HPのTOPページへ戻る

<第111回>  令和元年11月定例勉強会
 「天保期の倉治村と領主久貝氏」 
  
西川哲矢氏(元交野市教育委員会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 26名(会員25名)の参加
2019.11.30(土)午前10時、11月定例勉強会に26名が参加されました。

  高尾部長の司会で始まり、村田事務局長より古文化同好会の直近の行事予定の紹介と協力要請のお話(年末恒例のしめ縄作りと獅子窟寺の墓掃除、初歩き、私部城を活かし守る会の現況など)の後、講師の西川哲矢氏より「天保期の倉治村と領主の久貝氏」をテーマで詳しくご講演下さいました。

 今回の講演は、2019年3月に刊行された【「倉治村文書】の「村方明細帳」「諸願書控帳」を基に「諸願書控帳」を使って村と領主の関係を軸に解説頂きました。

 後日、西川先生より次の様な解説を添えて、レジメの形で報告文書を頂戴しました。

 「天保の改革の一政策である上知令に村々が嘆願する文面から村に慕われていた領主が見えますが、実際は領主からの借銀が未済のまま領地替えになってしまっては村々も困ったのです。
 こうした反対運動は様々な形で各地で起こり、上知令撤回の大きな原動力となりました。
 では実際村と領主はどのような関係であったのかということで、領主久貝氏(久貝正典)と村々の関係(長寿お祝い金、孝心者の調査、領主奉公勤め、久貝氏入国、源氏の瀧周辺の造成など)をみました。特に源氏の滝の碑文は、近世の倉治村と久貝氏との関係を今に伝える記念碑だと言えると思います。」

 (講演会の概要)

    1.倉治村の古文書
    2.村の行政文書
    3.使用史料~「諸願書控帳」
    4.倉治村の領主久貝氏
    5.天保後期の倉治村の困窮と領主
    6.天保上知令と嘆願書
    7.倉治村と領主久貝正典
    8.源氏の瀧と領主久貝正典
 
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された
   「レジメ」=古文書と、後日レジメの形で当日の報告をまとめられた文書を戴き、
   HPに掲載させていただきました。記して感謝申し上げます。

  ※ レジメの文書の後尾に書かれている番号は、当日、配布された「史料編」
    PDF文書の番号に符合します。


  ※ 当日の写真は毛利信二様にお世話になりました。 

高尾部長の司会と前座で始まる
 
村田事務局長より交野古文化同好会の
直近の行事予定の紹介と協力要請のお話

 講師   西川哲矢氏
 
 
倉治の古文書「諸願書控帳」を基に解説頂きました。
 
 
 
 
レジメ   「天保期の倉治村と領主の久貝氏」
下記のレジメの文書の後尾に書かれている番号は、
当日、配布された「史料編」(PDF文書)の番号に符合します。
天保期の倉治村と領主久貝氏           2019/11/30

  報告者:西川 哲矢氏
    元交野市教育委員会 文化財技術嘱託(専門:日本近世史(法制史))

                   
1.倉治村の古文書 

 江戸時代、幕府支配の末端を担っていた村役人(庄屋・年寄・百姓代)が書き残した膨大な古文書がある。倉治村の場合、西川哲矢編著『交野市史研究紀要第26輯 河内国交野郡倉治村文書』(交野市教育委員会、2019年)に2019年3月時点で交野市が把握している倉治村文書の目録が掲載してある。
 なお、今回の報告は本書に基づくものである。
 ※目録は、古文書一つ一つに表題・年代・作成者・宛名・形状などを記し、それを表にして文書群の総体を一目でわかるようにしたものである。


2.村の行政文書

①領主・代官・幕府機関から交付するもの 
②村から領主・代官・幕府機関へ提出するもの 
③村方の記録


◎御用留
 村役人の公用記録である。村役人は幕府支配の末端にあったから、領主などからの御用は帳面に書留めておく必要があった。こうした領主からの触書や廻状、公務の処理をまとめた帳面は、御用留などと呼ばれる。そのなかには、村方から提出した願書控なども帳面に仕立て保管することもあった。今回取り上げる史料もこの類である。


3.使用史料〜「諸願書控帳(しょねがいかきひかえちょう)」

 形状 縦二五〇㎜×横一七〇 竪帳 (元所有者不明)
 概要 天保十二(一八四一)年の末より天保十五(一八四四)年の間に、
 倉治村から領主や幕府機関に宛てた願い書や届け出などを書き控えたもの。


