大工さんの雑学講座 U
Ohgu's Zatugaku
阪神タイガース大好きの奈良市の大工(おおぐ)さん




2004.7.1〜8.10
index 2004.5.1〜6.30 2004.4.〜4.30 2004.3.1〜3.31 2004.2.1〜2.28
2004.1.1〜1.31 2003.12.1〜12.27 2003.11.4〜11.30 2003.8.11〜11.03
2004.9.30  台風21号のご被害はありませんでしたか、お見舞い申します
 
おはようございます。昨日の台風21号も今朝は、この地(奈良)を去って思いのほか影響の少なかったことを幸いに思っています。
しかし、九州それに四国は随分と被害が出てたいへんでした。被害に遭われた方々に心からのお見舞いを申し上げます。

それにしても今年は台風の当たり年、いずれも列島を縦断して、風と雨による洪水・山や崖の崩壊、更に高潮といたずら三昧でした。
上陸8個はすべてほぼ同じコースで真に珍しい年でした。もう、これ以上は来ないでくれと言う気持ちです。

今週は政治面でも小泉内閣改造が意外性をもって編成されました。昨日はまた、北朝鮮の拉致被害者を担当する中山恭子内閣官房参与が辞任しました。これについては小泉首相があっさり認めた、遺留しなかったと何か裏のあるような話をする向きもありますが、彼女にとってはジェンキンスさんの問題が一先ず落ち着いて、手を抜く一番いい機会だったのではないでしょうか。拉致問題はまだまだ泥沼化するでしょう。

私は特に何処が辛いと言うわけでもないのですが、体調がいま一優れません。ついては今日はこの位で失礼します。また、明日は定例の四週間ごとの予約診察日になりますので、来週月曜日4日まで休みを頂戴します。悪しからずご了承ください。

2004.9.29  町村外相『靖国神社参拝』にふれる

今日は朝から雨が降っています。台風21号が9時ごろ既に九州へ上陸したとテレビは伝えていました。その後、四国へ抜けて近畿へ夕方にはやってくるようです。一日雨で私の喉は悩まされます。

ところで、昨日の夕刊(毎日)に、町村信孝外相は、中国が小泉純一郎首相の「靖国神社参拝」に反発している問題について、「それぞれの国には、それぞれの慰霊の仕方がある。日本では、亡くなった人はすべて神であるとの死生観を持つのが普通の感覚ではないか」と指摘し、「A級戦犯が合祀される靖国神社への参拝が『中国人民を冒涜する』との議論は、日本人にはすとんと分かったとは言い難いと述べています。
私も以前から中国のこの問題に関わる中傷は真に遺憾と思っています。外相がここまではっきり言い切ったのは評価できます。
9月10日のメールで石川五右衛門釜ゆでの事を書きましたが、その中で『処刑後の五右衛門の遺体は、釜もろ共永い間、川原に打ち捨てられていましたが、大雲院の開山貞安上人が、たとえ極悪非道の悪人でも死ねば仏』と、秀吉に頼み同寺埋葬してやりました。
まして、日本の戦犯は東京裁判で、連合軍サイドが勝てば官軍の論理で決め付けたものです。
「罪を憎んで、人を憎まず」と言うことを中国人に教えてやりたいですね。

拉致被害者支援担当の中山恭子内閣官房参与が「自分の役割は終わった」として、近く辞任する意向を明らかにしました。曽我ひとみさん一家の問題解決で、拉致問題も一区切り付けるかたちになるのではないでしょうか。

一方、武部自民党幹事長は昨日午後、首相経験者に挨拶回り、「ご指導、ご鞭撻を」頭を下げていました。何か出来の良くない卒業生が恩師に諭されているような光景にテレビでは見えました。また、ABCテレビの「報道ステーション」に出て、古館キャスターの前でも大きな子供を思わせる姿を見せてくれました。【自民党は大丈夫かな?】

いま、11時になりました。雨は次第に音を大きくしています。雷もなっています。くれぐれも、風や雨にご注意ください。

2004.9.28   郵政民営化推進内閣が出来上がる


今朝は明るく爽やかな天気になりました。時間と共に多少気温も高くなりましたが、9月下旬の気候としては先ず先ずでしょう。
昨日は10時を過ぎて、突然気温が下がり、湿度が上がって酷い俄か雨が降って、私の体調はパニック状態になり、脳みそもフリーズしてメールを中途半端なまま送りました。私は気温・湿度の急変には弱いのです。

