京都案内人 スローネット
ぶらり京都●文学散歩
掲載、感謝申し上げます

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1.芥川龍之介「羅生門」 2.梶井基次郎「檸檬」 3.紫式部「源氏物語」
4.鴨長明『方丈記』
5.野上弥生子『秀吉と利休』 6.森鴎外『高瀬舟』 7.三島由紀夫『金閣寺』

1 ぶらり京都●文学散歩・芥川龍之介の『羅生門』
こんにちは。今回は京都文学散歩なんていかがでしょうか。
 文学なんて言うと、ちと固いですなー、とお思いの方もいるでしょうね。
 花吹雪もそんな詳しい訳やおへん。けど、お話にゆかりの地を歩けば、京の散歩もまた楽しいなるんとちゃいますか。

 芥川龍之介の『羅生門』、ご存知ですか。わたしは高校の教科書に載っていたのを、ぼんやり覚えています。黒澤明監督が映画化もしていましたね。
父が京マチ子さんのファンで、たしかに京マチ子さん、色っぽかったどすなあ。あの映画は、芥川龍之介の『藪の中』が原作でしたが、映画の舞台は荒れ果てた羅城門でしたね。

 平安京ができたときの南北の中心は朱雀大路でした。その南はし、東西に走る九条通りとがぶつかるところに羅城門(正しくは羅生門ではなく、羅城門)があったそうどす。
 平安京の表玄関としてそびえる羅城門は、正面七間、奥行き二間の二階建てで、両側には築地塀が張り出す、雄壮なものだったとか。そして羅城門の東に東寺、西に西寺が配置されていたんどすなあ。
 でも天元3(980)年の台風で倒壊して以来、再建されることがありませんでした。
 いまは東寺が残るのみどす。

 芥川の『羅生門』はつぎのように始まります。

   ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。広い門の下には、この男のほかに誰もいない。 ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。

 すでに羅城門は、あわれな姿をさらしています。
 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。

 地震や台風などの災難がつづき、もはや羅城門は朽ち果てていたんですね。
それが芥川さんの『羅生門』の舞台です。
 
 そんな羅城門の下でひとりの男が雨宿りをしていましたが、門の上のほうは、溢れる死体から、老婆が髪を抜いています。男は、老婆と話を交わしたあと、最後に老婆に襲いかかり、着物をはぎ取ってどこかへ行ってし
まいます。男が盗人になるまでの心の揺れが描かれていますね。

 勇壮だった羅城門も、天元3(980)年の台風で倒壊して以来再建されることなく、いまは九条通りから少し奥まった児童公園のなかに、石碑がひっそり建つのみです。

羅城門跡●市バス羅生門下車すぐ
◎南区唐橋羅城門町

平安遷都の時、羅城門東西の官寺として置かれたのが、東寺と西寺です。今は東寺だけが、平安時代の面影を今に伝えています。



2.  ぶらり京都●文学散歩・梶井基次郎『檸檬』

 京都で一番賑わう通りというと、河原町通りですね。でも、それは戦後のことだそうどす。大正時代は、寺町通りが京都のメインストリートだったんですね。
 だからでしょうか、梶井基次郎の書いた短編『檸檬』では舞台は寺町通りなんです。
 梶井基次郎さんは、1901年、大阪生まれ。
『檸檬』は、1925(大正14)年に同人雑誌に発表されています。残念なことに、当時は注目されませんでしたが、7年後に評論家の小林秀雄に認められました。でも、その直後に肺結核のため亡くなりました。31歳の夭折
でした。惜しいことしましたなあ。
 その『檸檬』は、こんな書き出しで始まっています。

    えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。
   焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔
   があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期が
   やって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。

 自分の心を襲う心象風景を語ったあと、「ある朝」主人公は、「とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そこの果物屋で足を留めた」。言ってみれば当時のメインストリートへ進んで、果物屋の前で立ち止まります。

  その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そ
  こは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさ
  が最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並
  べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったよ
  うに思える。……

 そしてその店に珍しくあった檸檬を買います。
 手にした檸檬の感触を味わいながら、通りを歩き、最後に書店の丸善に入ります。いまの丸善は河原町通りにありますが、当時は、寺町三条あたりにあったようです。
 画集のコーナーの前に進み、さまざまな画集を棚から引き出して、並べ積み上げ、その上に檸檬を置いて、店を飛び出します。
 そして檸檬が爆発し店が木っ端みじんになることを空想しながら、京極通りを下るシーンで終わります。
 この小説が多くの青春を惹きつける魅力をもっていること、ちょっぴりわたしにも伝わってきます。
 その果物屋さんは八百卯と言って、いまでも寺町二条の東南角にあります。

