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荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡
 続いて、今回の旅のお目当ての荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡など、現地の発見現場に足を運んで実際に学芸員の方からお話を伺いながら見学出来たことは本当に良かったと思っています。

 荒神谷遺跡は、昭和59年7月、町南部の農道建設予定地から弥生時代の銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。

 加茂岩倉遺跡は、加茂岩倉遺跡は、平成8年10月14日に農道整備の工事中に偶然発見された。知らせを受けた加茂町教育委員会と島根県教育委員会は、急遽現場に駆けつけ作業の中止と現状を変更することのないよう申し入れ、その後の調査で、史上最多の出土数となる39個の銅鐸が確認された。

なぜ、こんな所に沢山の銅鐸や銅矛、銅剣が埋納されていたのだろうか?
常識をくつがえす大発見
 「分からない・・・」これは日本青銅器研究の権威、佐原真氏(当時、国立歴史民俗博物館副館長)が初めて神庭荒神谷を訪れた際の唯一のコメントだ。1984・85年、斐川町荒神谷遺跡での銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6個の大量出土は常識をはるかに超える空前の発見であった。
 さらに、1996年10月14日、加茂岩倉遺跡から日本最多となる39個の銅鐸も出土し、研究者のみならず多くの国民を驚嘆させた。
 なぜ出雲の地から大量に発見されるのか。島根における青銅器調査に対し、全国の研究者、古代ファンから熱い視線が注がれている。

古代出雲への新たな視点
 弥生時代初め、日本列島に稲作技術とともに鉄青銅の文化が伝わった。当時の人々には未体験であった青銅の神秘的な輝きや音色から、青銅器は神を呼ぶ祭器として弥生社会の祭りの首座に置かれたようだ。

 銅鐸の起源は中国や朝鮮半島で家畜の首に付けたり、呪術者が使用していた小さな鈴だとされている。日本列島では次第に大型化して、豊作を祈る祭りのカネ(銅鐸)になったと考えられる。剣・矛・戈などの青銅器ば最初は先端が鋭く刃も付けられていたが、日本列島で本格的に生産が始まると、次第に大型化して刃先も丸くなり、実用的な武器ではなく武器形祭器へと変貌していった
 青銅器は弥生社会においては、鋳造技術の高さ、原料入手の困難さなどきわめて希少価値が高く、重要な役割を果たしていたと考えられる。この貴重な青銅器をこれだけ大量に保有していた出雲の勢力は一体どのようなものであったのか。原料、製作地、枝術者、その背景の勢力など新たな視点で古代史を見直す必要がある。
 いずれにしても、出雲は他地域の文化を積極的に取り入れながらも、個性豊かな文化・独自の世界観を創造していたようだ。

             荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置と周辺の地図
 
  

荒神谷遺跡  斐川町神庭(ひかわちょうかんば) 
  昭和62年国史跡に指定 平成10年青銅器が国宝に指定

 斐川町は、人口約2万8千人の町で、島根県東部に位置し八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話で名高い斐伊川と朝日に輝く湖面が美しい宍道湖に囲まれた豊かな平野を持つ穀倉地帯である。
 町南部の農道建設予定地から弥生時代の銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。
 昭和59年7月12日の午後4時頃銅剣の一部が発見されてから358本全てを取り上げるのに1ヵ月半もかかった。
 翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。
 一度ならずも二度の大発見で、日本の弥生時代の青銅器文化の考え方を根底から覆すことになった。現在、発掘された遺跡は国の史跡に指定され、発見当時の状況をそのまま再現して、発掘現場を体感してもらえるよう史跡公園として整備されている。
 そして、平成10年、出出したこれらの青銅器は一括して国宝に指定された。

 いつ、どこで、だれが、何の為に作り、何故この地に、貴重な青銅器をこれほどまでに大量に埋めたのか?
発見から19年の歳月が流れた今でもそれらたくさんの謎は深いベールに包まれたままである。