テレビが小泉内閣は自民党幹事長に武部勤(63)を起用したと報じました。彼は私の頭には”Down Cowの武部”とインプットされています。
BSE問題で「感染源の解明はそんなに大きな問題なのか」と発言して大きな紛議を呼んだ彼が、いま、どうして、と言うのが私の受けた感じでした。彼が安倍前幹事長を幹事長代理に求めたと云いますが、自信が無かったのでしょうか。

党の総務会長に久間章生(63)、政調会長に与謝野馨(66)を置いて、午後には第2次小泉改造内閣は組閣されました。その顔ぶれ一人一人の論評はしませんが、戦争終結時に学齢に達していた人はホンの僅かになったなぁ、と時代の過ぎる速さを再認識しました。郵政民営化改革推進の同士を連判状で固めたような感じです。しかし、社会保障・外交・金融もしかりやってや!。郵政だけではあきまへんで!と言いたいですね。

山崎拓前自民副総裁を小泉内閣の補佐官に持ってきました。時を同じくして、予ねて学歴詐称で社会的に顰蹙を買っていた古賀潤一郎議員の議員辞職が許可されました。山崎返り咲きの布石が出来たと言うわけでしょう。

昨夜、神戸のヤフーBBスタジアムで近鉄とオリックスの今季最終戦が行われました。さらば大阪の夢と言うけれど、考えて見ればオリックスも以前は阪急、むかし、関西私鉄の4球団が、阪神だけになったと言うことです。関西人には寂しいことです。これも時勢・時代の赴くところ、有為転変のならいでしょう。

日本テレビの氏家斉一郎会長(読売巨人軍相談役)は「”たかが”ITの革命児」とライブドアーの参入に難色を示し、また、楽天のそれにも経営見込みの甘さを否定的に語りました。だから、だったら、どの様にプロ野球界の将来を考えるのか、読売としてはっきり物申せ!!と言いたい。

台風21号は向きを東に振って日本列島には最悪のコースに入りつつあります。週末をご用心。本日これにて失礼します。

2004.9.27  夜明けの曇り空は昼を待たずに大雨になりました

彼岸も済んで、多少は秋らしくなるかと思っていましたが、ここ二三日天候は不安定で、湿度は高く、まるで、梅雨を思わせる日が続いています。前線が東西に日本列島の上に停滞しているので、その上り下りで晴れ間が見えたり、俄かに大雨洪水注意報があちらで出たり、こちらで出たりしています。また、台風21号は不気味に日本列島を意地悪く狙っているようです。
地球規模の天候異変だと云いますが、みなさん健康管理には充分お気をお遣いください。

さて、先週は小泉さんが外遊していて、政治の話題も、内向していましたが、週末小泉さんも帰って来て、今日は既に先ほどから小泉さんは官邸にはいって、党三役から決めていくでしょう。昼頃には閣僚も決まっているでしょう。テレビではマスコミが早朝から官邸前にひしめいている様子が流れていました。どの様な内閣になるのかは、このメール送信してからテレビで見ます。

プロ野球界は先週、選手のスト騒ぎで大変でしたが、一応合意が成立して、近鉄はオリックスと合併して、オリックス・バファローズとなりました。

新規球団の参入を認め、セ・パ各6球団2リーグ制というので、今や戦いは場外に移って、ライブドア―と楽天なるIT関連会社2社が、仙台市にある宮城県立野球場を本拠地に競っています。どちらが球団側に迎えられるかは判りませんが、私が一寸気になったのは、いつもTシャツ姿のライブドア―の堀江社長、宮城県知事に会うときもジャケットにノーネクタイ。一方の楽天の三木谷社長は流石、元一流銀行員らしくスーツ姿でネクタイをキチンと締めています。
私は、選手なら兎に角、球団を経営しょうと言う事では後者に好感を持ちます。日本プロ野球選手会(クルト)と日本プロ野球組織(NPB)との交渉の場でも古田会長も服装は崩しはしませんでした。

更に、堀江社長は競争相手の楽天の資産内容について、何億円の赤字があると言うようなことを群がる記者連中の前で発言していました。私は営業の仕事を長年していましたが、競争会社があるときも、絶対にその会社の悪口は言いませんでした。これは営業マンのタブーと教えられていました。
これらの事で、何となく三木谷社長に好感を持ちます。まぁ、どっちでも良いのですが取りあえずの感想でした。