内容について
 願い届けの大半は、村から長尾役所(倉治村の領主久貝氏陣屋)に宛てたもので、土木関係では淀土砂方奉行に宛てたものも少なくない。このほか、惣代庄屋・大庄屋に宛てたもの、用聞(領主に抱えられ、さまざまな御用を請け負った大坂町人、用達ともいう)や商人に宛てたもの、隣村との取りきめなどもわずかながら存する。提出した月日やその後の経緯、提出した者を記した覚なども含まれている。また、倉治村単独で提出する場合のみならず、周辺の久貝氏所領の村々と連名で領主に提出したものも散見される。出来事を一つ一つ記しているため、天保期の倉治村の世相、人びとの暮らしや生きざまなどを今に伝える貴重な記録といえる。

作成時期
 願い出・届け出の日付をみると、天保12(1841)〜天保15(1844)の記録がみられる。帳面に仕立ててあるので、作成はこの時期の後になると思われる。村政における重要書類として活用する意図があったと思われる。

取り上げる内容
 天保の改革の一政策である上知令がまさに行われようとしていた時期であり、その当時の村の様子や領主との関係、上知令と倉治村の関係を知る内容が含まれている。当時、倉治村は旗本久貝正典の所領であり、まさに上知令の対象となったのである。

4.倉治村の領主久貝氏

 倉治村は、江戸初期から文久 3(1863)まで旗本の久貝氏が治めていた。 徳川家康に仕えて旗本となった久貝正俊は、元和 5 年(1619)年、大坂町奉行に任じられ、武蔵国1500 石のほか交野郡のうちにも1500石を有していた。さらに寛永 10(1633)年讃良郡のうちに2000石を加えられ、5000石を知行することとなった。

〔諸願書控帳〕は、11 代目の久貝正典(1812-1865年)が治めていた時の記録である。通称甚三郎、のち養翠と称し、諏養堂と号す。幕府講武所奉行、大目付役、御側用人取次などの要職を歴任し、石高は、5500 石を有した。歌人でもあった。

※長尾陣屋
 久貝氏の長尾陣屋は、これらの交野・讃良両郡の知行所を支配するため、元禄 2(1689)年、3代目の久貝正方により長尾村(現 枚方市長尾)に設置された。「長尾役所」と史料にでてくるのはこの陣屋をさす。現在の瑠璃光寺の東にあたり、東西 60 間・南北 30 間、内部に御殿・代官詰所・足軽詰所・倉・牢舎などがあり、ここに派遣された代官は、長尾村ないしはその周辺の村々に居住して、在地の掌握と支配にあたった。現在、陣屋門は津田の円通寺に移築されている。

5.天保後期の倉治村の困窮と領主

①天保13(1842)年2月、村の山の松木を100本ほど伐採願い【51】 
②同11月には、倉治村ほか久貝氏所領村々から雑喉屋幸八に借金【80・81】
 ※年貢上納分(700両、利足月7朱)と領主の入用分(300両、利足年6朱)
③翌14年9月5日、江戸で臨時入用があり、村々も上納すべきところ、困窮のため半分上納ならびに当面立て替え願い【121】
④領主の困窮者の把握【84・146】
 天保13年12月・天保15年1月
※「7、8年前に眼病を患って盲人となった上、年老いた母や幼少の子供がおり、家業もできず極貧難渋」


6.天保上知令と歎願書

①天保14(1843)年6月、上知令
※上知令は、天保改革の一政策として進められ、江戸・大坂周辺の私領を幕府領に収公し、領主には代地を与えるというもので、倉治村を含む久貝氏領も知行替えの対象となった
②倉治村を含む久貝氏所領の村々は、長尾役所へ領知替えへの反対意見を表明する歎願書を提出【120】
※「御代々様方高太之御厚恩之余慶を以、百姓相続仕」(我々が百姓をやっていけているのは代々殿様方のおかげだ)、「十方ニ暗レ(とほうにくれ)、本意ヲ取失ひ、悲嘆至極奉存候」
③実際は領主による借金を残したままの領知替え※5-②
ⅰ上知令に際して設けられた大坂代官「立会役所」は、翌14年9月5日、こうした領主財政の問題を調査するため、所領村々に対して領主からの借銀の委細を差し出すよう命じる
ⅱ借銀の委細書提出は、当然、領主財政が公表されることを意味する【122】
ⅲ領主借銀の問題は他領でも生じており、農民の上知令反対運動が各地で行われる
④上知令の撤回
⑤その後の経緯
以前の通りの仕法・年限で据え置く【131・132】