青銅器に刻まれた×印の意味するものは?
 また、発見された銅剣358本のうち344本の茎(なかご)=根元の柄を差し込む所には、×印が刻まれていましたこの×印は、荒神谷遺跡からわずか3.4kmの距離で、1996年(平成8年)に銅鐸39個が見つかった加茂岩倉遺跡の13個の銅鐸にも刻まれていることが発見されました
 ×印は一体何を意味しているのでしょうか。
 青銅器に×印が刻まれている例は、全国のどこからも見つかっていないことから、この二つの遺跡は何らかの関係があるはずです。
銅剣の出土状況(南西から)
358本もの大量の銅剣が整然と並べられたいた
大量の銅剣:長さ50cm前後、重さ500gあまりの銅剣である、すべて中細形銅剣c類にぞくするもので、「出雲型銅剣」とも呼ばれる
 
銅鐸と銅矛の出土状況
翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された


左が、358本の銅剣、右に銅鐸・銅矛が発見された
当時のままに復元され展示されている荒神谷遺跡


荒神谷遺跡は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在し、「出雲国風土記」に記されている
神名火山(かんなびやま)・仏経山(ぶっきょうさん)の東約3km、
高瀬山北麓の低丘陵地帯に散在する小さな谷あいの一つにある。

荒神谷は、遺跡から発見された傍の山に「祟りが怖いと言いつたえのある荒神」が
祭られていることから、古来地元ではこの谷を荒神谷と呼ぶようになったと伝えられている。

   古代出雲へタイムトリップ 出雲平野と宍道湖(斐川町上空より)
 国史跡・荒神谷遺跡と仏経山(ぶっきょうさん)366m


大量の青銅器が埋められていた谷
現在、発見当時の姿を復元して
小屋が建っている左奥に展示されている
神名火山・仏経山(ぶっきょうさん)
荒神谷遺跡の史跡公園・
2000年ハス池に勇姿を映す
荒神谷史跡公園内の赤米・古代農耕地
2000年の時を経て今も花を咲かすハス池
6月中旬頃、約5000株、五万本の花が咲く
説明を聞きながら展望台へと上がる
展望台からの遺跡の全景 ひかわ銅剣の日の記念碑
昭和59年7月12日と記されている
荒神谷遺跡史跡公園・「出雲の原郷館」に
当時の輝きを復元した形で展示されている
出土した6個の銅鐸は、いずれも
20cmほどの小さなものです。
出土した16本の銅矛

加茂岩倉遺跡 加茂町
 弥生時代の原風景の中に息づく遺跡 
平成11年1月14日付 国史跡指定 約1.95ha.
平成11年6月7日付  出土銅鐸一括 重要文化財指定
 加茂町は東西に長い島根県の東部に位置している。遠く古代より人々が生活を営んできた加茂町には数多くの遺跡が残されており、特に昭和47、48年に調査された神原神社古墳からは「景初3年(239)年」銘の三角縁神獣鏡が発見され、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏から送られた鏡の一枚ではないかと全国的な注目を集めた
 加茂岩倉遺跡は、平成8年10月14日に農道整備の工事中に偶然発見された。知らせを受けた加茂町教育委員会と島根県教育委員会は、急遽現場に駆けつけ作業の中止と現状を変更することのないよう申し入れ、その後の調査で、史上最多の出土数となる39個の銅鐸が確認された。
 加茂岩倉遺跡は、陰陽を結ぶ国道54号線から細長い谷を入った谷奥にあり、銅鐸はこの谷奥手前の丘陵斜面中腹(標高138m)に埋められていた
 銅鐸埋納坑内には、出土した39個の銅鐸のうち、入れ子状態の2組4個「29号(30号)鐸、31号(39号)鐸<括弧は入れ子>」が原位置を保った状態で確認された。ともに身を横たえて鰭を立て、裾を向かい合わせにして埋納坑の長軸方向と平行に埋納されていた。また、銅鐸が埋納されていた痕跡(圧痕)も3ヶ所確認されている。
 出土した銅鐸は、中型(45cm前後)が20個、小型(30cm前後)が19個で、中型鐸の中に小型鐸を納めた「入れ子」の状態で埋納されていた。銅鐸の製作時期は弥生時代中期と見られている。
 同じ鋳型で鋳造された同范銅鐸が15組26個確認され、トンボ、シカ、イノシシ、ウミガメ、人面などの絵画を持つ銅鐸も確認されている。また、吊り手の部分に「×」印が刻まれた銅鐸が14個確認されており、同じような「×」印の刻線が斐川町荒神谷遺跡出土銅剣の殆どに見られることから、その関連が注目されている。

