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<第115回>  令和3年10月定例勉強会
「私部を歩く」
 
住吉神社~代官屋敷~想善寺~無量光寺~光通寺~私部城跡
  高尾 秀司氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 22名(会員17名)の参加
2021.10.23(土)午前10時、10月定例勉強会に22名が参加されました。
コロナ禍の中、感染拡大予防措置を取って10月より活動を再開して沢山の方々に参加いただきました。

 村田会長の司会で始まり、講師の高尾秀司氏より「私部を歩く」をテーマで詳しくご講演下さいました。今回の講演は、10月9日(土)の歴史健康ウォークで歩いた私部の神社・三ヶ所のお寺と私部城跡を振り返りながらパワーポイントで上映しながら詳細に説明頂きました。

 ※今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」とパワーポイントの画像を掲載させて頂きました。記して感謝申し上げます。
   
講師  高尾 秀司氏
 
「私部を歩く」レジメ
  
高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
私部・住吉神社・代官屋敷・想善寺・無量光寺・私部城

私部の由来   物部守屋が失地回復の為 (私 :后  部:后に使える人)敏達天皇の后 豊御食炊屋姫(後の推古天皇)に物部守屋が交野の地を寄贈(587年)したので私部という名前がついたと言われている。

私部の住吉神社
 もとはニギハヤヒの命を祀っていたと思われるが、途中から住吉四神を祀るようになり住吉神社となつて(住吉四神一上筒男命・中筒男命・底筒男命・神宮皇后)近年は私部の氏神となり住民の信仰を集めている。この神社は江戸時代に奈良春日神社の社殿が20年毎に立替となるので、その宮殿を譲り受けたので春日造りとなつている。
 又境内には宮寺、現光寺があって、その住職が空禅 (きゅうせん)というお坊さんが住んでいて、中興の祖といわれる。私部会館の裏に空禅藪という所があり、歴代の住職のお墓がある。
 当社の入り口の大烏居は再建されたもので、最初の鳥居は文政2年地震の為(大風の説あり)倒れるが万延元年(1825年)再建される。この石は私部口山の鳥居谷から修羅に乗せて村中総出で運んできたという。(交野郷土史カルタ)

大祓
 私部、住吉神社では6月30日 に「大祓」という神事が行われる。「6月晦日の祓い」 として大祓の神事が行われる。境内では茅の輸くぐりが行われます。拝殿に進む前に茅の輸を三度くぐることによつて、この半年の間に知らず知らずの間に身についた諸々の不浄罪機(不浄罪けがれ)などが祓いとられると言われ、心身ともに祓いきよめられると言われます。

半夏生祭り    7月初旬に行われる。 夏至から11日目を半夏生といって昔は前夜の夕方に鐘を鳴らして村人に知らせた。神社では湯立ちの神事があり、その笹を貰って帰り、牛に食べさせ牛の健康をお祈りした。現在では湯立ちの神事として、神社の大釜でお湯を炊き、笛の音の調べの中、お湯を神前に献上し、その後神楽女が釜の熱湯を激しく振り撤き、お湯にあたることにより厄除開運、無病息災、五穀豊穣などを祈る伝統の行事です。

北田家(代官屋敷)
国重要文化財指定 昭和54年2月3日指定される。主家・表門・乾門・北門 
敷地面積 3,768.58平方メートル(約 1,142坪)

乾蔵、母屋   1722年 (享保7年)の乾蔵の棟札が見つかる。従って1715年頃(正徳5年頃)には母屋が建っていたものと思われます。建てられた当初は茅葺屋根であったが寛政8・9年頃(1796・7)本瓦葺に葺き替えられた。そして昭和59年からの保存修理工事で茅葺形鋼板葺となった。

表門   天保14年 (1843年)頃に建てられたものと推定される。長屋としての間取りは 北側はモノミ、オトコベヤ、コメグラ等南側には籠がつってある。 桁行55、8mの表門は日本一の長さである。江戸時代、北田家は旗本畠山氏の代官になる。現在でも長屋門といわれて、以後第10世好剛の代まで続くが嫡子豊太郎が幼弱の為元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。明治になって、庄屋、年寄役は廃止されたが、それ以後も北田家は私部の名士として多方面で活躍され現在に至っている。

想善寺
宗派は西山浄土宗   本尊 阿弥陀如来坐像 檜の寄せ木造り 江戸時代の作

 天正年間(1573~ 1591年)、 想善上人が一字の堂を建て含仏生活をしたのが最初といわれ、後にそれを想善寺と称した。 その後 寛政2年 (1790)現在の伽藍に再建された。本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置し、その左右に仏高12cmの千体仏を祀つている。当地方では、子授け、安産の帯受け及び子供守りの地蔵として参詣する人が多い。地蔵堂の南側にお和尚が野にあった石像物を集めて祀っている。
 昭和44年の大雨で本堂の一部が崩れ落ちるという事件があつた。多くの人の尽力で再建は出来たが、この時はからずも天上裏から位牌と古文書が出てきました。この古文書はもと上河原にあった光蓮寺のものであったことが分かりました。同時にこの寺は元禄時代より古い貞享年間(1684~ 1685)には上河原にあつたことが明らかになりました。この文書はその後、住吉神社の現光寺に移り、明治の神仏分離で想禅寺に移つてきたと考えられます。

