<第141回> 令和6年12月定例勉強会 『フェノロジーカレンダーと 各地の暮らしと習慣』と茶話会 講師 : 廣岡 昌子氏 (交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 26名(会員25名)の参加 |
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2024.12.21(土)午前10時、12月定例勉強会に26名が参加されました。村田会長の挨拶で始まり、講演会は、講師の廣岡昌子氏が「フェノロジーカレンダーと各地の暮らしと習慣」の演題で「12月の季節の行事の起源や由来・エピソードなど、あれこれ」について約1時間、交野の風俗や習慣を交えながら熱く語って頂きました。 前半は、講師の廣岡昌子氏より、先ず「フェノロジーカレンダーとは?」の話から始まりました。交野の自然と暮らしを表した生活季節暦、1月から12月までビジュアルに歴然と分かりやすく編集された暦。 四季のある日本では陰陽道と道教が混ざって、既に平安時代には二十四節気、七十二候が出来て農業や薬草や食事や神事や節句など日常生活の指針となっていた。 本日は、その中の冬の季節・12月の行事について、掘り下げて考えて行きたいと思います。 先ずは、本日は奇しくも12月21日・冬至です。一陽来復と呼ばれ、冬が終わり春になる、悪いことが終わり幸運が始まる縁起の良い日です。 次にクリスマスから始まり、注連縄、門松、お餅つき、大掃除、除夜の鐘まで、この後は、後半の茶話会で各地区に分かれて、交野だけでなく他の地域の行事のことなども話し合いましょうと締めくくられました。 後半の部は11時15分再開。昨年の6月に初めて試みられ、2回目の「茶話会」に移った。女性部の皆さんのご努力で事前に、茶菓子やお茶を準備頂き、星田、私部、私市・森・寺、郡津、倉治の5つのテーブルに分れて楽しい話し会となりました。 各テーブルには、事前にお願いしたリーダー役、女性部の皆さんにはテーブルごとに進行役・記録役を勤めて頂き、茶菓子を頂きながらにこやかに元気に話は弾んで行きました。僅か40数分ばかりの時間でありましたが、大変有効な時間をお過ごしいただき大好評でした。 参加の皆さんの元気な笑い声やにこやかな話し合いが出来たこと、大変良かったです。女性部の皆さんのお力とご協力に心から感謝申し上げます。 皆様お疲れ様でした! 「 5つのテーブルそれぞれで、12月の行事のお話が盛り上がって、いろんな方と知り合えて非常に良かったと思います」「女性チームの皆様、各々が洗練された魅力的で実行力のある女性軍団(女性)だと再認識しました」「これからが益々楽しみです 、みんなで素敵なチームに育てていきましょう~」と感想を頂戴し大好評でした。 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を 頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 ※写真撮影は、毛利さんにお世話になりました。 |
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<講演概要> 「フェノロジーカレンダーと各地の暮らしと習慣」 「交野の風俗と習慣」 1.今日まで受け継がれて来た風俗や習慣は、 その土地に暮らしてきた人間の足跡ではなかろうか 2.私たちの先祖は、自然を司る神仏を敬い、常に生活の安寧を願い、 知恵を働かせて懸命に生きてきた 3.夫々の土地の風俗や習慣は、神仏に感謝し自然と共に生きる豊かさを 大切にし、互いに協力し、助け合いの中から生まれてきた 4.フェノロジーとは生物季節学で、フェノロジーカレンダーは地域の自然や 人の営みを表した生活季節暦のこと 5.