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2007年10月6日(土)
私部南遺跡(その2)発掘調査
現地説明会  
私部南遺跡発掘調査   (財)大阪府文化財センター

 2007年10月6日(土)、私部南遺跡(その2)の現地説明会が行われた。
大阪府文化財センターでは、交野市域から寝屋川市域にかけて<緑立つ道>・第二京阪道路予定地内の埋蔵文化財発掘調査を実施しており、私部南遺跡の説明、出土品の展示が行われた。
 当日は、多くの考古ファンがつめかけました。   

日時:平成19年10月6日(土)  午後1時30分より
場所:私部南遺跡 私部南1丁目付近
      JR学研都市線 河内磐船駅から北へ徒歩 約15分
      京阪電車交野線 交野市駅南東へ徒歩10分

問合せ先  (財)大阪府文化財センター  交野分室 072-895-1200      
 当調査区では、縄文時代中期末〜後期初頭にかけて集落が営まれ始め、弥生時代には大型円形住居が3回以上にわたって建て替えられ拠点的な集落が営まれていた。
 古墳時代後期には、再び大規模な集落が営まれ、方形の竪穴住居が6世紀には次第に掘立柱建物へ移行していった。また焼成不良や焼け歪みが顕著な須恵器が数多く出土し、近隣には須恵器窯の存在が想定され、須恵器生産に関わった集落だったのではと考えられている。
 また、平安時代初期の円面硯と呼ばれる硯や
帯金具が出土しており、文字を書いたりする宮人が居住していたことがわかりました
 室町時代(14世紀頃)には調査区一帯はほぼ全面にわたって耕地として開発され、近年に至るまでほぼ同様の土地利用がなされてきたことが明らかになった。
はじめに
 
当センターでは、第二京阪道路の建設に先立ち、私部南遺跡の範囲の西端に当たる京阪電鉄交野線から前川までの範囲を(その2)として、平成18年8月から発掘調査を実施しています。これまでに道路建設予定地の内、南北両側に沿った側道建設予定地部分及び高速道路部分の橋脚建設予定部分の一部に当たる第1調査区〜第7調査区について調査を終了し、現在、それ以外の橋脚建設予定部分について、順次、発掘調査を進めています。
 これまでにも本年1月20日に第1調査区の現地説明会を、また5月9日には第3調査区の現地公開を、さらに7月7日に第5調査区〜第7調査区の現地公開を実施ししてまいりましたが、第8調査区・第9調査区についても遺構の内容が明らかになってまいりましたので、現地を公開しその成果を広く公表するものです。

これまでの調査成果の概要
 これまでの調査では、現地表下0.5〜0.6m付近で中世の耕作面がほぼ全面に広がっていることが確認されたほか、さらにその下層に縄文時代中期末から平安時代にかけての遺構が同一面で重複して遺存することが明らかになってきました。
 縄文時代については、中期末から後期初頭にかけての土器が若干認められるほか、第1調査区では土器を伴う土坑や深鉢片を底部に敷き詰めた袋状土坑が検出されました。遺存する遺構は少ないものの当該時期にも集落が営まれていたことが窺われる貴重な成果と言えます。
 弥生時代については、前期末から中期前半の遺構・遺物が各調査区で散見されます。第1調査区で検出された大型円形住居は3回以上にわたって少しずつ位置をずらして建替えられており、この付近を中心にこの辺りの拠点的な集落が営まれていたことが解りました。
 周囲には壷の口縁を打欠き底部を上にして逆さまにして埋納したピットや、無頚壷を底部に据えた大型の土坑など、なんらかの意味合いをもって営まれた遺構が多くみられます。従って、弥生時代の集落は第1調査区を中心に調査区北側にかけて展開するものと見られます。その南側に当たる第6調査区では、東西に主軸を置く木棺墓が列を成して検出され、集落の南縁を示す吋能性があります。それ以外の調査区では弥生時代の遺構は希薄となり、人為性に乏しい落込みが弥生土器と共に埋没した状況が散見されます。
 弥生時代の集落が廃絶して数百年の時間を隔て、古墳時代後期には再び大規模な集落が営まれていました。第7調査区から第3調査区に向け前川から天野川の氾濫原を結ぶ深い「V」字形の溝の開削により古墳時代の営みが始まります。この溝は比較的短期間で埋められ、それに続いて第1調査区・第3調査区などで方形の竪穴住居が営まれはじめ、その後、6世紀には次第に掘立柱建物へ移行していった様子が窺われます。この他に各調査区をまたいで縦横に溝が開削され、それらが複雑に分岐や合流、或いは人為的に埋められ切り替えられた状況が数多く確認されました。
 また大型の土坑が第1調査区から第5調査区及び第3調査区で検出され、溝の人為的に埋められた部分などとともに焼成不良や焼け歪みが顕著な須恵器が数多く出土しました。こうした状況から、近隣には須恵器窯の存在が想定され、この集落が須恵器生産に関わっていた可能性を色濃く示していると考えられます。
 第3調査区南西部では、隅丸方形でやや大きな掘り方を有する柱穴で構成される掘立柱建物が検出されています。柱の抜取り穴に口縁を打ち欠いた奈良時代の大型の杯を埋納したり、金銅製の帯金具が出土するなど、注目すべき遺構・遺物が発見されました。この第3調査区南西部と第7調査区では、さらに平安時代の黒色土器やそれに続く中世の瓦器を伴う掘立柱建物などの遺構も検出されています。
 こうした集落の変遷を経た後、室町時代(14世紀頃)には調査区一帯はほぼ全面にわたって耕地として開発され、近年に至るまでほぼ同様の土地利用がなされてきたことが明らかになりました。

