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平成30年10月 定例勉強会

 江戸時代千石船の話題
 寺田 政信氏(交野古文化同好会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 22名(会員19名)の参加
2018.10.27(土)午前10時、10月定例勉強会に22名が参加されました。

 立花会長の挨拶で始まり、高尾部長より寺田講師の紹介の後、寺田政信氏より
「江戸時代千石船の話題」をテーマで、「千石船」について詳しく解説いただきました。

 寺田先生には、大変お忙しい中、交野古文化同好会の講演を引き受けて頂き、
 貴重なお話をお聞かせくださり有難うございました。
 冒頭に話された、文明と文化の違い、上方と”下りもの”など、江戸と大坂の違いなど、
 大変興味深いお話でした。

 菱垣廻船と樽廻船の違いと歴史、お酒の醸造工程のお話など興味津々でした。
 菱垣廻船「浪華丸」の実物再現(復元)と帆走、日立造船グループとして関わられた
 ことなど、お聞きして感動しました。

  (講演会の概要)

   「江戸時代千石船の話題」
    1.はじめに
    2.江戸時代の千石船による海上物流
    3.江戸時代の樽廻船の話題
    4.日本酒醸造技術の歴史
    5.日本酒蔵発達の歴史
    6.番船競争
    7.千石船菱垣廻船“浪華丸”の実物再現
    8.千石船菱垣廻船“浪華丸”の帆走
    9.海の時空間    

 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の寺田政信先生のご厚意により
    当日配布された「レジメ」及びWEB写真などを参考にさせていただきました。
    記して感謝申し上げます。 
     ※WEB参照HP 大阪海洋博物館「なにわの海の時空間」 

                     浪華丸 博物館が誇る巨大な和船


講師  寺田 政信氏(交野古文化同好会)

立花会長の挨拶
講演会 レジメ 

交野古文化同好会勉強会  平成30年10月27日(土)
寺田 政信氏(交野古文化同好会)
  江戸時代千石船の話題
 寺田 政信氏(交野古文化同好会)
 【はじめに】

 江戸時代の千石船は大阪が上方と言われ、大阪が商業、物産、物流で栄えた象徴でした。そこで、私も、日立造船時代千石船 “浪華丸”の実物復元に関わつた経験から江戸時代の千石船の話題を提供いたします。

【江戸時代の千石船による海上物流】

 江戸時代の千石船の原型は弁財船にあるとされますが、その用途や航路に応じていくつかの名前で呼ばれます。一般の貨物、雑貨を運ぶ千石船は廻船問屋の名前を付けて“菱垣廻船”などと呼ばれてたようです。菱垣は船首に菱垣模様があったことからこの名前が付けられたようです。灘の酒を専用に運ぶ船は通称で樽廻船と呼んでいたようです。両船とも当時上方と呼ばれた大阪から江戸に運ぶ目的の船です。
 江戸幕府が開かれた頃は、参勤交代の武家社会で人口も少なく男社会だったようです。
 その後、武家社会を支えるために多くの町人が江戸に集まり、町人同士の物流もあり急激に人口が増えていったようです。男女の人口も均衡し、元禄時代の頃には、ロンドンより人口が多かった.との記録もあります。このように、人口が増えていきましたが、江戸近辺にはほとんど産業がありませんから、物資は上方(大阪)に頼らざるをえません。当時、上方(大阪)ではいろいろな物資が作られ、その物資を江戸に運ぶことが大きな商売となりました。
 そこで千石船の大活躍となります。当時重要な菜種油は大阪で大々的に栽培されていたようです。与謝野蕪村の俳句に『菜の花や月は東に日は西に」とありますが、これは晩年蕪村が大阪で詠んだものと思われます。当時、大阪から江戸に流通したものを上等品ということで“下りもの”と呼ばれ重宝されました。江戸近辺で生産されたものは、品質が悪く上方から下ってこないということで“下らないもの”と蔑まれました。“下らない”の語源は江戸時代の物流にあったわけです。これなど関西人にとって粋な話ですね。
 【江戸時代の樽廻船の話題】

 当時、江戸には酒蔵はありませんから、上方の酒に依存せざるをえません。江戸時代も中期になると一般の町民も酒をたしなむようになり酒の需要が急上昇します。そこで、一般雑貨を運ぶ千石船では需要に追い付かず酒を専用に運ぶ縛廻船が開発されます。船型は重たい酒樽を搭載するので重量重心の低い船型となったようです。
 樽廻船には面白いエピソードがありますが、その前に日本酒の醸造技術について触れてみたいと思います。