 
                農道整備の工事中に偶然発見された当時の銅鐸

 遺跡の直ぐ傍には、銅鐸のレプリカやパネル、映像などを展示した加茂岩倉遺跡ガイダンスが設置されている。ガイダンスからは銅鐸出土地が遠望でき、弥生時代の原風景を彷彿とさせる豊かな自然景観が楽しめる。

 ※平成8年10月に38個の銅鐸が発見され、お隣の斐川町の神庭荒神谷遺跡に続き、古代史の常識を揺るがす大発見となった。銅鐸は大きなものに小さなものを入れた「入れ子」のものが15セットあり、トンボや謎の四足獣の絵が絵が描かれたものがあり、謎をよんでいる。
 斐川町の神庭荒神谷遺跡とは山を挟んで3.4kmしか離れておらず、日本史上において出雲地域が重要な役割を果たした事を示す。

発掘当時の姿のままに復元展示されている
加茂岩倉遺跡
の前で教育委員会の方から詳しく説明を受ける

加茂岩倉遺跡ガイダンスより整備され展示されている遺跡を展望する
農道の工事は、手前の道路の奥を削って右に迂回する予定であったが、
重機で掘削中、銅鐸が発見され中止、間一髪で保存されることとなった。
この遺跡までは、手前の駐車場でバスを降り、約500mを歩いて上る。
復元展示されている遺跡の前で
説明される教育委員会の先生
農道の工事の重機によって
掘り起こされ発見された当時の姿
発見当時の姿を復元した一案 発見された当時の姿


2000年の眠りから
覚めた銅鐸

加茂岩倉遺跡は、
平成8年10月14日、
農道の工事中に偶然
発見された。
重機によって掘り起こ
されたおびただしい数
の銅鐸。

その一部は、発見者に
よる工事現場の片隅に
集められ、土砂とともに
斜面下に銅鐸は、目の
前にあった水田の畔に
並べられていた。

銅鐸が埋められていた
穴(埋納坑)は、工事に
よって大半が壊れていた
が、かろうじて一部が
残っており、そこには
2000年前に埋められた
ままの状態で身を横た
えた銅鐸の姿が
ありました。

  銅鐸って何?
     銅鐸七不思議 

 Q1、銅鐸はいつ頃作られたものですか?
 A、 今から2000年ほど前の弥生時代に作られたものです。

 Q2、銅鐸はどのようにして使われたのですか?
 A、 稲作のお祭りなどの時に鳴らした、お祭り用の道具と考えられます。

 Q3、銅鐸は今までにどれぐらい見つかっていますか?
 A、 加茂岩倉遺跡の発見までは全国で約430個が見つかっていました。

 Q4、銅鐸は日本中どこでも出土するものですか?
 A、 西は九州佐賀県・島根県から東は長野・静岡県あたりまで発見されています。

 Q5、銅鐸はもともと緑色なんですか?
 A、 作られた当時の銅鐸は黄金色に輝いていたと考えられています。
   出土した銅鐸が緑色なのは表面がさびたためで、割れた銅鐸の断面を見ると
   今でも光沢のある黄金色が保たれています。

 Q6、銅鐸はどこで作られたのですか?
 A、 銅鐸の鋳型は大阪湾や奈良県の遺跡で見つかっており、近畿地方を中心に
   作られたと考えられます。また、古い銅鐸の鋳型は九州北部でも見つかっている
   ことから、一部の銅鐸は九州北部で作られたようです。
   加茂岩倉遺跡から発見された銅鐸の中には、近畿地方の銅鐸には見られない
   特徴を持つ銅鐸もあり、一部の銅鐸については出雲で作られた可能性があります。