 八百卯さんに、今日も檸檬があるかどうか、ちょっと覗いてみましょうか。

八百卯
◎中京区寺町二条角
◎地下鉄東西線京都市役所下車徒歩3分


3. ぶらり京都●文学散歩・紫式部『源氏物語』

京都の文学、といえば、『源氏物語』をはずすわけにはいきませんね。
 紫式部は日本で唯一、ユネスコ本部に「世界の五大偉人」(世界最古の偉人並文豪)として登録される大文豪ですね。

 その紫式部が住んでいたと言われるところがあります。京都御所の東、梨木神社と向かいあうようにして建つ、廬山寺です。 彼女の家は「平安京東郊の中河の地」にあったと言われますが、その地がいまの廬山寺の境内です。
 邸宅は、紫式部の曾祖父権中納言の藤原兼輔が建てたもので、彼女はこの家で結婚生活を送り、一人娘の賢子を産んでいます。
 そして世界的な大ロマンである『源氏物語』や『紫式部日記』などをここで執筆したとされています。
 亡くなったのが長元4(1031)年、享年59歳です。
 
 この寺にはいま、庭があります。白砂を一面に敷き、ところどころに楕円の形をした苔の島を配しています。6月ごろには紫色の桔梗の花がみごとに咲き、紫式部を偲んでいるようにみえます。

廬山寺

廬山寺

◎市バス府立医大病院前から徒歩3分
◎京都市上京区寺町広小路上ル

廬山寺の桔梗。白砂を敷き詰め、緑濃い苔を配した庭に桔梗が咲く真夏が特に美しい


4.  ぶらり京都●文学散歩・鴨長明『方丈記』

 
このフレーズ、ご存知ですよね。

    ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
   淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、ひさし
   くとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖
  (すみか)と、まだかくのごとし。

 鴨長明の『方丈記』の冒頭ですね。
 鴨長明は、久寿2(1155)年、下鴨神社の禰宜(ねぎ。神官のトップ)である長継(ながつぐ)の次男として生まれいます。
 神官の職を世襲する家を社家(しゃけ)と言いますが、その重要な地位を受け継ぐ家に生まれています。
 ところが長明が二十歳のとき、父長継が急死するなど、不幸が重なり、長明が社家の世界で生きていく道が閉ざされてしまいます。
 しかし下鴨神社の南側に接してある、下鴨神社の摂社・河合神社の禰宜の職に欠員ができました。長明がその職に就こうとしたところ、長男でない長明の任官に親族たちがこぞって反対し、結局この話は流れてしまいます。
 ことここに至って彼は、神官の世界とは縁を切る決意をして、賀茂の地を去ることになります。

 賀茂を去った鴨長明は、大原、そして各地を転々としたあと、承元2年(1208年)、山科の日野山に居を構えたそうです。そして『方丈記』などを著し、建保4(1216)年間世を去りました。享年62歳でした。

 河合神社は、下鴨神社の南側に広がる広大な糺の森の南端にあります。
 鴨長明にこういう歌があります。
   石川や 瀬見の小川の 清ければ
      月も流れを たづねてやすむ

 ここに歌われた“瀬見の小川”は今も河合神社の東側を静かに流れています。せせらぎに耳を傾け、しばし無常を感じましょうか。

河合神社
◎市バス下鴨神社前下車徒歩5分
◎京都市左京区下鴨泉川町


5. ●文学散歩・野上弥生子『秀吉と利休』

大徳寺というと、たくさんの塔頭がありますな。なんと21もあるそう。
大仙院、龍源院、高桐院、瑞峯院、どれも枯山水の名庭どすなあ。
 わたしが一番好きなのは、瑞峯院どす。キリシタン大名の大友宗麟が創建した塔頭。方丈裏にある小さな庭・閑眠庭(かんみんてい)を眺めてぼんやりしていると、時間が過ぎゆくのを忘れます。

 高桐院にある書院は千利休の屋敷跡の広間を移したそうで、意北軒と呼ばれています。
 千利休は大徳寺で禅を修め、秀吉の信頼を得て、秀吉の茶頭(さどう)にもなりましたが、しだいに秀吉と対立することになります。
 境内の三門は上層を完成させたとき、千利休が、草鞋を履いた自分の寿像を安置したそうですが、それが豊臣秀吉の怒りを買い、ついに二人の間は決定的に気まずくなります。
 そして、ついに秀吉は千利休に切腹を命じ、その首は堀川の一条戻り橋のたもとに晒されることになります。
 いま三門に置かれた寿像は、昭和につくられたものだそうです。