<日本酒醸造技術の歴史>

 現在の日本酒の原型、すなわち麹を使い、酒母(酵母)を使っての醸造技術は鎌倉時代に僧坊(寺)で開発されました。通称“僧坊酒”と呼ばれています。僧坊では酒は飲めないはずですが般若湯と称して嗜んでいたようです。僧坊では、味噌や漬物など発酵食品の開発が盛んで日本酒にも自然に手を出していたようです。

 日本酒の醸造には幾つかの工夫があります。現在も採用している工夫は室町時代に僧坊で開発されました。その工夫を紹介します。

 三段仕込み・・・米の仕込みを三段階に分けてする工夫です。
 一日目は仕込み米の約15%を麹と酒母とともに仕込みます。これを初添えと言います。二日目は仕込みを休みます。これを踊りといいます。踊り場の踊りです。これは酒母が活性化するのを待つわけです。
 三日目には仕込み全体の初添えの2倍(約30数%)を仕込みます。これを中添といいます。四日目に残り全部を仕込みます。これを留添えといいます。この工夫によって麹や酒母が活性化し滑らかな酒が醸造できるというわけです。この三段仕込みは現在でもどの蔵でも採用されています。ある蔵では差別化を狙い五段仕込みを売りにしているところもあります。

低温発酵・・・古来日本酒は低温発酵でないとおいしくないという経験則があり、冷房のない時代では、寒造りが常識でした。10月から準備に入り、十二月、一月、二月に仕込み三月に終了というのが普通でした。現在でも地酒蔵は、寒造りをしています。

低温殺菌・・・ 醗酵の終った酒は雑菌を除去するために殺菌しますが、七十度前後で加熱すると腐菌が滅亡し、酵母菌は生き残るという工夫です。この工夫は室町時代に僧坊で開発されました。欧州で低温殺菌をパストライゼーションと認知される百年も前に僧坊で実用化されていたわけです。ノーベル賞ものです。
 <日本酒蔵発達の歴史>

 僧坊で開発された日本酒は、これは、商売になると読んだ蔵元が酒つくりを始めます。
最初は、伊丹、池田、伏見などで醸造されました。
 中でも、伊丹では、毛利に滅ぼされた山中鹿之助の末裔が伊丹で酒造りを始めます。ここで濁り洒を清洒にすることに成功します。伊丹には鴻池という池がありこの池の名前が鴻池財閥の名前となりました。当時伊丹の清酒は江戸で持てはやされ大きな財をなし後の鴻池財閥の基盤となりました。鴻池新田の開発、両替商へと大きな財閥に発展していきました。当時、伊丹から江戸への酒の輸送は馬に酒樽を六個振り分けて運んでいました。駄六といいます。今でも駄六川の名前が伊丹に残っています。
 ところが、江戸での酒の需要は急増し馬による陸上輸送では間に合わなくなりました。

 そこで、千石船による大量輸送が実現しますが、それと同時に酒造りそのものが灘ヘと移行します。後で考えてみると、灘は酒造りの絶好の場所でした。
① 六甲山の伏流水・・・・適当なミネラルを持った宮水。男酒
② 六甲降ろし・・・・・・寒造りに最適、蔵の窓は六甲山に向けて開放
             タイガースの歌ですが
③ 水車による精米・・・・六甲山の水流を生かした水事による精米
④ 海上輸送ができる。
 灘五郷の出現です。現在でも70%近く日本酒生産。

【番船競争】

 樽廻船は、隆盛を極めます。そこで番船競争が行われます。西宮沖に樽廻船を集め江戸への競争を競います。一番盛んなときは20数隻が参加したようです。西宮沖へ集まった樽廻船は一定の審査(樽の数、乗組員の数など)をチェックして一斉にスタートしました。
 江戸に参加した船の情報を知らせる必要があります。早馬で知らせたようです。船の早い記録では50数時間の記録もあるようです。トップで江戸についた船の船頭逹は一年間飲み食い放題で過ごしたそうです。

このころ逸話があります。
富士見酒・・・船で揺れた酒はおいしいということで上方の旦那衆が樽廻船を富士を見て上方に戻して酒を楽しんだという話です。
ムラサメ・・・一見切れのいい酒のように思いますが、村の近くに入つたら村醒めるというわけです。
金魚酒・・・金魚も生きている薄い酒のことです。
 【千石船菱垣廻船“浪華丸”の実物再現】

 今から20数年前大阪市(窓口;大阪港湾局)から千石船実物再現の話が持ち込まれました。日立造船グループ全体で取り組むことになりました。指導者は阪大の野本先生が中心で東大の先生、当時の神戸商船大学の先生も参加してくれました。基本設計は日立造船グループの関西設計が担当しました。当時私も関西設計の役員として協力しました。

