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<第113回>  令和2年10月定例勉強会
「河内獅子窟寺と
梵字光明真言を刻んだ土器」 

  
小林 義孝氏(NPO法人摂河泉地域文化研究所)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 18名(会員17名)の参加
2020.10.24(土)午前10時、10月定例勉強会に18名が参加されました。
コロナ禍の中、古文化同好会の活動は、3月から9月まで自粛(中止)、10月より再開して初めての勉強会に沢山の方々に参加いただきました。

 高尾部長の司会で始まり、平田会長の開会の挨拶に続き村田事務局長より古文化同好会の直近の行事予定の紹介と協力要請のお話後、講師の小林義孝氏より「河内獅子窟寺と梵字光明真言を刻んだ土器」をテーマで詳しくご講演下さいました。

 今回の講演は、獅子窟寺の王の墓付近より発見された瓦質土器「梵字光明真言刻銘瓦質土器」について、刻まれた梵字、梵字の宗教的な背景、光明真言土砂加持、王の墓、獅子窟寺の性格、山の寺など、併せて田原と交野郡との関わりなど興味深いお話でした。

 (講演会の概要)

    1.課題のはじまり
    2.梵字光明真言を刻んだ土器
      ①刻まれた梵字
      ②梵字真言の宗教的背景
      ③光明真言土砂加持の「お土砂」    
    3.王の墓ー土器の出土状況と性格
      王の墓、亀山上皇の供養塔、瓦質土器の性格 
    4.獅子窟寺の性格
      ①本尊薬師如来坐像(国宝)
      ②『諸山縁起』の獅子窟寺
      ③日想観
      ④権門の寺
    5.「山の寺」としての獅子窟寺
      ①「山の寺」の世界
      ②「山の寺」以後
        
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された
   「レジメ」をHPに掲載させていただきました。記して感謝申し上げます。
  ※ 交野町史、市史、各種報告書、WEB記事などを参照させていただきました。

講師  小林 義孝氏

司会の高尾部長
 「河内獅子窟寺と梵字光明真言を刻んだ土器」
  小林 義孝氏
(NPO法人摂河泉地域文化研究所)
河内獅子窟寺と梵字光明真言を刻んだ土器
                小林義孝(NPO法人摂河泉地域文化研究所)

I.課題のはじまり

⇒ 「梵字光明真言刻銘瓦質土器」
→外面一面に光明真言を中心に梵字真言 →錐のような尖った工具
→1894年(明治27)頃に獅子窟寺の「王の墓」付近で発見
⇒ 「光明真言を刻んだ蔵骨器」というレポート
→1998年、小川暢子さん(交野市教育委員会)、三木治子さん(歴史考古学研究会)ら
→土器と出土地の調査
⇒木下密運先生「交野獅子窟寺出土光明真言刻銘瓦質土器考」
⇒市指定文化財
 「この瓦質土器は、私市にある獅子窟寺域内、字百重が原で発見された土器です。この百重が原には、亀山天皇の供養塔と伝えられる供養塔(別名・王の墓)が2基あり、その手前側道脇よりこの土器が出土しました。土器の表面に、梵字で光明真言と呼ばれる真言が針状工具によって2行1単位で21回繰り返し刻まれたのち、焼成されています。
 残念なことに、年号と願文が欠損してしまっていますが、「金剛資祐海」という名前が刻まれており、醍醐三宝院流の末流に連なる密教の伝授を受けた僧侶に関係がある土器ということがうかがえます。
 さてこの土器の用途は、土砂加持を行うための容器として利用されたと考えられ、
さらに転用されて蔵骨器として利用された可能性もあります。」
   『交野市の指定文化財』(交野市教育委員会)