今月の勉強会では、今の季節の12月の行事を取上げてみたい ① 冬至(12月21日) 1年で最も昼が短く夜が長い日 ゆず風呂に入る・カボチャ(南京)を食べる ② 日本でのクリスマス 本来の宗教性のない日本人の大らかさ 起源)キリスト教禁止令のあと、明治になって再びクリスマス化が もたらされクリスマスツリーを飾り、ケーキを販売した ③ 注連縄について 新年を迎える歳神様の「依り代」 神の居られる神聖な世界「常世(とこよ)」と人間の住む 「現生(うつしよ)を分ける結界 起源)古事記・日本書紀の記述 日本神話に登場する天岩戸神話 天岩戸にこもった天照大御神を連れ出した後、再び戻らない ように岩戸に縄を張ったという ④ 門松 神道では新年の歳神様の「依り代」 門松にまつわるエピソード 武田流門松とは? 竹の先端を斜めに切った「そぎ」と真横に切った「寸胴」 ・門口に撒く白砂 ⑤ お餅つき 弥生時代以降、命の源である稲が神聖視され、神から与えられた 糧で、生命力の象徴として稲作信仰が根付いた ・鏡餅 ・餅つきの日 ⑥ 大掃除 起源)平安時代に宮廷で行われていた「煤払い(すすはらい)」 という儀式です。この儀式は、1年間に溜まった汚れを 掃除して清め、新年の神様を迎えるための重要な儀式 ⑦ 除夜の鐘 起源)除は古きを捨て新しきに移る意味。大晦日を除日といい、 「除夜」とは「旧年を除く夜」の意味 人間には108つの煩悩があり、鐘を撞きながら1個ずつ消してゆく 古くからのこの「風俗と習慣」は、行わなければ消えてしまう淡雪のように 脆いものです。この伝統を受け継ぎ、伝えて行く事が何よりも大切です。 フェノロジーカレンダーを作成して警鐘を鳴らし、記録に残して行く努力が必要です。 |
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講師 : 廣岡 昌子氏 |
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村田会長の挨拶 |
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『フェノロジーカレンダーと 各地の暮らしと習慣』 =交野の風俗と習慣= 講師 : 講師 : 廣岡 昌子氏 |
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今日まで受け継がれてきた風俗や習慣は、その土地に太古から暮らしてきた人間の生活の足跡ではないでしょうか。 私達の先祖は、この地の風土に溶け入って、自然を司る大いなる力である神仏を敬い、目に見えぬ邪気や悪霊を恐れ、災害、飢饉、病気のないことを祈り、安寧を願い、知恵を働かせ、懸命に生きてきたように思えます。 その生きざまから必要に応じて出てきたのが祭りであり、節分のような邪気払いであり、五行や暦をひも解いて子供の無事を願う節句であり、先祖の霊を慰める彼岸の墓参や盆の行事でした。これらが連綿と引き継がれて慣習となり、生活に溶け入って風俗となって行ったのだと思います。 各地に散らばる風俗習慣には、時に暗い奥深いものが潜んでいる場合もあります。例えば、土用には土をいじるな、お墓へ行けば帰りは必ず塩を踏んで穢れを祓え、鬼門には気を付けよ、蛇や狐などの生き物にひどいことをすると祟られるぞ等々、今では迷信とされる物の中には、先人達が何百、何千年の間に経験してきた、目に見えないものへの”畏れ”から来る知恵の警告があるのかもしれません。彼らのそんな声なき声に耳を澄ませば何か大切なことが聞こえてきそうです。 そんな風俗習慣の中で、何より喜ばしい事は、我々星田の先人たちが四季折々に祭りをはじめ、様々な行事を行いつつも、感謝をし、仲良く楽しむ事を忘れなかったという事です。村人達は屋号で呼び合い、他村同様に冠婚葬祭や災害時や必要な時には協力し助け合い、翼を寄せ合い暮らしてきました。現代のような豊かな物質や機械文化はありませんでしたが、神仏に感謝し、自然とともに生きる豊かさを満喫していたように思われます。心豊かに、心楽しく暮らす事が最も大切な事だと知っておられたのでしょう。 しかし、古くからのこの「風俗や習慣」は行わなければ消えてしまう淡雪のように脆いものです。