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「伝家康ひそみの藪」物語

   (ふるさと交野を歩く ひろい話(3)より)

天正十年(1582)6月2日の明け方に織田信長が京都本能寺に於て、家臣明智光秀の反逆によって自害し果てたとき、信長と同盟を結んでいた徳川家康は、少人数の近臣を連れて舶来文化の輸入地である堺に見学のため滞在していた。

当時、信長の強大な勢力によって一応近畿は平定され治安は保たれていたが、その盟友を失った時の家康の立場は極めて微妙にならざるを得なかった。

 幸い、信長死すの情報がいち早く家康のもとにもたらされると、身の危険を察知して、すぐさま堺を退去して本国三河に帰ることとした。

家康はいずれの道を通って河内から山城を経て三河に帰ったか。 
 中央公論社の日本の歴史第十二巻の
282頁には、「家康は津田主水頭(もんどのかみ)に道案内を求め、急に道を転じて宇治田原に向かうことになった。」と書き、枚方市史第三巻18頁には「家康一行は、津田村には信長恩顧の者がいるから道案内をざせようという進言をいれ、その道案内によって津田村から尊延寺村を経て山城綴喜郡に出た。」と書いている。

吉川英治の太閣記には、「枚方から津田方面に向かった」と記し、山岡荘八の徳川家康には、「守口から北河内の津田方面に向かった」と書いてあり、いずれも星田に来たとは書いていないが、津田方面には家康が来たという伝承を聞かず。星田の伝承では、星田炒見宮の参道の入口の北に「家康ひそみの薮」のことを俗に「けんしきの藪」といって、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。


家康ひそみの藪MAP

ここで考えられることは、津田城主は本願寺派招堤(しよだい)の敬応寺と縁組をしていたことから、天正3年(1575)明智光秀は、城を焼かれて信長に恨みを抱いている津田氏に誘いをかけたところ、津田氏は光秀に味方し、信長のやり方を不満に思っている招提村を誘って山崎合戦に参加していることから、津田村の人達は信長を恨みこそすれ、信長恩顧の者がいるとは考えにくいのである。

従って、信長と同盟を結んでいる家康が、津田に入ることが果たして危急の時身の安全と考えたかどうか、大いに疑問に思うのである。

家康の一行は、6月2日の深夜に星田に来て、人里はなれた人目につかないこの大きな竹薮に潜んでいた。これには、四条畷の住吉平田神社の神主である三牧家から星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれている。そして村長の平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として斡旋するよう依頼したのである。

この連絡を受けた平井家では、直ちに大釜で米を炊いて握り飯を沢山こしらえ、緑起をかついで鶴の絵を描いた大皿に盛って提供し、信用のおける農民二人を選出して、無事道案内の大役を果たさせたといわれている。

家康がこのような危急存亡の時に、平井家にこのような大事を依頼したということは、徳川家と平井家との間には古くから何らかの知己、交際があったものと思われる。

平井氏の出自については、その遠祖が三河の国設楽郡(しだらごうり)平井庄の地頭職であったところから平井姓を称し、南北朝時代には既に星田に居住していたという伝承がある。

天正十年から三十三年後の元和元年(1615)55日大坂夏の陣に東軍16万人のうち、手兵一万五千人を引き連れた七十四歳の家康は、平井家に一泊しているのである。

家康一行の道案内をした二人の百姓は、一人は「しやみ安」という人で、もう一人の百姓はその名が分かつていないが、後年になって見識の高い俗称から「けんしき」と呼ばれるようになった。

家康が征夷大将軍となった時、平井氏と二人の農民を懇切に江戸に招いたが、二人の農民は固辞したので、平井氏だけが江戸に出向いたと言うことであるが、これらの人たちは江戸時代特別の扱いを受けていた。

家康の潜んでいた藪は、俗に「けんしきの藪」といわれているが、その所有者について調べたところ、以前は平井家の古い分家のものであったが、妙見坂小学校の校地として買収し、フェンスを張って竹薮の一部を保存し、「伝家康ひそみの藪」の石碑と説明板が立てられている。

平井氏が家康のために動いたことが光秀に知れると、どのような仕打ちを受けるやも知れないと大変恐れて、自分の家を閉じて、一家全部が星田山中の小松寺の空家になっている建物にしばらく隠れていた、といわれている。(西井長和先生談)

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