□木下密運先生の研究に学び、再度本資料を考察し、出土地である獅子窟寺の性格も併せて考える。

Ⅱ.梵字光明真言を刻んだ土器

1.刻まれた梵字
 ⇒火消壺形の瓦質の土器、口径約21cm、高さ約17cm
 ⇒外面には細い先の尖った棒状の工具で刻まれた文字
  ① 梵字の真言
  ② どうしてこのどの土器を作つたかという「願文」の一部
  ③ 「金剛資祐海」という僧侶の名前です。
 ⇒真言 →密教で真理を表す秘密の言葉
   →梵字35文字を2行1単位、21回繰り返し
    ①三帰依真言・道場観(3文字)
    ② 光明真言(22文字)
    ③ 間投詞(3文字)
    ④ 金剛界五字真言(5文字)
    ⑤ 間投詞(2文字)
    ⑥ 終止符(1文字)
 
    ①オン・ボッ・ケン(三帰依真言・道場観)・②オン・ア・ボ・キャ・ベイ・口・シャ・ナウ・マ・力・ボ・グラ・マ・二・ハン・ドマ・ジンバ・ラ・ハラ・バ・リダ・ヤ・ウン(光明真言)・③ウーン・ハッタ(間投詞)・④バン・ウーン・タラーク・キリーク・アク(金剛界五字真言)・⑤ ソフ・力(間投詞)・⑥ダ(終止符)
  ⇒「光明真言破地獄曼荼羅」熊本県人吉市願成寺所蔵の木造阿弥陀如来座像
   (鎌倉時代)の胎内から。
  → 「破地獄」→地獄の苦を打ち破る、地獄に落ちることから逃れようとする
  →光明真言破地獄曼茶羅を立体的に構成
 ⇒ 「願文」→「□□者為六道四生一切有」
  →一切の生きているもの(「有情」)のすべてが輪廻を脱し、悟りの境地に達するように
 ⇒ 「金剛資祐海」
  →密教の金剛頂系の僧「祐海」がこの土器をつくることで仏に願をかけた。
 ⇒刻まれた真言の梵字
 → 日本語の読みに引きずられて梵字の表記が変化している。
 →鎌倉時代(12・13世紀)には次第に読みの日本化が進行し、日本での発音に合わせて
   梵字自体も入れ替えられる。
 ⇒鎌倉時代末から南北朝期のはじめ頃
 →梵字の日本化にともなう文字の入れ替えの時期
 →梵字の字体の年代観
 →土器の形態、制作技法などから

2.梵字真言の宗派的背景
 ⇒斉藤彦松氏の研究
  →冒頭の① 「オン・ボッ・ケン」(道場観)によつて光明真言を強意する方法
  →真言宗の小野流という宗派のもの
  →祐海もそれに属する真言僧
 ⇒木下密運先生
  →③ 「ウーン・ハッタ」、⑤ 「ソフ・力」 → 「破地獄」の義を持つ真言
  →光明真言にこれを加えるのは真言宗の醍醐諸流派
 ⇒仏教学、密教学の深遠な世界の前に歴史考古学いまだに立ち止まってしまう
  →破地獄についての理解は共通
  → この土器に刻まれた梵字真言の宗派的な背景について、
    その成否を決めることはできない。

3.光明真言土砂加持の「お土砂」
 ⇒ 「お土砂」を納めた容器(木下密運先生)
  →土砂加持
  →光明真言で加持した「お土砂」を死骸や墓所に撒くと、死者の罪障を除くこと
   ができ
  →そこからお土砂を死者に振り撒くと死後硬直が解けるとの信仰
  →東寺宝菩提院亮禅(1341年没)の口説を集録した『白宝口抄』にみられる
   「土砂加持事」で、お土砂を収める容器には光明真言を21回繰り返し記すと
   されている。
  →お土砂を納めた容器