7. 倉治村と領主久貝正典

①天保 14(1843)年2月、「御国益」として領主から村に桃苗1780本下付【88】
②天保15(1844)年1月には孝心者の取り調べ【145】
③同年 2 月、領主久貝正典の入国の際、村内の80才以上の者8名が召し出され、それぞれへ銭2貫文付与、倉治村百姓は各々冥加金の献上【149・151】
④久貝氏の江戸屋敷や、二条表での奉公勤めに関する願い出【133・134・156】
※二条表の奉公は、久貝正典が天保14 年、京都の二条在番(二条城の守衛)となったことによる
⑤翌天保15(1844)年に、久貝正典が二条城在番を終えた際、倉治村ほか領民に対し計300両を下付し、一軒ごとに配分された。【159】


8. 源氏の瀧と領主久貝正典

①源氏の瀧新池造成、桜の植樹、寄石灯籠、「御亭」周りの石垣の敷設など
  【追加資料37・38】

②源氏の瀧碑銘【写真】【追加資料 源氏瀧碑銘】


   
わかしめゆへるくら治むらなる滝はしろきはたてのなひくに似たりとてはやくより源氏のたきといいならわしたりとなむ。雲いる山の岩かねよりみなきりおつるさまはなに山姫のぬのさらすらむとなかめけるもかかる所にやありけむ。かくてとし月をわたりなは、そのかみ交野のみのに雪と散りけむ花さへに、むかしの春に立ちかへり、いかはかりうれしとおもふらむ。われはからすも、こたひこのちかきわたりなる遠つおやのみはかにまいりけるに、典安・広繁らのこの滝をもみせんとて、かねて人々とはかりて、なにくれと心をつくしたるよしなれは行てみるに、けにいひしらぬなかめなり。

 あめつちとともにうこかぬ岩かねに万代かかれ滝のしら糸

  天保といふとしの⼗あまり五とせのはる
     因幡守藤原朝⾂正典しるす
【現代語訳】

 私(久貝正典)が領有する倉治村にある滝は、(源氏の旗である)白旗が靡くのに似ているというので、昔から「源氏の滝」と言いならわしているのだという。
 雲のかかる山の大きな岩から(水が)あふれおちる様は、「なに山姫の布さらすらむ」と(その昔伊勢が)和歌を詠んだ(竜門寺のような)ところもこのようなところにあったのだろう(と思う)。
 このように(思案をめぐらせながら)年月を過ごしたならば、その昔交野の御野に雪のように散った花(の景色)までも(想像され)、昔の春に戻ってきたような気分になり、どれほどうれしいことだろう。
 私は思いかけず、このたびこの近いところにある遠いご先祖様のお墓(正俊寺)に参ったが、(家臣である)典安・広繁たちがこの滝を見せたいと思って、以前から人々と計画して、いろいろと心をつくして(用意してくれた)ので、行ってみたところ、なんとも言葉で言い表せない(ほど素晴らしい)眺めである。
  天地とともに動かぬ岩ヶ根に万代かかれ滝の白糸
  (天地とともに動かずどっしりとそこにある大岩に、
       白糸のような滝の水が永遠にかかっていることを願う)

  天保⼀五年の春

【解説】
 天保15(甲辰、1844)年春、⼆条在番を終えた久貝正典は、長尾陣屋に立ち寄り、代官である荘与⼀郎典安と嶋⽥保太夫広繁の案内で源氏の瀧を訪れる。その際、正典は倉治村庄屋加地友三郎に感懐を記して送り、友三郎はこれを大理石に刻んで瀧のかたわらに建てた。これが現在も残る石碑である。
 下記のPDF文書も併せてお読みください!
当日配布されました史料集
(No51~No159)PDF
当日配布されました史料集 
追加分No37・38 源氏滝碑銘PDF
 古文書による倉治の暮らしと産業
(交野市文化財だより)PDF

最後までご覧いただきまして有難うございます。

交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る