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重要文化財 北田家住宅  (江戸時代)
 昭和54年指定  交野市私部1丁目25−5

  地元では代官屋敷と呼ばれているこの住宅は、宝永から享保年間(1708〜1734)にかけて主屋が建てられている。建てられた当初は茅葺き屋根であったが、寛政8・9年(1796・7)に本瓦葺きに葺き替えられ、昭和59年からの保存修理工事で茅葺形銅板葺となった。

 間取りの最大の特色は上手の前面に突出した角屋をもつことで、その遺例は最古である。
 中でも立派な長屋門は、天保14年(1843)に建てられたもので、長さ55.9mもあり民家では日本一の長さである。

 そのほか、乾蔵(1722に建築)、北蔵(1785に建築)があり、北側と西側は土塀で囲われている。北方土塀が裏門を除いて59m、屋敷西方の土塀が33mあり合計92mである。
一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
 「広報かたの」などでお知らせします。
 見学は事前に予約が必要です。先着30名
 下記に申し込み下さい。
  交野市社会教育課 文化財係  TEL 072−893−8111    

北田家住宅長屋門
北田家 門長屋 大きな構えは 代官屋敷) (交野カルタ)

私部(きさべ)1丁目に(交野市役所より南に5分) 江戸時代の代官屋敷といわれる北田家がある。
約4000平方メートルの広い敷地に、長さ56メートルの白壁作りで大きな構えの門長屋が続くおもむきは豪壮である。

母屋の玄関が上手に突き出た形式は全国にも数少なく、約300年前の貴重な建物として国指定重要文化財になっている。
北田家所蔵の系譜をたどると、南北朝時代の南朝方に仕えていた武将・北畠顕家(きたばたけあきいえ)につながり、 南朝没落後、足利家の世となったのを機に民間に下り、その姓をはばかって「北畠」の白を除き、「北田」と称したといわれる。

その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見氏の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢により攻められ遂に開城となった。この時なお残って最後まで奮戦し、下仕9人と共に壮烈な戦死を遂げたのが北田好忠であった。

 その後、20年程経って、京都の叔父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが現在の北田家の最初で、そのため好孝が中祖の第1世とされている。

関ケ原の戦いの後、徳川家康が天下を統一し、幕藩体制をしいたのに伴い、元和5年(1619)、畠山の子孫・旗本畠山修理太夫が、私部の3分の2を所領するに及んで、北田家は、この地の庄屋を勤めることになる。そして18世紀前半、第6世佳隆の代には代官職を担うようになった。

代官職就任の時期と主屋建築年代が相前後することとなり、なんらかの関連を想像させる。以後第10世好剛の代まで続くが、元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
                       (重要文化財・北田家住宅説明文書を参照)

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