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吉向焼(きっこうやき)の歴史

吉向蕃斎(きっこうはんさい)(七世松月)
交野市私市8−25−6/TEL 072−892−0811
(吉向松月窯・ちらしを参照)

吉向松月窯由来
  江戸時代、享和年間(1801〜1804)伊予大洲藩出身の戸田治兵衛が、京に出て楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八、浅井周斎などの名人達に作陶を学び、大阪十三村に築窯、庭前の老松と生駒山にのぼる月をめで「十三軒松月」と号し、作陶に専念したのが起こりです。

時恰も、将軍家に慶事が起こり、当時の大阪城代、水野忠邦侯の推挙を得て、鶴と亀の食籠を献上したところ、その亀の食籠が事の外気に入られ、亀甲、すなわち吉に向うに因んで「吉向」の窯号を賜り、爾来、吉向姓を名乗るようになりました。

また、当時の作品は、諸大名にも大いにもてはやされ、出身地の大洲藩主 加藤泰済公は申すに及ばず、周防岩国の吉川経礼侯、大和の小泉の片桐貞信侯などに引き立てられ、各地のお庭焼きに貢献いたしました。

幕末から明治にかけて窯を護った、四代松月に二子があり、兄、萬三郎が五世吉向松月を継ぎ、弟、実蔵が五代・向十三軒を継ぎました。これより、吉向窯は、二つにわかれ、当、吉向松月窯は、この時の兄、萬三郎の流れを引き継ぐものです。

初代松月が、大阪十三の地に窯を築いてより百九十年、高津、枚方を経て、正倉院三彩に用いられた陶土の採土地、交野の里に工房を築くまで、各代々が伝統の中に種々の技術を取り入れ、吉向窯として独自の焼き物完成に励んで参りました。

当代蕃斎(七世松月)もまた、この伝統を受け継ぎ、昭和二十五年より東京、大阪の三越を始め、各地の百貨店や有名画廊にて五十数回に及ぶ個展を開催し、好評を博してまいりました。

現在、交野市の奥座敷、私市は月の輪の瀧の畔で、四季折々の自然に包まれ、尚一層の研鑚に勤め、ますます作陶活動に専念致しております。

窯場の変遷(吉向松月窯)
享和元年(開窯)〜明治20年代西成郡中津川新田(十三)
明治20年代〜明治45年高津神社正面
明治45年〜昭和55年枚方市岡山手
昭和55年から現在交野市私市

戸田 長助 加藤清正の家来、八代城家老
朝鮮より連れ帰った陶工により八代焼(古八代焼)を興す。
戸田 権兵衛重元戸田 長助、孫
肥後加藤家改役により大洲加藤家に百石にて召抱え。
砥部焼きの指導の為、八代より職人4名を呼び寄せる。
戸田 祐蔵権兵衛より五代目。
お金役であったが、公金紛失事件の責任をとり、野に下る。
戸田 源兵衛祐蔵の長男。居合い道の師範
初代十三軒吉向松月
(戸田 治兵衛)
源兵衛の長男、京に出て、楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八などを訪ねて陶器の修業をする。
迎えた妻の里である大阪十三にて窯を開き、十三軒松月と名乗る。
名声を博した松月は、郷里の大洲藩に招かれ、藩公の別邸の在った、五郎にて、御用窯を仰せつかる。
五郎玉川焼と伝えられる窯である。
その後、大阪に戻った十三軒松月は、十一代将軍家斉公の太政大臣宣下の慶事に当たって献上した鶴と亀の食籠の、亀に因んで「吉向」の金印と銀印を賜る。
こうして吉向十三軒松月を名乗るようになる。
その後、方々の大名に迎えられ、御用窯、いわゆるお庭焼を申しつかる。
大阪は、亀治、江戸は旗本の次男、一朗高義、と両方で養子を迎え、吉向焼は二家になる。
江戸吉向は、幕末で窯の火を消すが、現在も末裔が静岡県で家を護っている。

初代を召し抱えて頂いた大名
大洲藩加藤泰済公五郎玉川焼
岩国藩吉川経礼公藩窯の多田焼の再興を目指して初代松月を招かれる。
大和小泉藩片桐石州公
(貞信公、遜斎公)
石州流八代目
初代を江戸に同道され、江戸屋敷で窯を築かれる。
須坂藩堀直格公片桐石州公に懇願され、初代を譲り受けられ、藩窯の指導に当たられる。
津山藩松平確堂公江戸は、隅田川の畔、向島の別邸に窯を築かれ、初代松月を招かれる。
初代は没後、この確堂公のお世話により、深川本誓寺に永代供養される。

二代吉向十三軒松月(亀治) 従兄である初代に招かれ、大阪の窯を任される。
三代吉向十三軒松月(輿右衛門) 初代松月の姉の子
四代吉向十三軒松月 (治平)二代目亀治の子
五代吉向松月 (萬三郎)治平の長男。弟、実蔵と窯を分ける。
実蔵は、五代吉向十三軒を名乗り、吉向家は、三家となる。
現在、八代目吉向十三軒は、東大阪市で窯の火を護っている。
萬三郎、長男、次蔵と共に明治天皇の姉君、伏見文秀女王殿下のお庭焼をお手伝いした御縁で、枚方の窯に御成頂き、秀松軒の軒号を賜る。
次蔵に窯を譲った後、隠居窯を大徳寺高桐院内に築き、龍山と号して作陶する。
後、この隠居窯にて没す。
六世吉向松月 (次蔵)萬三郎の長男。父と共に枚方の築窯に力を尽くし、窯と伝統を護る。
七世吉向松月(福男)当代。六世松月に師事し、七世松月を継ぐ。
昭和59年、還暦に当り、四天王寺管長 出口常順猊下より、蕃斎の号を賜る。