<第143回> 令和7年2月定例勉強会 大正天皇が統監 ー淀川沿岸、交野ヶ原で特別大演習ー 講師:堀家 啓男氏(交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 37名(会員33名)の参加 |
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2025.2.22(土)午前10時、2月定例勉強会に37名が参加されました。村田会長の挨拶で始まり、講演会は、講師の堀家啓男氏が「大正天皇統監 -淀川沿岸、交野ヶ原で特別大演習」の演題で「大正天皇のことから始まり、星田駅に降り立たれてから淀川・交野ヶ原での特別大演習に立ち会われた状況等」臨場感いっぱいに約1時間30分、熱く語って頂きました。 途中、前半のお話が終わり、10分間の休憩中、講師の先生の周りには沢山の参加者が集まり、先生がいろいろと蒐集された資料・写真・新聞記事などを解説頂きながら見せて頂き、写真撮影など記録に留め、HPに掲載出来ましたこと、御礼申し上げます。 参加された方から、「これまで余り馴染みのない大正天皇のことを改めてお聞きし、また交野ヶ原での大演習が行われていたこと等、大変良い勉強になりました。沢山の資料を読みこなされ、分かりやすく臨場感あふれるお話しぶりに聞き入りました。本当にありがとうございました。」とご好評を頂戴しました。 <講演概要> 大正天皇が統監 ー淀川沿岸、交野ヶ原で特別大演習ー ![]() 1.大正天皇、星田停留所に降り立つ 2.大正天皇行幸記念碑 3.閲武駐蹕記念碑(えつぶちゅうひつきねんひ) 4.交野ヶ原の特別大演習 5.枚方には足を入れず 6.東宮、牧野の沃野へ行啓 7.高槻工兵隊の訓練場が対岸に 8.大正天皇のこと ※ 講師:堀家 啓男氏(ほりいえ ひろお)の略歴のご紹介 ・枚方市役所の副市長を経て ・宿場町枚方を考える会の会長を12年間勤められた これまで、古文化同好会の勉強会で3回ご講演をお願いしました ・2013年 「紀州侯の参勤交代と枚方宿」 ・2019年 「東海道五十七次にまつわるお話」 そして昨年7月、「片町線誕生~京阪電車の開業」に引き続き 今回は、「大正天皇が統監 交野ヶ原で大演習」をお願いしました。 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を 頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 ※写真撮影は、毛利さんにお世話になりました。 |
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![]() 講師 : 堀家 啓男氏 |
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![]() 村田会長の挨拶 |
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![]() 堀家先生の研究された書類に目を通す参加者の皆さん |
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大正天皇が統監 (レジメ)) ー淀川沿岸、交野ヶ原で特別大演習ー 講師 : 堀家 啓男氏 (交野古文化同好会) |
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大正天皇が統監 ー淀川沿岸、交野ヶ原で特別大演習ー (PDF) | ||||