 今回、現地公開を行います第8調査区・第9調査区につきましても、これまでの調査成果を裏付けるとともに、新たな様々な成果を得ることができました。
 また、これまでの調査で弥生時代・古墳時代の集落跡が営まれた扇状地突端の台地状の区域については、道路建設に係る発掘調査をほぼ完了することとなります。現在も順次着手しておりますが、今後はこうした成果を踏まえ新たに発見された集落跡の縁辺部の状況や周辺の地形の状況などについても引き続き調査を行う予定です。

第8調査区
 当調査区では弥生時代〜古墳時代の遺構を確認しました。
 弥生時代の遺構としては、溝や土坑、柱穴などがあります。628土坑や582柱穴からは弥生時代前期末〜中期前半の壷や甕が出土しました。
 古墳時代の遺構では、竪穴住居や掘立往建物、溝、井戸、土坑、柱穴などを検出しました。調査区を東西方向に横断する700溝は、幅・深さともに約1mを測り、断面形は深い 「V」字状を呈しています。この溝は第3調査区から第5・第7調査区に続いており、現在のところ、全長155m以上に及ぶことがわかりました
 700溝が埋まった後、当調査区では竪穴住居(竪穴住居1〜7)が建てられるようになりました。これらの竪穴住居が折り重なった状態で検出できたことから、同じ地に何度も建て替えられていたことがわかります。いずれの住居も平面形が方形を呈し、住居の北辺中央には寵を築いていました。堰からは土師器の壷が据えられた状態で出土しているものもあります(竪穴住居2・4・6)。竪穴住居座絶後には、掘立柱建物が建てられるようになりました(建物1〜10)。中には柱穴の深さが約0.8mを測る建物もあります(建物1)。これら建物も廃れた後に、260溝や270溝などの溝が掘られたものと思われます。
 以上、のように当調査区でも、特に古墳時代において、集落が営まれていた様子を窺うことができました。
第9調査区

平安時代には、文字を書いたりする宮人が居住していた!!
当調査区では、弥生時代〜平安時代の遺構を確認しました
 弥生時代の遺構としては、溝と土坑があります。1059土坑・280土坑・1000土坑からは弥生時代前期末〜中期初頭の壷・甕・石器が出土しました。
 古墳時代の遺構は、竪穴住居・掘立柱建物・溝・土坑・柱穴などがあります。調査区北側には1370溝・1155溝・1223溝・1224溝が掘削されています。調査区北側は、台地の縁辺部に位置しており、集落内からの排水を目的として掘られたと考えられます。
 竪穴住居は調査区中央と南東で検出されました。400竪穴住居では平面形が方形を呈し、北辺中央に竃を築いていました。
 竪穴住居廃絶後には、掘立柱建物が建てられました(建物1〜18)。建物1〜3と建物4〜6の間には空間地が存在し、通行路として利用されていたと考えられます。建物11は、3間×5間の総柱建物で、倉庫と考えられます。同様の建物を第3調査区でも検出しており、平安時代の建物であると考えられます。そのほかの建物の時期は、出土している土器が細片であったため、はっきりとした時期はわかりませんが、古墳時代後期〜平安時代にかけて、連綿と建てられたことがわかりました。
 また当調査区からは、平安時代初期の円面硯と呼ばれる硯が出土しています。以前に調査を行った第3調査区からは帯金具が出土しており、文字を書いたりする宮人が居住していたことがわかりました
第8・9調査区からの出土遺物


最後までご覧いただき有難うございました!