Ⅲ.王の墓―土器の出土状況と性格

 ⇒ 「王の墓」
  →獅子窟寺の仁王門跡の東方の山の中腹に造営
  →塔身と相輪を失った2基の宝塔に隣接した場所から出土
     (奥野平次さんのご教示)
  →鎌倉時代の後期ころのもの
  →蔵骨器は塔身の内部か、塔の直下の地中に納骨施設
  →1975年(昭和50)もう1点瓦質の土器、ぎつしりと火葬骨、鎌倉時代末頃
 ⇒亀山上皇の供養塔
  →貝原益軒『南遊紀行』→17世紀のおわりころには広く周知
  →『河内名所図会』「獅子窟寺」の図 → 「亀山陵」の横に「ヤキ穴」
  →西大寺所蔵の江戸時代の獅子窟寺の絵図にも「王の墓」の付近に
   「自天王ヤキアナ」
  → 「寺の別業ともおばしき三昧の地」であり「寺僧達の葬場」あつた(木下先生)
   □ 「王の墓」とその一帯は、権勢を誇る中世寺院の域内に明確な区画をもつて
   石塔を造立された有力な者に血縁する者たちの死後の世界が形成
 ⇒梵字光明真言刻銘瓦質土器の性格
  「王の墓周辺が寺僧の三昧であり、亡者供養のために土砂加持が行われ墓所一帯に呪砂が散じられた時の遺品とも考えられるし、その器が後に蔵骨器に転用された可能性も十分にあり得る」(木下先生)

Ⅳ .獅子窟寺の性格

 ⇒普見山の山中に所在し、寺内の中心にある獅子が吼える形の岩が寺名の由来
 ⇒獅子窟寺にはいくつもの性格

1.本尊薬師如来坐像(国宝)
 ⇒創建にかかわる獅子窟寺の確実な史資料
  → 9世紀末から10世紀初頭に製作(定説)
  → 8世紀後半の可能性も(斎藤望氏)

2.『諸山縁起』の獅子窟寺
 ⇒ 「諸山縁起」
 →大峯、笠置山、葛城の修験、鎌倉時代編纂
 →葛城修験 →和泉山脈から金剛葛城山脈の行場・拝所・祈祷・宿泊のための「宿」
 ⇒ 「北峯の宿」→生駒山地に点在した17か所
   「青谷寺・中山寺・信貴山・往生院・下津村・髪切・生馬・鬼取寺・田原・
   石船・獅子石屋・金剛寺・甲の尾・高峯・波多寺・田寺・八幡」
 ⇒獅子窟寺周辺の北峯の宿
  → 「鬼取寺」 鶴林寺(奈良県生駒市)
  → 「田原」 小松寺跡(大阪府四條畷市・交野市)
  → 「石船」 磐船神社(交野市)
  → 「金剛寺」 交野市傍示の北に小字「金剛寺」、付近の山頂の一帯(奥野平次さん)
  → 「甲の尾」 「こうの」=交野山(こうのさん)の岩倉開元寺

3.日想観
 ⇒『観無量寿経』にみられる16の往生極楽の方法の最初
  → 「西方浄土に往生を願う勝地の一つ」
  →獅子窟寺の立地と景観は「適地」
  →木下密運先生による。史料がしめされていない。

4.権門の寺
 ⇒『新後撰和歌集』(1303年)静仁法親王(土御門天皇の第6皇子)が獅子窟に
  籠った時に和歌を詠む
 ⇒亀山上皇(1249~ 1305)
  →本尊薬師如来に深い信心、獅子窟寺を復興したと伝えられる。
  →上皇とその后の供養塔 → 「王の墓」
 □獅子窟寺は多様な貌をもつ。河内往生院(東大阪市)と同様。