昨今、村という閉鎖的だった風土に、多くの人々を迎え、賑やかになり発展していくようで喜ばしい事なのですが、この伝統を受け継ぎ、伝える人たちも少なくなってきています。もう消えかかっている淡雪もあります。 この現状を交野古文化同好会が察知しフェノロジーカレンダーを作成して警鐘を鳴らし、記録に残しておこうと務めておられます。これは素晴らしい事業だと思います。その中で「星田の風俗と習慣」を記す機会を与えて下さった事を心より感謝致します。現代の豊かな物質文化の中にあって、私達は何をどのように継承していけば、この先、心豊かな幸せな生活に繋がっていくのかを考えつつご高覧いただけると幸いです。 |
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~~交野のフェノロジ―カレンダーと各地の暮らしと習慣~~ 地区担当 森:向井様 私市:片岡様 私部:井戸様 郡津:巽様 倉治:厚主様 <12月>
1)フェノロジーとは生物季節学でフェノロジーカレンダーは地域の自然や人の営みを表した生活季節暦のこと。四季のある日本では陰陽道と道教が混ざって、既に平安時代には二十四(にじゅうし)節(せっ)気(き)、七十二(しちじゅうに)候(こう)ができて農業や薬草や食事や神事や節句など日常生活の指針となっていた。四季を六つに分け、それをまた三候ずつに分けている。冬は立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒。その中の七十二候にそれぞれ冬至なら「夏枯草生ず」(ウツボ草)「雪下りて麦のびる」「芹即ち栄う」等々の季節の指針のフレーズがある。 2)冬至(今日:12月21日) ★ 1年で最も昼が短く夜が長い日。翌日からは再び少しずつ日が伸びて、弱かった太陽の力が復活するので「一陽来復」(いちようらいふく)呼ばれ、冬が終わり春になる、悪いことが終わり幸運が始まる縁起の良い日。この日は柚子の実を浮かべたお風呂に入ると邪気払いになり風邪をひかないと言われる。「融通が利く」の語呂合わせもある。「ん」が付くとして南京も食べる。中国では餃子を食べる。(古くはケルト族もストーンサークルで冬至の太陽を崇め祭事を行い、ゲルマン民族、バイキングの間でも冬至をユールと呼び祭事を行い、クリスマスやハローインに発展していった。) 3)日本でのクリスマス ★起源 1552年(室町時代)に山口県の宣教師たちが信者を集めて、キリスト降誕祭のミサを行ったが1617年徳川幕府がキリスト教禁止令を出した。明治になって再びクリスマス文化がもたらされ、横浜の明治屋が日本初のXマスツリーを飾り、不二家がXマスケーキを販売しだした。明治25年、正岡子規が「蠟節のあとにかしましくりすます」「八人の子どもむつましクリスマス」「贈り物の数を尽くしてクリスマス」といち早くクリスマスを取り入れている。蠟八節(12月8日)は中国の厳粛な仏教・儒教の祭事。しかし日本でのクリスマスの大半は宗教性がなく「良い子、サンタさん、プレゼント、ツリー飾り」などで、子どもの夢を育みたい親心、欧米の文化を取り入れたいという日本人の知識欲や包容力から来ているように思える。それが何事も排他しない日本人の大らかな、本来の宗教性かなとも思えるが、皆様はいかが思われますか~? 4)注連縄について ★ 注連縄の意味 新年にお迎えする歳神様の「依り代」の役目をする。 神の居られる神聖な世界「常世(とこよ)」と、人間やその他の生き物の住む世界「現世(うつしよ)」を分ける結界で、神域に不浄なものが入らぬように防ぐ物である。(神社は勿論、家の門口、玄関、神棚、仏壇、かまど、井戸、自動車、電車、横綱の土俵入りの腰飾りに至るまで様々 その他、注連縄や紙垂は大岩や大木、大滝などに神様の依り所として飾られている) ★ 起源 古事記~弟の乱暴に落胆し、天岩戸に隠れられた天照大神を八百萬神々が集まられ、思 金(おもいがねの)神に考えさせて、長鳴鳥を啼かせ、天の安の河上の堅い巌を取りて、天の金山の鐵を取りて鍛人かぬち(鍛冶や)の天津麻羅を招き、いしこりどめの命に命じて鏡を作らしめ、たまのおやの命に大きな勾玉が沢山付いている玉の緒の玉を作らせて、~~天照大御神いよいよ あやしと思いてやや戸より出でて臨みます時に、その隠にかくり立てる手力男の命その御手を取りて引き出しまつりき。