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慈光寺の十三仏   星田3−1


慈光寺の十三仏慈光寺(浄土宗)の境内に交野ではただ一つのという十三仏がある。
花崗岩の舟形の石に十三仏が並んで浮彫りされており、上に天蓋を飾り下は蓮弁の座が十三仏を受けている。
十三仏の向って左側に「慶長12年(1607)」とあり、当時荒れ果てていた慈光寺を再興した旦玉上人の頃に造られたものと思われる。

十三仏というのは、「死者の追善を行う忌日の思想が一般化」した南北朝時代に成立したとされており、「死後の仏事をあらかじめ自分で営む逆修仏事のため」に信仰されてきたものであると言われる。
そうして、十三の仏にそれぞれに忌日、年忌が決まっている。配列のしかたは種々あるが、慈光寺のものはつぎのようである。

上から一段目は、虚空蔵菩薩(33年)、2段目右から大日如来(13年)、阿悶如来(7年)、阿弥陀如来(3年)、3段目右から薬師如来(七七日)、観音菩薩(百か日)、勢至菩薩(1年)、4段目右から弥勒菩薩(六七日)、地蔵菩薩(五七7日)、普賢菩薩(四七日)、5段目右から不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)。

慈光寺から哲空(てつくう)と闡玉(せんぎょく)という偉い僧侶が出た。慈光寺(浄土宗)
哲空は享和2年(1802)、闡玉は文化6年(1809)の生まれ。
哲空が七つ年上だが、もとはどちらも慈光寺の小僧で、兄弟のように仲が良く終世その親しい交わりを続けた。

哲空はもと豊前に生まれ、10歳の春からここ慈光寺の仙海住職のもとで、厳しい修業をし、のち浄土宗粟生本山光明寺の衆頭職となった。のち明治4年本山光明寺61世法灯を継ぎ、明治6年には知恩院の総管長となる。

哲空の生涯の友闡玉は星田村の人で、金屋治兵衛の五男、12歳で小僧となり、仙海住職のもとで厳しい躾のもと修業をした。そして後には哲空の後を追って浄土宗西山派本山光明寺の学頭職となり、さらに京都長講堂の住職となって光明天皇の諮問に答えるなど、当時の浄土宗界での俊英は哲空か闡玉の外はなく、活躍した。


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