 そんな千利休と豊臣秀吉の関係をみごとに描いたのが野上弥生子さんの『秀吉と利休』です。
 野上弥生子さんは、明治18年大分県臼杵町(現臼杵市)に生まれています。
15歳で野上豊一郎と結婚し、夏目漱石の指導を受けて小説を書き始め、99歳で逝去するまで現役作家として活躍、たくさんの作品を残していますが、その代表作がこの『秀吉と利休』ですね。桃山時代の二人の巨人、豊臣秀吉と千利休を描いた傑作として高い評価を得ています。

 ちょっと文学の話ばかりやとつかれますなあ。帰りがけに、門前の大徳寺一久にでも寄りましょか。名物の大徳寺納豆、お土産にいいですなあ。

大徳寺三門
◎市バス大徳寺前下車すぐ
◎京都市北区紫野大徳寺町

精進料理の店「一久」
●市バス大徳寺下車すぐ

精進料理お店「一久は599年の歴史を伝える古い店です。あの有名な一休さんが、大徳寺納豆を初代の一文字屋久兵衛に伝授したと伝えられています。


6.ぶらり京都●文学散歩・森鴎外『高瀬舟』

 木屋町通りは高瀬川の静かなせせらぎにネオンが映り、風情がありますね。
その高瀬川は角倉了以が開いた運河で、伏見港までつづいています。高瀬川を舞台にした小説『高瀬舟』を、明治時代の大文豪、森鴎外さんが書いています。
 書き出しは、つぎのようになっています。

 高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。
 それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた。默許であつた。

 名文どすなあ。
 江戸時代、京都の罪人が遠島を言い渡されると、高瀬舟で大阪へ廻されていました。
 『高瀬舟』のお話では、同心庄兵衛は、喜助と言う弟殺しの罪人を護送しています。
 ところが罪人喜助の表情がとても明るいのをいぶかしく思い、心境を尋ねます。すると喜助は自分は弟殺しをしてしまったが、遠島を申し渡されたとき二百文のお金を貰い、そのまま持っていて気持ちが豊かである、と答えます。
 さらに、弟殺しもじつは、病気になった弟が兄に負担をかけまいと、剃刀で首を切ったものの、死にきれないのを、最後は兄である自分が、弟から懇願され剃刀を引いたためであることを告白します。
 安楽死問題にも通じるお話どすなあ。

 歴史の刻まれた高瀬川沿いの柳の道をゆっくり歩くのはいいもんですね。
わたしは、高瀬川沿いの景色が京のなかでも一番好きどす。

高瀬川
◎地下鉄東西線京阪三条、京阪線三条駅下車徒歩2分

木屋町二条。伏見〜二条間を次ぐ水運で、この辺は木材の問屋が多くあり、木屋町と名がついたとか?

(^。^)、私も、高瀬川を歩いてみました

7..ぶらり京都●文学散歩・三島由紀夫『金閣寺』

金閣寺といえば京都観光で一二を争う観光スポットどす。その人気に恥じない美しさをもっていますね。昭和25年7月2日の明け方、この寺の学僧が火を放って金閣は炎上しました。
 三島由紀夫がこの学僧をモデルに小説化した『金閣寺』では、金閣の美への嫉妬から放火した、ととらえています。

金閣寺の徒弟である主人公の溝口は、吃音に悩み、自分自身を表現することもうまくできない。体も弱い。 そんな彼は、戦争とともに、永遠美である金閣とともに燃えることを夢みる。しかし京都には空襲がないまま終戦を迎え、彼の夢は実現しない。

   ほとんど呪詛に近い調子で、私は金閣にむかって、生れてはじ
   めて次のように荒々しく呼びかけた。
   「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来
   ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」
   声はうつろに深夜の鏡湖池に谺(こだま)した。

 絶対化された金閣の美は、戦後に自分が生きていく妨げにもなる。そこで彼は、美を独り占めするために自らの手で金閣に火を放つのです。
 放火の理由については、異説もあるようですが、三島由紀夫が分析した、美への嫉妬、という気持ちはようわかります。

 さて、金閣寺(正式には鹿苑寺)については、金ぴかすぎる、という見方もあるようですが、やはりその形と輝きはみごとだと思います。境内のどこから眺めても、金閣の鮮やかさはもともとは足利義満が応永4(1397)年、隠棲の地・北山殿として造営、彼の死後、禅寺に改められたもの。鏡湖池に映る、揺らぐ金閣は、やはり北山文化の粋。
 数年前のお正月、北山に雪が舞ったとき、金閣に足を運びました。雪に覆われた金閣の世界は、ことばにできないくらい、すばらしいものでした。
最近、雪の金閣はなかなかお目にかかれません。

 さて文学散歩、いかがでしたでしょうか。
 今回はこのへんで。おつきあい、ありがとうございました。

金閣寺
◎市バス金閣寺前下車すぐ
◎京都市北区金閣寺町

時を超え、鏡湖池(キョウコチ)に映し出す金閣。夕方から見る金閣は絶景。



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