V。「山の寺」としての獅子窟寺

1。「山の寺」の世界
 ⇒ 「山の寺」とは(仁木宏氏)
 「山中や山麓に立地し、本堂・中心堂舎郡(神社である場合も含む)を中核とし、数個から数百の房院がひな壇状(テラス状)に展開する施設の総称」
「禅宗寺院、町の寺(律宗・時宗・法華宗など)、村の寺(一向宗など)との対比で「山の寺」とくくっているが、必ずしも深山・高山に立地するのもには限らない。天台・真言系の寺院が多く、おおよそ9~ 16世紀に発達した。陸奥国から薩摩。大隅国まで列島全体に立地」
「それぞれの地域において「山の寺」は、宗教的な中心地であるだけでなく、もの作りや経済のセンター、文化・芸能の発信地でもあつた。大きな政治力・軍事力を帯びている場合も多い。すなわち「山の寺」は中世の地域社会における重要な「核」のひとつ」
 ⇒獅子窟寺の坊院(片山長三氏)
  → 「全山あちこちに12塔頭」
  → 「松宝院」→山麓に松宝寺
 ⇒ 「諸山縁起」北峯の宿の寺々は「山の寺」
  →小松寺、人葉蓮華寺(金剛寺?)、岩倉開元寺
  →小松寺縁起にみられる信徒の広がり
 ⇒中世の交野の歴史を規定する

2。「山の寺」以後
 ⇒交野の「山の寺」以後
  →浄土真宗、禅宗、融通念仏宗
 ⇒優勢なふたつの融通念仏宗
  → ご回在
  →平野の大念仏寺 →天得如来
  →守口佐太の来迎寺 →明治に浄土宗に

〈参考文献〉
片山長三「神社と寺院」(片山長三編著『交野町史(改訂増補)』1971年)
奥野平次『ふるさと交野を歩く(山の巻)』(交野市・交野古文化同好会 1981年)
斉藤彦松「獅子窟寺の『王の墓』と梵字群要記」(『Saito Print A.C.』87 1989年)
小川暢子・三木治子・小林義孝・西山昌孝・横田明「光明真言を刻んだ蔵骨器」(『大阪文
化財研究』15 大阪府文化財調査研究センター 1998年)
木下密運「交野獅子窟寺出土光明真言刻銘土器考」(『大阪文化財研究』18 大阪府文化財
調査研究センター 2000年)
仁木 宏「日本中世における「山の寺」研究の意義と方法」(『遺跡学研究』8 2011年)
斎藤 望「交野の山寺とみほとけ」(『大阪春秋』174 2019年)
「獅子窟寺出土の
梵文光明真言刻銘瓦質土器」

本誌編集委員・摂河泉地域文化研究所 小林義孝氏

大阪春秋 令和元年春号No.174号より参照
 交野市立教育文化会館(歴史民俗資料展示室)に一点の土器片が展示されている。土器の外面一面に記号のような文字が錐状の尖ったもので書かれている。「梵文光明真言刻銘瓦質土器」と名づけられたこの資料は、交野市の文化財に指定されている。 一八九四年(明治二七)頃に獅子窟寺の「王の墓」付近で発見されたものと伝えられる。

 獅子窟寺は交野市の東部に南北に連なる山地にいくつも建立された中世寺院のひとつである。普見山の山中に所在し、寺内の中心にある獅子が吼える形の岩が寺名の由来である。葛城修験の大和川以北の行場を記した鎌倉時代の『諸山縁起』には「師子の岩屋」とみえ、修験道の聖地のひとつであることがわかる。さらに『観無量寿経』の往生極楽の方法のひとつである「日想観」を修す場であったともいわれる。国宝の薬師如来坐像を本尊とし、薬師如来に深い信心をもった亀山上皇(一二四九〜一三〇五)が鎌倉時代に獅子窟寺を復興したと伝えられている。寺には上皇とその后の供養塔という二基の石塔が現存する。これが「王の墓」である。
 もう三〇年前になるが交野市の小川暢子さんを中心に何人かの者で、「梵文光明真言刻銘瓦質土器」と「王の墓」の調査を行い簡単なレポートを公表した。これを受けて木下密運先生がさらに詳細に検討され、ここに刻まれた梵字真言の解釈と土器の性格について的確なコメントをいただいた。
 ここではこれらの成果によって中世の葬送儀礼や仏教の儀礼に重要な価値をもつこの資料についてその概要を整理する。