![]() 大正の初め、淀川沿岸や交野ケ原等を舞台に大阪陸軍特別大演習が行われた。その頃の世界情勢は第一次世界大戦(1914.7)が始まり、日本も日英同盟に基づきドイツに宣戦布告(1914.8)、陸軍が中国・山東半島にあるドイツの要塞を占領し、日本国民が戦捷気運に勢いづくとともに、緊張もあった時期だった。特別演習は即位(1912)したばかりの大正天皇が統監した。軍事演習ではあったがそろそろ紅葉が色付き始める交野ケ原の美しい野山が新天皇を迎えた。 ![]() 大正3年(1914)11月15日、午前7時50分、片町線星田停留所(現、JR星田駅)に軍服姿の大正天皇が降り立った。 (写真①、現在のJR星田駅) ![]() 交野ケ原で行われる陸軍特別大演習前半を統監するため演習場最寄りの星田駅に到着したのだ。天皇は、まず、東高野街道沿いに設置された赤十字の臨時野戦病院を視察する。その後、星田村が星田駅南に設置した「御野立所」(高貴な人が野外で休憩する場所のこと)に寄る。そこから河内磐船に設けた南軍の大砲陣地を遠望出来たのだろうか。 御野立所の接待役を命ぜられたのは星田村の在郷軍人、近衛兵として日露戦争(明治37年~38年、1904-05)に出征し勲章をうけた富井信三郎である。信三郎はたいへんな緊張ぶりであったが、天皇は気さくに話しかけ、面倒な儀礼など何もいらず、『安心してゆっくりお顔をおがんでお茶を汲むことができた』という。後日、宮内省から金5円が下賜された。この話は星田の和久田馨さんの聞き伝えであるとのこと。(「交野町史改訂増補二」) 大正天皇は皇太子時代、地方行啓や軍事演習にしばしば出かけたが、かたぐるしいことを好まず、接待する知事や関係者に気軽に話しかけた。また乗っている人力車の上から車夫に話しかけ、予定のコースを変更させ随行者をあわてさせたというエピソードが多い。漢詩や和歌をたしなみ、特に漢詩に優れ、北陸行啓時(明治42年、1909)、富山の呉羽山(富山市街の西、標高76.8メートルの立山眺望の絶景地)で絶景を前に堂々たる漢詩を作っている。現地にこの漢詩碑が残るが、大正天皇の唯一のものだという。 星田村でも、天皇と元軍人ではあるが村民の和やかな交流があり、大正天皇の一面を披露している。 「登呉羽山」 雨後風無秋気温 呉羽峻阪留履痕 維昔秀吉進征旗 敵将力窮降軍門 吾来此地見形勢 中越全景眼伯存 立岳衝空向東聳 神通水漲指北奔 <後略> ![]() ![]() この星田での演習に関する記念碑がJR星田駅近くにある。「大正天皇行幸記念碑」と彫られた立派な碑である。「陸軍大将一戸兵衛書」とされ、背面には「大正三年特別大演習御野立所 昭和三年十一月建之」とある。 (写真②、大正天皇行幸記念碑、星田駅南)↠ 御野立所跡に星田村が建立したのだ。建立は、大正天皇の没(1926・12・25 享年47歳)後、昭和天皇が即位の大礼を行った昭和3年(1928)11月となっている。新天皇の皇威の発揚を祈り、この機会に先帝の行幸碑の建立となったのだろう。石垣や台座のある立派な碑である。揮毫した一戸兵衛は、青森県津軽出身、日露戦争時の旅順攻囲戦で活躍した名将とのこと。各地の記念碑にたくさん揮毫している。黒い石で記念碑が北向きに建っているためか、表面が四六時中、逆光になり文字が読み取りにくいのと、後ろに大きなビルがあり目立たないのは残念である。 この後天皇は、交野ケ原で展開された模擬戦闘を統監するため、たぶん人力車であろうが私部「上の山」に向かう。 ![]() 大演習の本営は、隣村、交野(こうの)村の私部、「上の山(うえんやま)」の桑畑に置かれた。地図でいうと、旧東高野街道が生駒山の麓から交野方面へ左折して、「大峰山」碑に至り分岐し山根街道に入ったすぐの地である。当時は、一面の桑畑であった。私部から見ると高台で、地形は北方へなだらかに下り、右手前に天野川が北行し、交野ケ原の野山が広がる。はるかに遠く淀川の上流部や天王山を望む絶景地であった。 天皇が将官を従え双眼鏡で観閲した「御野立所(本営)」跡には ![]() 磊落で穏やかな大正天皇であったらしいから、現在ならむしろ紅葉が色付き始めた絶景の交野ケ原の光景を目にとどめ、漢詩を詠んだ地であるとする方がふさわしく思える。