 まず、最初の難関は当時の千石船の船体設計図が全くないことでした。そこで、千石船の模型を全国を訪ね写真を撮つて集めました。金毘羅さんや東北にも行きました。当時の神戸商船大学の海洋博物館にも何度か足を運びました。
 なぜ図面が無いのか、当時船大工の棟梁は板に船体図をしるし船が完成するとノウハウを抹消するため燃やしてしまったようです。
 いろいろ調べていくと国会図書館に千石船のGAがありました。やや不鮮明でしたが、このGAをコンピュターにのせて、模型も参考にしながら船体図を作成しました。重量重心などもチェックし、かなり精度の高い船体図ができました。
 帆柱や舵、船倉、デッキなど全体図を作成し、建造のための図面に落とし込んでいきました。船殻図は板の構成、デッキの構造、船首部、船尾部の構造など全国から来ていただいた船大工さんの意見も取り入れて決めていきました。そして建造の準備に入りました。

 材料も当時の資料から同じものを使用することにしました。一部日本で調達できないものは中国などから輸入しました。帆柱を捜すのにも苦労しました。確か和歌山で見つけました。釘一本も当時の残っている釘を参考に同じ仕様で作りました。船箪笥も再現しました。建造手法も当時の手造りとしましたが、一部電動器具も使いました。帆についても当時の製作に近い工法で実現しました。
 建造は、日立造船の堺工場で行われました。堺工場にはかって大型石油タンカーを建造したドックがあります。海に出して海上輸送ができます。建造は屋内で行われました。建造中、何度か現場を石田憲治先生と訪れ野本先生にもいろいろ話を伺いました。
 全国から参加した船大工さんが黙々と作業しているのには感動しました。野本先生は、ヨットを工場の近くに係留しそこを住居として通っていたようです。皆さんの協力で完璧な復元ができそうだと言っていたのが印象的でした。私も日立造船グループの一人として大変嬉しく思いました。
 【千石船菱垣廻船“浪華丸”の帆走】

 完工も近くなって、大きな問題が出てきました。野本先生は、この“浪華丸”は、千石船の模型ではない実物そのものである。そこで海に浮かべて帆走しその性能を確認したいと言い出したのです。大阪市(窓口:大阪港湾局)は大反対です。事故の問題と船体の汚染が心配されます。先生は事故の問題はヨットの友逹の伴走で配慮し、船体の汚れは阪大の学生に清掃させるということで帆走が実現しました。大阪市も帆走が決まった以上は宣伝したいという事で大型フェリーをチャーターして帆走を見学できるように市民に開放しました。私もいち早く応募して“浪華丸”の帆走の雄姿を見ることができました。大阪南港から淡路島の近くまで帆走しました、最大船速7ノットと聞いています。
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【海の時空間】

 “浪華丸”を展示する海の時空館の建設も進み、無事“浪華丸”は据え付けられました。丸い透明のドームが建物の上から被せられました。そしていよいよオープンしました。

 海の時空間及び浪華丸については、
下記のHPなどを参照ください

   WEB参照HP   大阪海洋博物館「なにわの海の時空間」 
              浪華丸 博物館が誇る巨大な和船
 なにわの海の時空間
2013年3月10日、閉館
  2000年7月14日開業- 2013年3月10日閉館は、大阪市住之江区南港咲洲地区にあった、大阪市立の博物館。船舶や海運、海洋をテーマとする海事博物館であった。
 大阪港の南港エリア咲洲にあり、大阪湾に面した場所に位置する。大阪市市制100周年記念事業の一つとして建設、2000年(平成12年)に開館した。大阪市港湾局が施工し、総工費176億円だった。
   
実物再現された浪華丸 
全長約30m、帆柱約27.5m
  菱垣廻船「浪華丸」は大阪市制100 周年の記念事業として、大阪市が建造したものである。上方と江戸の海上輸送を担った重要な存在であり、江戸時代の上方文化と経済の象徴とも言うべきものである。
 学識経験者による綿密な考証を経て、地元企業で木造船建造技術を有する日立造船が建造にあたった。建造に当たっては、伝統技術を伝承する船大工の懇切な指導を得ている。材料や和船独特の釘なども、当時に近いものを製作し採用されている。
   

浪華丸の模型 
 

千石船 菱垣廻船
 
千石船菱垣廻船“浪華丸”の帆走

日本酒の製造工程と灘五郷







最後までご覧いただきまして有難うございます。

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