 Q7、銅鐸はどうやって作ったのですか?
 A、 はじめは石製の鋳型に加熱して溶かした銅を流し込んで銅鐸を作りました。
   石の鋳型では5個ぐらいの銅鐸を作ることが出来たようです。
   後には土を焼き締めた土製の鋳型で大型の銅鐸を作るようになりますが、
   一つの鋳型でわずかな数しか作れなかったようです。
          もう一度考えてみよう!
    最後に当ホームページでも今年4月、「今日の話はなんでっか」で
    平田さんが取り上げられて評判になった内容を再度、
    ここに披露しますので参考にしてください。
2003.4.9(No83)

  出雲の二大発見で定説は崩れた!

 1972年、島根県大原郡加茂町の神原神社古墳から「景初三年」の年号の刻された三角縁神獣鏡が発見され、話題となった。三角縁神獣鏡が「邪馬台国」論争渦中の鏡だったからである。
 1984年、島根県簸川郡斐川町の荒神谷遺跡から、四列に整然と並べられた銅剣358本が発見された。さらに翌1985年、銅鐸6個と銅矛16本が発見された。荒神谷遺跡
 荒神谷遺跡が一躍脚光を浴びたのは、なによりその量だった。
 銅剣358本というのは、全国ですでに発見されているすべての銅剣の数が300本あまりだから、1箇所でそれに匹敵する、それ以上である。
 さらに銅矛も納められていたから、まさしく「弥生の武器庫」といっても過言ではない。そして、ほとんど考えられなかった銅鐸も発見されている。さらに最も重要なことは、ここが出雲の中心地であるということだった。そこで、九州と近畿という二つの文化圏に対抗する「出雲文化圏」なるものが唱えられるようになる。
そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見されたのだ。


2003.4.11(No84)

  出雲の二大発見(パートU)

 そして1996年、荒神谷遺跡から約3キロ離れた島根県大原郡加茂町の加茂岩倉遺跡から、一挙に39個の銅鐸が発見された。
世紀の発見が同じ地で二度起こったということである。「銅鐸は近畿」という常識だったから、まさしく晴天の霹靂(へきれき)だった。銅鐸が39個発見された加茂岩倉遺跡
それまでの銅鐸の出土数は、約430個。そのうち近畿が過半数で、兵庫の60個強を筆頭に、和歌山、滋賀、大阪の順だ。
東海地方も多く、愛知、静岡を中心に70個近く出土している。四国でも香川、徳島で50個以上、その他岡山が20個だ。(1992現在)
肝心の島根県では、荒神谷を除くと10個弱しか発見されていなかった。
すでに私たちは教科書で、弥生時代には「銅鐸文化圏と銅剣銅矛文化圏」が存在し、銅鐸は近畿を中心に、銅剣銅矛は九州を中心に二つの文化圏があったと学んできた。出土データからの文化圏の割り出しは確かに科学的のように見えるが、この考え方は、ひとつの発見で崩れてしまう危険性があった。それが出雲地方での発見だった。たとえば、銅剣でいえば、荒神谷遺跡の発見によって、出雲地方はその過半数を出土したことになるから、出雲が銅剣銅矛文化圏の中心になってしまう。しかも、その銅剣銅矛文化圏の中心になるはずの出雲地方で、今度は加茂岩倉遺跡の39個や荒神谷遺跡の6個の銅鐸が出土したのだ。まさしく、従来の二大文化圏説では、とても説明できなくなってしまったのである。 


2003.4.14(No85)