無量光寺
 宗派は浄土真宗西本願寺派  本尊は阿弥陀如来立像 平安時代の末頃の作 木造で像高90cm

 かつては住吉神社の西方に天台宗の尼寺として建立される。 しかし嘉吉の変(嘉吉元年=1441年)で播磨の領主、赤松満祐 (あかまつみつすけ)が6代将軍足利義教を殺すという事件)の時播磨に逃げ帰るときに焼かれたといわれる。(一説では追ってきた足利軍に焼かれたと云われる)  1486年頃 (文明18年)今の地に再建されたといわれる。この頃本願寺中興の祖といわれる蓮如がこの地に布教に来られ、当時の僧了道は教えを受けて浄土宗に転じた。
 戦国時代には、この寺は浄土真宗となつていた為、信長の石山本願寺攻めの時本願寺に味方し、信長方にいた私部城の安見氏と戦ったため、寺は焼かれたと伝えられています。 享保15年 (1730年)頃ようやく再建できたという。また幕末の鳥羽、伏見の戦いで負傷者が逃れてれてきたのを助けたという話が伝わっている。
 戦時中供出をまぬかれた釣り鐘には、当時の覚心の様子が刻まれていると言われる。(そこには約20年間帰れなかつたという。最後に寺村に帰りつき小さな庵を建てて布教したのが今の正行寺であつたと言われている。

光通寺
  宗派 臨済宗 本尊 聖観音菩薩立像 檜材 鎌倉時代の作 像高 71、5cm

 創建は室町時代の初め頃。京都東福寺末  開祖はF交野郷土史カルタ」にあるように別峰和尚です。後村上天皇に寵愛された方です。後村上天皇の勅願寺という説もあります。実際には別峰和尚はこの寺に来て半年程で亡くなられたようで開創者は赤松氏といわれている。別峰和尚の墓は寺内の墓地にあります。室町時代から戦国時代にかけて朝廷にお茶を献ずるなどの力を持つた寺であつたようです。
 この寺は戦国時代に至って敷地を私部城に取り込まれ、城の外側に築かれる出郭として利用されたと考えられています。この頃の出来事と考えられる記述が、光通寺の寛文四年(1664)の棟札に出てきます。すなはち「信長配下の安見右近は義も道もなく法をそこない光通寺の壁を破り仏閣を地に堕とした」とある。
 寺内には小さな祠が東の端に3つあります。北から弁財天・稲荷さん・お不動さん・役の行者堂が祀られています。その前にコバカ地蔵(京阪電車・私市線建設の時交野駅の南の踏切付近の地下から多数出てきた)が祀られている。
 表の石垣には2体の仏像が彫られた石が使われている。(石垣地蔵とよんでいる)

私部城跡
 私部城は室町時代の初め頃に完成したと言われていたが、最近の研究では1570年頃には立派な城として機能していた事が分かつてきました。初代の城主は安見右近・2代目が安見新七郎でした。私部城は別名「交野城」とも呼ばれる平城で、約10年間健在であったようです。標高22~28mに位置している。遺跡の規模は東西400m、 南北300mである。城は本郭および二郭のほか三郭、四郭、最近五郭が発掘調査の結果あったことが分かりました(現在の交野郵便局)
 城の北側には百々川が流れ、南側は本丸池などの池が残り、堀として利用していたと考えられます。江戸時代に入ると、城の南側には家が建ち並び一部は郭内にも建築され、現在では郭部分は主に畑地、堀部分は水田として利用されている。

最近、私部城跡の一部が市指定文化財にしてされました

 交野市教育委員会ではで平成30年10月 1日付けで、戦国時代の平城、私部城跡(交野市私部6丁目)が市の文化財に指定されました。指定されたのは、城郭の本郭(本丸にあたる)の一部及び二郭の2420平方メートルの遺構で土で造られた、本郭と二郭が連なる連郭に築かれた平城の特徴が分かるという。

<年表>
元亀元年 (1570)        私部城が機能していたことが分かる
元亀2年 (1571) 5月10日   安見右近が松永久秀に呼び出され自殺させられる
元亀2年5月 12日   私部城が松永久秀、久道に攻められるが持ちこたえる
               (この時鉄砲を使つたのではないかとおもわれる)
元亀3年 (1572)    松永久秀・久道親子が再び私部城を攻める。
               この時は 柴田勝家、佐久問信盛、明智光秀等が応援に
               かけつ松永親子は退散する
天正6年(1578年)
 10月1日       織田信長が堺から京都に帰るとき「安見新七郎」所で休息する
天正10(1582)年6月   織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺される

私部を歩く パワーポイント画像集
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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