 
「王の墓」と蔵骨器

 「王の墓」は、獅子窟寺の仁王門跡の東方の山の中腹に造営されている。山の斜面を造成して造った六〜七m四方の土壇状の区画の中央に東西二基の石塔が並ぶ。どちらも基壇、基礎と屋蓋部という石塔の部材が残るだけで、全体の塔の形を知ることはできない。一層(重)塔か宝塔であると考えられる。どちらも屋蓋の幅が七一cm前後であり、ほかの部材の大きさもほぼ同じである。鎌倉時代の後期ころのものと推定されるが、東塔が西塔に比べてやや新しいと考えられる。
 「王の墓」の下部には蔵骨器などを納めた納骨施設が設けられていた可能性が想定される。『河内名所図会』には現状と同様な「王の墓」が描かれ、「亀山陵」と注記されている。亀山上皇をめぐる伝承が一九世紀初頭には存在したのである。
 梵文光明真言刻銘瓦質土器は「王の墓」の西塔の前面で出土したと伝えられる。さら一九七五年(昭和五〇)にもう一点瓦質の土器が近接して出土した。こちらは器面に文字などの銘は刻まれていなかったが、内部にぎっしりと火葬骨が納められていた。鎌倉時代末頃ものと推定されている。
 中世には高僧などの墓やその周辺に遺骨を納めたり分骨する事例が散見される。「王の墓」とその一帯は、権勢を誇る中世寺院の域内に明確な区画をもって石塔を造立された有力な者に血縁する者たちの死後の世界が形成されていたのであろう。『河内名所図会』の「亀山陵」の横に「ヤキ穴」とされる場所が表記されており、さらに奈良市西大寺所蔵の江戸時代の獅子窟寺の絵図にも「王の墓」の付近に「自天王ヤキアナ」と伝えられる火葬場跡を示している。「王の墓」一帯が死者を荼昆に付し、納骨する場であったことは明らかである。

    
                         王の墓

 
蔵骨器としての梵文光明真言刻銘瓦質土器

 筆者たちはかつてレポートのタイトルを「光明真言を刻んだ蔵骨器」とした。土器を「王の墓」に血縁した人物の遺骨を納めたものとしたのである。
 この土器は、火消壺形の瓦質の土器であり、口径を復元すると約二一cm、高さ約一七cmを測る。製作の年代は鎌倉時代末から南北朝期のはじめ頃と推定される。
 この土器の外面に細い棒状の工具で刻まれた文字は、三種類ある。ひとつは梵字の真言、どうしてこの土器を作ったかという「願文」の一部、そして「金剛資祐海」という僧侶の名前である。