    加茂岩倉遺跡銅鐸の謎

Q:なぜ、加茂岩倉の銅鐸は山の中腹などという不便な場所に
  埋めたのか?
A:山は、平地にある集落とは離れた、普段の生活とは一線を画した神 
  聖なところだ、と古代の人々は考えていました。つまり山には「山の
  神」が宿っていたという考え方です。
Q:どんな考え方ですか?
A:たとえば「出雲国風土記」にも四ヶ所、神が宿る山「カンナビ山」が記
  されている。39個もの銅鐸が埋まっていた加茂岩倉遺跡は、奥まっ
  た谷に面した山の中腹にありますから、ここには神が宿ると考えても
  不思議はありません。山の神の霊力を期待し、銅鐸を鳴らす祭りをし
  ながら、今年も平野の水田から、たくさんの稲(米)が収穫できるよう
  に祈る祭りをしたのでしょう。
Q:その他、どのようなことが考えられますか?
A:あるいは周囲のムラから悪霊や邪悪なもの(伝染病)が自分たちの
  ムラへ入ってこないように祈願したとも考えられます。
  とくに加茂岩倉遺跡は、当時のムラとムラの境界線上に位置してい
  たようですから、十分そのようなことが想像できます。
  次号では「何のために、39個も大量に埋めたのか?」を。 



2003.4.16(No86)

    何のために、39個も大量に 埋めたのか?

 さまざまな説がありますが、定説はありませんが、その中からいくつか
Q:急に敵が攻めてきたので、あわてて土中に埋めたのか?
A:加茂岩倉の場合、あてはまらないと思われます。埋め隠すにしては、
 わざわざ丁寧に「ひれ」を立てたり、しかも「入れ子」のような狭苦しい加茂岩倉遺跡の銅鐸
 感じの状態に並べるのは不自然。
Q:地上で使っていたのをやめて、土の神か穀物の神様に捧げるために、穴を掘って埋めたのか?
A:39個も埋めたのは、大量奉納の考え方だろうか。たとえば現代人でも神社へ初詣した時、たくさんお賽銭をあげたのだからそれだけ幸せがもたらされると期待するようなものである。
Q:39個を1〜2個ずつ各ムラへ配るつもりで、一時期地中へ埋めて貯蔵したのではないのか?
A:配達するものならわざわざ土中に埋めなくてもいいだろうし、一時保管なら「ひれ」を立てる置き方にこだわらなくてもいいような気がする
 (加茂岩倉遺跡の銅鐸はひれを上して埋められていた) 
Q:普段は神聖なところに埋めておき、祭りの時に掘り起こして使用するためなのか?
A:地上ではなく地中においたのはなぜだろうか。地中の地霊の力を
 来年の祭りまでに、新しい生命力として銅鐸にそそぎ込んでおこうと
 いう意図があったのでしょうか。謎はまだまだ続く。
      次号では「いったい銅鐸は何をするものなのか?」です。
(注)
「銅鐸」の話の中で?
「入れ子」とは、大きい方の銅鐸の中に、小さな銅鐸が入れる、つまり
ペアー(対)の状態になっているのを入れ子といっています。
「ひれ」とは、銅鐸を立てて、左右にある、耳のことです。(私の表現では耳)


2003.4.18(No87)

   いったい銅鐸は何をするものなのか?

 銅鐸とは、いったい何なのか。実は謎のベールに包まれています。
よくわからない部分が多いのです。
現在一般的に言われているのは、農耕・稲作に関係した祭りの用具だろうというものです。たとえばムラ祭りの場で、銅鐸を吊り下げ、「舌(ぜつ)」銅鐸の内側に吊り下げた棒状のものを振ることによって音を出し、豊作を願う、そのように使われたのではないか。銅鐸
音を出す「楽器」であったことは、銅鐸の内側の一部がすり減っていることからも、うなずけます。(舌が内側の突帯に長期間当たってできた磨滅の痕跡が認められる)。
また、全国で発見された銅鐸の約一割に絵画が描かれています。主な画材は、シカ(土地の精霊か)、トンボ(水田の神様か)、サギ(稲のシンボルか)など稲作に関したものです。
祭りの場で、銅鐸の絵を見ながら、また音を聞きながら、「聖なる語り」をしていたのではないでしょうか。
やがて時代が下がってくるとともに、銅鐸は約20〜50cmくらいの大きさだったものが、1m前後の大型のものに変化していきます。
日本一大きい銅鐸は、滋賀県大岩山遺跡から出たもので、134cmもあります。これだけ大きくなるともはや「楽器」としての機能はなくなり、「見て聞く銅鐸」から「仰ぎ見る銅鐸」になります。当然、銅鐸を用いた祭りの内容と方法も変わっていったことでしょう。
2003.4.21(No88)
 
加茂岩倉遺跡と神庭荒神谷遺跡との関係は?

