上に整地層が堆積していた。同部での地山は37.5mであった。

第24トレンチは東西3.2m、南北2.4mの長方形の調査区である。堆積は基本的に上層より灰色土、その下に遺物の包含層である黒色土がある。地山は38.7mで確認した。遺構は南から北に向けて幅1.0m、深さ15cmを測る溝と柱穴を1つ確認した。

第25トレンチは東西、南北ともに2.6mめ正方形の調査区である。堆積は上層の灰色土、下層の遺物包含層である黒色土となる。地山は38.7mで確認した。遣構は南から北に向けて流れる幅1m程度の溝を2条確認した。

 

4.まとめ

 建物の基礎にあたる25箇所について発掘調査を実施した。調査の結果、1点目として、遺跡の時期が出土した土器からみて、13〜14世紀代(鎌倉時代)の間に収まること。2点目として、調査地の北側は耕作地で南側は居住地であることなどが分かった。北側の耕作域で検出した溝は、現在の水利方向と同じ向きでなく斜めにずれて掘削されている。鎌倉時代においては、現代の耕作地の区画とは異なっていたことが分かる。また、水田に伴う畦なども確認できている。同じく北側では噴砂(地震の際に下から砂が吹き出した跡)も確認された。この地震の時期は、層位からみて室町時代以降のもので、直接集落の廃絶に結ぴつくものではなかった。

南側の居住域では、多数の柱跡や井戸を確認した。また耕作域と居住域との境あたりで検出した土坑からは、枚方市楠葉付近で作られた完形の瓦器椀や土師皿が出土した。この土坑の性格は現在調査中であるが、何らかの祭祀行為があったのかもしれない。

この他、当調査地からは、中国産の陶磁器が散見されており、出土した国内の陶器なども含めて今後どこから持ち込まれたものかも調査を実施する必要がある。今年度末に向けて遺物整理を進める予定である。




最近の発掘調査から〜有池遺跡(ありけいせき)
より地震の傷跡を発見!


慶長(伏見)地震(けいちょう(ふしみ)じしん)

有池遺跡噴砂の状況 1596(文禄5・慶長元)年9月5日の午前零時頃、突如として起こった大地震は京都盆地や大阪平野に甚大な被害を引き起こしました。京都では完成したばかりの伏見城が壊滅的な被害を被り、大阪でも多くの建物が倒壊し多数の死傷者が出ました。特に震源地に近い八幡や山崎では家屋の大部分が倒壊したと記録に残っています。この地震のエネルギ−規模は、先の阪神・淡路大震災の10倍以上程度であったと推定されています。この地震は当時の交野の村々にも甚大な影響を及ぼしたと想像されますが、残念ながら何一つ記録には残されていません。
 しかしながら、土地所有者(田中孝氏)の協力を得て、7月16日から8月10日の間にかけて事業団が実施した有池遺跡(ありけいせき)の発掘調査において、この地震による痕跡と推定される噴砂(ふんさ 激しい地震によって液状化した砂が噴きだしたもの)の跡を確認しました。場所は青山3丁目432番地 倉治と私部の境を流れる免除川の南側で、すぐそばを第2京阪道路が通る予定です。
 今回、発見された噴砂は、地震当時の地表面から70p以上深い位置に堆積していた、礫(小石)を多量に含む砂層が地下水によって液状化し、鎌倉時代の遺構や遺物を含む地層と、その上の水田耕作土層を引き裂いて地面に流れ出たものでした。地面に噴き出した際の割れ目の幅は50p以上にも達していました。また、砂脈の一部が後世の免除川の決壊(1769年)による影響を受けていたことから、この地震は、14世紀から1769年までに起こったと推定されました。
今回の調査にあたり、ご指導をいただきました独立行政法人・産業技術総合研究所主任研究員の寒川旭さんの御教示によると、この地震は、震度6以上の強い地震動に伴うものと推測され、北河内域では初めて検出された大規模な液状化跡であること。前述の時期に限定される年代幅でこの現象をもたらせた地震としては、確実に震度6以上の強い揺れを与えたであろう「慶長伏見地震」による痕跡の可能性が高いと推定されました。また、興味ある話として「このような地震跡の存在は、地震に伴う様々な地変(地滑り・土石流)の存在を推測させ、当地域の郷土史上、謎とされていた現象が地震で説明ができる可能性がうまれた。」とのことでした。
 その興味ある郷土史の謎の例として、この有池遺跡の近くの神宮寺の山麓部からJR片町線付近のブドウ畑となっている上河原という地域には、かつては私部の旧集落(上私部)が存在していたとされ、太閤検地では8町5反9畝の水田が存在していたと記録があるにもかかわらず、1691(元禄4)年の私部村明細帳によると、永荒地と変わっています。また、この有池の地にも集落があって、それが現在の倉治に移ったと伝えられています。この他、倉治グラント付近にあった安養寺(あんようじ)や、関西創価学園中・高等学校の敷地内にあった無名の寺院が同時期頃までに消滅しており、さらに最近の鍋塚古墳の調査でも、鎌倉時代の遺物層の上に一時に崩れ落ちて堆積したとみられる地層が確認されています。
 今回の調査結果や寒川氏のご助言により、これらの謎の解明にむけて大きな成果を得ることとができました。 また、21世紀中頃に南海地震が起きることが確実視されていますが、今回の調査で地震における災害の軽減を考える研究の基礎となる貴重な資料が得られたと言えます。

(交野市文化財事業団のHPより転載させていただきました)
        


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