 梵字の真言は、三五文字の梵字を二行に分けて刻んだものを一つの単位としてこれが二十一回繰り返したものを基本とする。①三帰依真言・道場観(三文字)、②光明真言(ニ二文字)、③間投詞(三文字)、④金剛界五字真言(五文字)、⑤間投詞(二文字)、⑥終止符(一文字)である。
 オン・ボッ・ケン(三帰依真言・道場観)。オン・ア・ボ・キャ・ベイ・ロ・シャ・ナウ・マ・カ・ボ・ダラ・マ・ニ・ハン・ドマ・ジンバ・ラ・ハラ・バ・リダ・ヤ・ウン(光明真言)・ウーン・ハッタ(間投詞)・バン・ウーン・タラーク・キリーク・アク(金剛界五字真言)・ソワ・カ(間投詞)・ダ(終止符)
 熊本県人吉市願成寺の所蔵されている鎌倉時代の木造阿弥陀如来座像の胎内に「光明真言破地獄曼荼羅」が納められている。「破地獄」とは地獄の苦を打ち破るという意味で、地獄に落ちることから逃れようとするものである。調査をともにした三木治子さんは、この曼茶羅の構成と土器片に書かれた梵字真言との比較から、光明真言破地獄曼茶羅を立体的に構成したものが、梵文光明真言刻銘瓦質土器の表す世界であろうとした。「破地獄」のための蔵骨器であろうという理解である。また、「願文」は「□□者為六道四生一切有」とみえ、一切の生きているもの(「有情」)のすべてが輪廻を脱し、悟りの境地に達するようにという意味をもつと解釈される。そして「金剛資祐海」は、金剛頂系の仏弟子である「祐海」が、この土器をつくることで仏に願をかけた者か、もしくはこの銘文を記したものであろうとした。
 さらに三木治子さんは、この土器片に刻まれた真言の梵字が日本語の読みに引きずられて梵字の表記が変化していることを指摘している。たとえば文頭から二文字目の「ボッ」は本来「ブーフ」でなければならない。鎌倉時代(一ニ・一三世紀)に次第に読み日本化が進行し梵字自体も入れ替えられるようになる。そのことがこの土器の梵字にも散見されることから、土器自体の製作年代とも合致すると結論づけた。


                 梵文光明真言刻銘瓦質土器


                    土器実測図

 
「王の墓」と蔵骨器

 刻まれた梵字真言の世界について、わたしたちは梵字文化の研究者である齋藤彦松さんの研究に多く学んだ。齋藤さんは、オン・ボッ・ケン(道場観)によって光明真言を強意する方法は東密の小野流という宗派のものとされ祐海もそれに属するものと推定されている。
 木下密運先生は、「ウーン・ハッタ」「ソワ・カ」について、これを真言に加えることで「破地獄」の義を持つ真言とできるとされ、光明真言にこれを加えるのは東密の醍醐諸流派であるとされる。
 破地獄についての理解は共通するが、この土器の仏教的な背景について、筆者には齋藤、木下両先生の見解のいずれもその成否を決めることはできない。仏教学、密教学の深遠な世界の前に歴史考古学は立ち止まってしまうのである。


                     梵文光明真言刻銘瓦質土器

 
土砂加持壼を蔵骨器に

 梵文光明真言刻銘瓦質土器についてその用途と性格について議論がある。筆者たちはあくまで蔵骨器(骨壺)としたが、木下密運先生は土砂加持壷の可能性を考えられている。
 土砂加持とは、密教の修法のひとつで、光明真言で加持をした「お土砂」を死骸や墓所に撒くと、死者の罪障を除くことができるといわれる。そこからお土砂を死者に振り撒くと死後硬直が解けるとの信仰が生まれた。木下先生は『白宝口抄』の「土砂加持事」では、お土砂を収める容器には光明真言をニ一反記すとされ、さらに先に「願文」とした文言と「土砂加持事」の文言を対照して、この土器が土砂加持のお土砂を収めた容器であったことを示された。まことに卓見であると思う。
 ただし先生はこの土砂加持壺が蔵骨器に転用された可能性も示唆されているが、最終的には判断を保留されている。
 筆者は木下先生に考えに学び、さらに「王の墓」の歴史的環境を考慮して、「梵文光明真言刻銘瓦質土器」が「お土砂」を収めた土砂加持壺を蔵骨壺(骨壺)に転用されたものであると断定したい。銘にみえる金剛資祐海の遺骨がここに納められていたのであろうか。

【参考文献】
斎藤彦松「獅子窟寺の『王の墓』と梵字群要記」(『Saito Print AC.』87 一九八九年)
小川暢子・三木治子・小林義孝・西山昌孝・横田明「光明真言を刻んだ蔵骨器」(『大阪文化財研究』一五大阪府文化財調査研究センター 一九九八年)
木下密運「交野獅子窟寺出土光明真言刻銘土器考」(『大阪文化財研究』 一八 大阪府文化財調査研究センター 二〇〇〇年)

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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