軍事行幸だからやむをえないか。 (写真③、「上の山」にある「閲武駐蹕記念碑」)↠ 「交野町史改訂増補二」にこの「野立所」跡に関する記録がある。桑畑の所有者、私部の冨田武右衛門が、「御野立所」として使われたことは、名誉なことで、記念碑建立のため同地を村に寄付したとある。大演習直後の11月20日,交野村は臨時村議会を開き、全会一致、寄付収受の議決を行う。議事録により記念碑が、用地の寄付を受けて建立されたことが分かる。 その後、天皇は折り返し星田停留所に戻る。午後0時40分発の列車で帰阪し、八尾方面で行われる後半の大演習を統監するためであった。 両碑とも立派なもので、市町村合併を経て現在は交野市に属している。残念ながら両碑とも周辺環境が変わり、十分保護、整備されているとはいいがたい。補強を行い、来歴を語る説明板を立ててほしいものだ。後に、大正天皇は病気がちで自ら統帥する陸軍の特別軍事演習にほとんど出られず、皇太子(昭和天皇)が台臨されたので、大正天皇の行幸碑は珍しい。交野とは縁が深く、なんと2か所の行幸碑が残るのが全国でも貴重だ。 ![]() 大正天皇が統監した大阪陸軍特別大演習前半が展開された演習地は枚方の北、楠葉の淀川沿岸、及び交野ケ原の北から交野市の南まで大きく広がる。 演習は北軍2個師団(善通寺第11師団、京都第17師団)2万人、南軍2個師団(大阪第4師団、姫路第10師団)2万人、合わせて兵士4万人が参加した。物資の運搬や審判、見学者を含めると10万人にのぼるという大規模な模擬戦争だった。 ![]() 北軍は京都方面、山崎から楠葉へ淀川を渡る船橋を仮設、23隻の船を隙間なく並べ、その上に板を渡し橋を架設したようである。楠葉に渡った北軍の一部が京街道を南下、磯島河岸に布陣、本隊は東へ東高野街道に沿って散開し、交野ケ原の中央を一斉に進撃した。さらに京街道を下った騎兵部隊は天野川河口付近から河川敷を利用し、寝屋川方面まで南下、南軍後方への回り込みを図る。 南軍は交野ケ原を東西に貫く天野川を防衛線として左岸に沿って茄子作から宮之阪方面へ布陣した。天野川上流の河内磐船に大砲陣地をおき、東高野線沿いに臨時野戦病院を設置した。ここで両軍は天野川をはさんで対峙した。天野川下流の水田地帯では両軍激突し戦闘が行われた。寝屋川でも水田地帯で戦闘があり、後日水田への補償問題が生じたとのこと。 京阪交野線はまだ敷設(昭和4年)されておらず、野山が広がっていた。上空には複葉機が各軍1機ずつ、偵察のため飛んでいた。南軍の1機が北軍騎兵の動向を偵察していたが、エンジントラブルで淀川河川敷に不時着したそうだ。 演習には要所要所に旗を持った審判がおり勝敗を判定した。北軍の騎兵部隊が、寝屋川方面から回り込み、背後から南軍を攻撃する動きを見せたため、南軍は東高野街道を通って八尾まで撤退する。演習前半は北軍優位のまま終結し、特別大演習は、翌18日から20日にかけての後半、河内中部、八尾方面に移る。大正天皇は18日以降も元気に久宝寺方面で演習を統監したという ![]() 特別大演習では、交野市に2つの大きな行幸記念碑が建ったが、模擬戦闘が行われた枚方市には筆者の知る限り記念碑が残っていない。「上の山」を北方に下れば、すぐ法明上人の旧跡「本尊掛松」がある茄子作で旧川越村である。大正天皇は枚方エリアには一歩も足を踏み入れなかったようだ。もう少しで川越村(合併後に枚方市の一部)への大正天皇の行幸が実現しただろうと思うと残念である。枚方にとって兵士や軍馬、兵器によって踏み荒らされた山野や田畑が残され、銃声や轟く砲声に緊張を強いられる迷惑な実態だったからだろうか。 とにかく太平洋戦争の敗戦まで、交野ケ原一帯は小河川や谷があり、野山や藪が広がり、陸軍の演習には最適の地であった。