 加茂岩倉遺跡(銅鐸出土)と神庭荒神谷遺跡(銅剣出土)は直線距離にしてわずか3.3キロメートルしか離れていません。
しかもかつては尾根伝いに山道があったといわれ、歩いても一時間とかからない距離ですから、何らかの関係があったと考えられます。
しかも両遺跡とも人里離れた丘陵の奥まった谷に面した斜面という、きわめて神聖な「聖域」の雰囲気を漂わせている点でも似ています。
ただし、神庭荒神谷遺跡からは「出雲国風土記」に記されている神名火山(かんなびやま)という「仏教山」が望めるのに対し、加茂岩倉からの眺めは悪く、これといったものは望めない。
何より両者の密接な関係を物語る決定的な証拠は、謎の「×印」です。
銅剣358本という日本一の出土数を誇る神庭荒神谷の銅剣には、根元の「茎(かなご・柄を差し込む所)」の部分にタガネ状の工具で刻んだ×印があります。確認されたものだけ328本という数にのぼります。
一方、銅鐸39個という日本一の出土数を誇る加茂岩倉の銅鐸にも同じ「×印」がつけられているのです。
銅鐸の吊り手、「鈕(ちゅう)」の中央部に×印がある。12個確認されています。(1997.3末現在)
 この事実から、少なくともある時期に同じ集団、同じ権力を持つ人々によって、二つの遺跡の青銅器のうち何ほどかが所有されていたと考えることができます。

まだまだ続く!
交野地方からの「銅鐸」出土の可能性はいかに?
人里離れた丘陵、国境(傍示の里)・神の座ます山(交野山・竜王山)・弥生の遺跡(南山)と、チョット思いうかべただけでもロマンが漂ってきますね。絶対出るとも、絶対出ないとも言いきれるものでもない。
加茂岩倉も農道建設中に偶然発見されたものである。交野の里にも「謎」を秘めた場所がある。


[ 謎のX印 ]

島根・荒神谷遺跡の銅剣 ナゾの「×」印を確認

 荒神谷遺跡から出土した弥生時代中―後期(紀元前1世紀―紀元3世紀)の銅剣358本を保存処理している奈良県生駒市の元興寺文化財研究所は27日までに、処理を済ませた92本のうち78本に「×」印が刻まれていたと発表した。5年前の出土時も一部で確認されていたが、今回の発見でほとんどの銅剣に刻まれていたとわかり、工人グループのマークか"銅剣の祭り"の祭主の家紋ともみられ、大量埋納のナゾに迫る手がかりとなりそうだ。線刻は銅剣の柄(つか)に差し込む茎(なかご)にみられ、約1センチ四方の大きさがある。
(読売新聞 89/10/27)


2003.4.23(No89)

  大量「銅鐸」が出土した意味は?

Q:出雲国からの銅鐸出土数は?
A:加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が発見されたため、現時点で出雲国から出土した銅鐸は、合計50個ということになりました。
Q:この50個という数字は?
A:すごい数字です。いままで銅鐸製作の中心地といわれていた近畿・東海地方の旧国別に集計しますと★摂津国・・34個 ★河内国・・14個★大和国・・20個 ★和泉国・・12個 ★遠江国・・30個 ★三河・・30個 ★近江国・・41個となっています。
したがって、現在、出雲国が日本一の銅鐸出土(所有)国としてランクされます。
Q:ところで銅鐸の出土数と政治的な権力の関係は?
A:直ちに結びつけることは早計です。たくさんの銅鐸を用いた祭りを、全国でも盛んにおこなわれていたことは事実ですが、その保有数イコール権力の強弱とは言いがたい。
Q:出雲の権力が強大だった証拠といえるか?
A:保有できる力は確かにあったのですが、それが政治的な力だとは決めがたいものがありますね。

最後までご覧頂きまして有難う御座いました。

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