即ち布刀(ふと)玉の命 尻久米(しりくめ)縄をその御後ろに引き渡して「ここより内にな還り入りたまひそ」と申しき。と書かれている。 「尻久米縄」と書くのは尻は端、久米は出すの意味で縄の先を出して飾ったの意味。シリクメのリクが落ちてシメ縄となったらしい。「占める」から〆縄、標縄ともいい、結界の意味らしい。 また「注連縄」の当て字は「注連(ちゅうれん)」という中国の死者が出た家の門に張る縄の事で、故人の霊が再び帰って来ぬようにした風習で、これが門に縄を渡す様や霊的な結界であることが日本のしめ縄と似ているのでこの字を当てたという。 ★ 飾る日とお飾り 12月13日より飾って良く、28日が末広がりで最も良いらしい。29日(=二重苦)31日は末日で良くない。一年中飾る所もある。お飾りの橙は太陽(天照大神)と生命力の象徴で代々栄えるの意味。裏白は裏も白い清廉な心、白髪になるまで、裏白のように大きく育つように。ゆずり葉は世代を次に譲れるように願う。 紙垂(しで)は清浄で神聖な場を示し、豊作を持たらす雷の稲妻を表し、邪を祓う。(天岩戸の前で、神々が天照大神が出られるように祈られた時に榊の枝に八咫鏡や勾玉や楮や麻の幣帛(へいはく)をたれて飾り祈願されたのが由来。麻布は平安時代ごろから紙に代わる。 注連縄を雲と見た時に紙垂は稲妻、しめの子は雨を現わし3本5本7本のように奇数。神道では「左が神聖で右が俗」と言われ、神様から見て左側に綯い始め(太い方)がくるように飾る。左から綯い始める。注連縄には一文字、大根締め(両方がつぼまっている)、ゴボウ締め(片側のみが細い)、輪飾り等がある。輪は丸で和の心や永遠を現わし縁起が良い。 5)門松 ★ 起源 門松も神道では新年の年神様の依り代で「松は千歳を契り、竹は万歳を契る」と言われ、常緑樹の松は永遠の力を象徴し、また「祀る」の意味があり、両方で神の依り代の永遠を願う。年神様は門松を目印に降臨されると言われる。平安時代の宮中儀礼「小松引き」が起源らしい。その年の「初子の日」に子供らと野に出て小松を引き抜き、持ち帰り正月の門口に飾ったらしい。常緑樹の松は永遠の力と長寿を現わし、「子の日」と「根伸び」をかけて子孫の根が伸びるように願った。 関西地方で今も残る紅白ののしで巻いた根つきの門松はこの貴族の遊びの名残らしい。 ★ 門松の省略 昭和13年 日中戦争が激化したときに、大阪府の一部の町が門松廃止運動を行った。運動を回避するものとして門松を印刷した紙ビラ等も流通した。今も見かけられる。 ★門松にまつわるエピソード
江戸時代の門松は地面から家の二階屋根まで届くような高さの物が飾られていた。 ★門口に撒く白砂 門口から入口まで清めるため白砂を撒いた。星田では砂は天の川の川砂を頂くか、新宮山に新道を付けた時に出た白砂を頂き撒いた。白砂を門口に盛り付ける家もあった。 瀬戸内の村々も清めのために門口や門松の根元に海の白砂をまくらしい。 日の丸の国旗を門口に飾った。 4)お餅つき ★ 起源 縄文時代に稲が入ってきて、弥生時代以降は命の源である稲が神聖視され、お米は神から与えられた糧で、生命力の象徴として稲作信仰が深く根付いていった。蒸す文化が既にあり、餅米も入ってきて餅つきもしていた。臼と杵で餅米を搗くのは子孫繁栄の願いがこもる。 お米から作るお酒とお餅は神聖な神への供物として神事、節句に広く用いられた。 当時は赤米であったらしい。平安時代には年中行事を祝う飲食物として皇族や貴族の間に広く飲み、食べられ、室町、江戸時代には庶民の間にも広まっていた。 又お餅つきは一人ではできず、家族親族、老若男女の村人達が力を合わせて搗くので、楽しく一体感を高め、社会性がある文化で、今に続いている。 関が原から西は丸餅、東は四角い餅を作るらしい。