昔、貴人が鷹狩をした「禁野」の地は大部分、手つかずのまま残されていたのだ。丹波篠山や福知山から、連隊がやってきて定期的に演習を行い、兵が地元各村の民家にも宿泊したそうである。 ![]() 大正天皇がまだ東宮(とうぐう 御所の東に住む宮をいう。明治天皇の皇子、嘉仁親王のこと)であった時期のこと、明治43年(1910)9月、北河内郡の牧野村(現在、枚方市)の淀川に近い沃野を訪れたことがある。東宮はこの年から翌年にかけて京都、滋賀、三重へそれぞれ軍事行啓に出かけたが、この時は特に宇治川沿岸や淀川沿岸の工兵大隊のある淀川筋で行われた。 東宮は行啓時、簡素を好んだ。そもそもじっとしているのが苦手なようで、その点、軍事行啓は隊列が簡素で、演習時以外は比較的行動に自由が利くため、好みとしていたようである。今回、演習最寄り地への交通手段として同年4月に開業したばかりの京阪電車を利用したのも、簡素好みの東宮が提案したのかもしれない。 開業日(同年4月15日)の午後、脱線事故を起こし、風評悪化で乗客数の伸びに悩んでいた京阪電鉄は東宮の沿線への御成りに大いに喜び、電車を改装しお召し電車を用意した。 「枚方・交野の100年」という写真集(郷土出版社)に「お召し電車16号」が掲載されているが、最前列、中央やや左寄りに軍服姿で髭をはやし、サーベルを腰につけている人物こそ東宮(皇太子)だと思えるが、写真説明には何もない ![]() 東宮が京阪電車に乗車した日 9月26日 五条・宇治臨時駅間 往路 八幡・五条間 復路 同30日 五条・牧野阪(坂)臨時駅間 往復 10月4日 五条・守口臨時駅間 片道 (父明治天皇の大坂親征の治績をたどり守口の難宗寺を訪問するため)
京阪電鉄は「さいわいいささかの不都合もなく運転の完璧を果たし得た」と社史「鉄路五十年」に誇らしく記載している。この行啓のおかげか京阪電車の信用と世評は大きく回復し、乗客も増加したという。 この行啓について当時の朝日新聞は同年9月30日付けで記事を掲載している。 「午前11時に御着きというのに、8時頃には拝観場所へと詰めかけ、野道、堤防、人をもって埋まった。学校、赤十字、愛国婦人会、軍人後援会その他の団体はそれぞれの旗幟を押し立て牧野停留場と演習地まで幾条の長蛇を形作った」「30分前には『ただいま八幡御通過』との報知がある。しばらくして御車の軋る音がすると一同、姿勢を正す。―――宮内省が用意した腕車(人力車のこと)を召され、降りしきる雨中、御幌を上げたるまま落合統監の御先導にて、牧野村在郷軍人の意匠になる米、麦、大豆、小豆をもって奉送迎の文字を現したる緑門をくぐり玉ひ、牧野の沃野を供奉員、京阪両知事―――らと演習地へ御着き、一旦軍橋対岸に渡られ、直ちに引き返してテント張りの御休憩所に着かれたのは11時20分」であった」大雨の中、樟葉村から牧野に至る数十町の線路沿道、阪の臨時停留場からから演習場に至る20丁までずぶぬれになって拝観する学生、一般町民は2万人を下らなかったという。電車を降りた東宮は前島街道を人力車で進んだ。
「前島街道」は高槻と坂を結んだ「前島の渡し道」で旧国道の府道京都・守口線の「牧野駅前交差点」を北へ入ったところである。淀川の前島渡し場にいたる道で田んぼ道ともいえる狭隘な道である。渡しは枚方大橋ができた後に廃止される。この細い道が府道「枚方・高槻線」に指定され、高槻側にも同名の道路がある。 (写真④、枚方・高槻線の一部、西牧野3丁目先、⑤、前島の渡し場道の道標、堤防上から西牧野3丁目に移設) 近世は阪方面から淀川を「渡し」で渡り西国街道にいたる重要な道だったのだ。東宮がお見えになるというので人力車の走行に支障がないよう整備されたのかもしれない。淀川堤防上に「前島の渡し」への道標があったが、この道標は現在、西牧野3丁目に移転されている。堤防の先は現在河川敷ゴルフ場となっている。古い地図を見ると渡し場のあった淀川の浜まで細い道が続いている。 ![]() 明治42年(1909)に高槻町民の誘致運動があり、高槻城跡に工兵第4大隊が京都から引っ越してきた。その際、淀川沿岸の高槻側旧前島村に架橋訓練場が設置されたという。また工兵第36大隊が京都の宇治川近くに訓練場を持っていたことから工兵を中心とする陸軍特別演習が行われたのかもしれない。旧前島村の入口付近に工兵隊の名残か、「演習橋」という橋が残っている。残念ながら牧野村の沃野には東宮の行啓碑は残っていない。 ![]() ▼明治12年(1879)8月31日生まれ、明治天皇の側室柳原愛子(なるこ)の子。 明治天皇の第3子。虚弱体質で生まれ、幼少時から病弱。翌年3月、中山忠能の邸に預けられる。いわば里子として生母から離れて育った。 ![]() ▼同22年(1889)2月、赤坂離宮内の東宮御所へ。同年10月、皇太子となる ▼同33年(1900)5月、九条節子(さだこ 後の貞明皇后)と結婚。 ▼同34年(1901)4月29日、裕仁親王(大正天皇の第1子 後の昭和天皇)が誕生。その後、秩父宮(1902)、高松宮(1905)、三笠宮(1915)が生まれる ▼同45年(1912)7月、明治天皇死去、大正天皇即位(1912.7.30)。同時に裕仁親王、皇太子となる。 大正天皇は即位後、常にというほど皇后といっしょに行動した。政務で天皇が青山御所から宮城に出かけるときも同伴した。地方巡幸や軍務でも行動を共にする姿は国民に新しい時代の到来を思わせた。明治時代と異なり人間味のある皇室像が見て取れ、側室制度は自動的に廃止になった。 ▼大正3年(1914)、この頃から軽度の言語障害があったという。(「大正天皇実録」に関する朝日新聞記事より)いつも皇后が付き添ったのは、そいうことが心配だったのか。 大正天皇の体調は、即位後、政務と軍務が重なるとともに次第に悪化した。 ▼同4年(1915)11月、大正天皇の即位大礼。この頃、「階段の御昇降に当たりては多少側近者の幇助を要せられ」(同)とあり、行事中に介助が必要とされることがあったようだ。 ▼同7年(1918)夏、「御姿勢時々右側に御傾斜あり、御乗馬の際も御姿勢整わせ給わず」(同)天長節の観兵式を欠席。風邪をひいたということだが、実は乗馬時の姿勢保持が出来ず、やむなく欠席になったのだという。 ▼同8年(1919)11月、皇太子とともに兵庫、大阪陸軍特別大演習に出席、これが大正天皇の最後の特別大演習への出席。馬車に乗るうつろな表情の天皇の写真が残る。以降、各年の特別大演習は皇太子が統監した。12月、帝国議会の開院式での勅語奉読に欠席。練習を重ねたが出席できなかったという。天皇自身はこんな状況も自分では普通だと思っていた。当時の原首相は、天皇の病状が幼年時の脳膜炎(髄膜炎のこと)に起因する考えられると宮内次官から聞かされ事態を憂慮するようになる。天皇に随行した経験のある原は大正天皇を深く理解し人間的にとらえ、天皇の立場を擁護しながら問題に対処しようとする。 ▼同9年(1920)第1回病状発表、静養の傍ら、宮城や御用邸へ出かけることもあったという。数回の病状発表。 ▼同10年(1921)2月、宮内大臣に牧野伸顕が就任、原と異なり、近代天皇制による国家統治を重視した牧野は、原首相と異なり、天皇の病状が幼少時に脳を患い現症状はその後遺症で、さらに病状が悪化する可能性があると直ちに公表し、事態に的確に対処すべきと主張。 ▼同10年(1921)11月4日、原敬暗殺さる。 ▼同10年(1921)11月25日、皇太子裕仁が摂政に就任。皇后も同意。 同日、第4回の病状説明。天皇が生まれてからの病状の推移が具体的に触れられ、誕生直後の脳膜炎に始まり様々な病気を経て、「大正3,4年頃」から再び生活に支障をきたすようになった。」「大正8年以降」「御脳力」が日々衰退。 この発表により、天皇の病状につき根拠のない逸話の数々(例えば、遠眼鏡事件)が出回りひそかに噂されていたことが、逆に事実であるかのようになった。一方、牧野らは、摂政たる皇太子の明晰、健康、能力の高さを強調するようになる。東宮を前面に出す報道が目立つ。大正天皇の時代が明治、昭和の時代に比べて結果として軽く扱われるようになったのは、この時点からといえる。 ▼同15年(1926)12月25日、葉山御用邸にて大正天皇死去(享年47歳)。 ![]() 皇后や皇太子、同妃、高松宮が見守ったそうだ。天皇の手を最後まで握りしめていたのは生母の柳原愛子だったという。昭和に改元。 ![]() ◎大正天皇行幸記念碑 JR星田駅前の道路を南へ徒歩2分 ◎閲武駐蹕記念碑 交野市駅から徒歩10分 逢合橋を渡り、バス停を越え、次の大きな交差点を渡ってすぐ左へ、第2京阪道手前を上がれば碑のある「上の山」。 ◎「前島渡し」碑 京阪牧野駅から北へ徒歩7分、西牧野3丁目、緑道付近 (参考図書、「交野市史(交野町史復刻編)」交野市、「「交野町史改訂二増補」交野町、「古代から近世の枚方」西川寿勝講演会資料 2015.11.15 宿場町枚方を考える会」「大正天皇」原 武史著) |
講演会参考図書類及びWEB記事からの参照画像集 | |
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![]() 星田駅 |
![]() 化粧柱 |
大正3年の天皇行幸に際して急遽星田駅の改築で取り付けられた待合室の化粧柱 | |
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「古代から近世の枚方」西川寿勝講演会資料 2015.11.15より参照 | |
![]() 枚方市 |
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「枚方・交野の100年」という写真集(郷土出版社)に「お召し電車16号」が掲載されているが、最前列、中央やや左寄りに軍服姿で髭をはやし、サーベルを腰につけている人物こそ東宮(皇太子)だと思えるが、写真説明には何もない。 | |
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高槻城跡の工兵隊
明治42(1909)年3月、工兵第四大隊が高槻城跡に設けられた兵営に移転してきました。 |
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「工兵第四聯隊跡」碑 | |
![]() 同連隊は大阪城に司令部をおいたことでも知られる、軍第四師団に所属していたようなので、支那事変・大東亜戦争(現在でいう日中戦争)では中華民国北部、大東亜戦争(太平洋戦争)ではフィリピン方面に出張っていたものだろうか。かたわらの説明板によると「大陸戦線へあるいは太平洋戦域へと幾多の兵士が出動」したとのこと |
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![]() 明治43年(1910)10月、大正天皇が皇太子時代に、淀川で行われた工兵特別大演習の視察のため、京阪電車で守口に来られたが、淀川に近い駅がないため、守口-門真間に仮設の駅が設営された。それがこの場所になる。 演習を視察したのは守口市新橋寺町の淀川堤上で、その場所には御野立所碑がある。大正天皇が仮設駅から淀川まで行くために、この時に竜田通が造られた。 守口市の史跡 場所は、パナソニックさくら広場の真ん前の交差点信号横にある。 |
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「大正天皇実録」に関する朝日新聞の記事より | |
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