西は公家文化が根底にあり、丸餅は「円満」を意味し縁起物と考えられるが、角餅は坂東武士が戦に行く前に腹持ちの良い餅を食べ、又持って行くが「敵をのしてしまおう」の願を籠め、四角の角が角(つの)に似て武器や、兜の角に似ているので戦勝を願って角餅にしたらしい。 ★鏡餅 お餅つきではまず、鏡餅を作る。なぜ鏡と言うのかは、3)で述べた八咫鏡に由来し、年神様へのお供物で依り代。平安時代から太陽と月、陽と陰を表し「福が重なる」「年を重ねる」と二重にしていたらしい。お飾りの橙、裏白等はしめ縄と同じ由来。串柿だ けが三種に神器の草薙の剣を表しているとか。(鏡開きについては来年1月に続く) ☆ 鏡の大きさ:八咫の咫(あた)は円周の単位、と見て直径1尺の円周を4咫として「八咫鏡は直径2尺(46㎝前後)円周約147㎝の円鏡を意味する」という説もある。 ★餅つきの日 28日か30日が多い。これより早いとお餅が固くなる。29日は苦を搗く、31日は前日なので神様に失礼当るので避ける。男性は臼の中の蒸したお餅の小搗、大搗をし、女性たちは餅をとり、皆で温かい餅を丸める。柳の枝に小餅を付けて餅花を作り飾る。 5)大掃除 ★ 起源 平安時代に宮廷で行われていたと記録にあり、「煤払い」は家と心を清めたうえで年神様を迎える神事である。 鎌倉時代以降はその行事が仏経のお寺にも広がり、江戸時代には12月13日が「煤納めの日」と定められ、1641年のこの日から毎年、江戸城が畳を上げ埃を祓い、障子を貼り変えるなどの大掃除を始め、一般庶民にまで普及した。 ~手の甲に 餅を受け取る 煤払い~という江戸時代の句があり、12月13日に大きな家は手伝いを呼んで煤払いし、労をねぎらうために一方でお餅つきをして食べさせていたらしい浮世絵が残っていて、搗き手は火消しだったらしい。14日から浅草寺などで歳の市が始まり、正月用品を売り始め、今に至っている。 星田では畳を上げる大掃除は夏の風物詩であり、年末には障子を張り替えたりのお掃除はするが餅つきとは切り離して行う。皆様はいかがですか? 町内大掃除は12月の始めの土曜日か日曜日に行っている。 6)除夜の鐘 ★ 起源 除は古きを捨て新しきに移るの意味。大晦日を除日と言い「除夜」とは「旧年を除く夜」の意味。 除夜の鐘は中国の宋代の禅宗寺院が月の最終日の夜に鬼門からの邪気を祓いのけるために鐘を撞いた習慣に由来する。これに習って日本でも鎌倉時代以降、禅寺で朝夕に時を知らせる鐘が撞かれるようになる。 室町時代には大晦日から元旦にかけての除夜に欠かせない行事になり、江戸時代には多くの寺で行なわれるようになり、昭和になってラジオが普及し、NHKが中継放送した事で一般にも広く定着していった。 108個の煩悩を、鐘を撞きながら一個ずつ消していく。 ①六根(眼(げん)、耳(に)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い))の夫々に好、悪、平があって18類。この18類に夫々、浄=清い、染=汚い の2類があり、36類この36類に前世、今世、来世の三世があるので合計108となる。 ② 四苦八苦の意味で 四九=36 八九=72 合計108 ⓷ 月の数12、二十四節気24 七十二候 72 合計108 東本願寺、西本願寺の浄土真宗では「親鸞聖人のお教えでは煩悩を祓うという考え方はしない」ので撞かない。その代わり親鸞様の命日11月21日~28日に報恩講を行う。 星田では村人が慈光寺、光林寺、光明寺で一斉に除夜の鐘を撞き、また、それを聞きつつ妙見宮にお詣りしておぜんざいを頂き新年をお迎えする人も多い。 皆様はどのようにお迎えになりますか?~~ ☆彡 この後、茶話会で各地区に別れてこれらの事についてお話合い下さいますように そして、交野だけでなくご自分の居られた他地域の事もお話し下さり、話を膨らませて下さいます様にお願いいたします☆彡 |
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