先ほど来、ここ奈良北部は雨が降り出しました。気温が下がり湿度が上がって私には辛い大気の条件になりました。こうなると私の脳みそは完全にフリーズの状態になります。この辺でご無礼します。

2004.9.24  今週はうどんの話に始まって、蕎麦の話で終わります

今週は何故か、うどんの話から→きつね→しのだ→葛の葉狐→安倍清明とお話を進めました。これは、小泉首相は外遊で留守、プロ野球は球団側と選手側で大もめ、スト決行、ファン(野次馬も含めて)も騒ぎ、マスコミが油注いで燃え上がり、IT企業が参入宣言で、私の論評能力を超えたためうどんの話でお茶を濁しました。そんな訳でした。

幸い、日本プロ野球選手会と日本プロ野球組織(NPB)は、凡その合意書が纏り、明日、明後日のストは回避できたようです。これで近鉄バファローズの消滅は確定し、新規加入球団を入れて、セ・パ各6球団・2リーグ制は来年も維持できるようです。目出度し、目出度しと言うところでしょう。
新規加入に手を挙げている、楽天とライブドア―は共に仙台を本拠と狙いを打ち出していますが、この両者の戦いは来週以降のニュースの目玉になるでしょう。

ところで、うどんの好きな私は蕎麦も好きです、更に中華蕎麦も、と結局呑み助は飲んだ後、汁気の多い麺類が好きと言う事なのでしょうか。

むかし、私が入社した頃は職場の慰安会は北陸の温泉地が良く選ばれました。山中、片山津、山代、芦原など、当時大阪からの遊びには格好の温泉でした。当時国鉄の北陸線はSLで、途中「今庄」駅では長い時間の対向列車待ちがありました。この駅には蕎麦の立ち食いの店があって、列車が着くと客は一斉に蕎麦屋へ向いました。時期は農家の休む旧正月の前に日にちを設定していましたので、寒い、時には雪の降っている事もありましたが、そんなプラットですすり込む蕎麦の味は絶品でした。

昨年10月1日のメールでお話しましたが、私が初めて東京に出て、婦人専用車に乗って、脇から冷や汗を流したころ、新宿かどこかを歩いていて、蕎麦屋へ入った事がありました。店の周りの壁に品書きのビラが下がっていましたが、中に、「もりかけ 20円」というのがありました。「何にしますか」と言う声に反応して「もりかけを一つ」と注文しました。注文した後でハテナ、「もりかけ」とはどんなものかなと不思議に思いましたが、聞くのも体裁が悪く、周りのお客の目を感じながら待ちました。やがて、私の前へ「かけ蕎麦」と「もり蕎麦」が並びました。そこで、ハッ!と気が付いたのですが、関西では「素蕎麦」「ざる蕎麦」と呼んでる物なのです。それを一枚の紙に「もりかけ 20円」と書いていた訳です。高等商船の生徒であった私は騒がす、おもむろに両方食し、40円を払って店を出ました。両脇には冷や汗が流れていました。

北や南で飲んで、最終柘植行き関西線に乗るべく港町駅に行くと、出ていた中華蕎麦の屋台へ、必ず足が向いてしまったものでした。それは大和郡山在住時代の思い出です。まだ、デイーゼルカーでした。

麺類は病みつきになります。私は病院へ行っても地下の食堂で昼は卵うどんで済ませます。

とうとう今週は麺類の話で終わりました。来週は政治、野球など動きがあって面白い話の種が出来るでしょう。天候が不安定ですが、みなさん良い週末を。

2004.9.23  狐の生んだ童子は、陰陽師安倍清明になった

今朝は日の出前には20度でしたが、日が昇ってくると気温も少し上がり、空もよく晴れて、あぁ、秋だなあと思える天気になりました。真夏日が90日続いたなどとは何処かへ行ってしまいました。

昨日の葛の葉狐の話は、歴史伝説と言うよりは、民話の類ですが、この話を有名にしたのは、江戸時代初世竹田出雲の浄瑠璃「芦屋道満大内鑑」です。初演以来大評判になり、各地で繰り返し上演されたので、葛の葉伝説と言えば、この浄瑠璃の話になって地元での元の形が尋ね難くなっています。
狐が産んだ童子が世に出て有名な陰陽師になると言うのは不思議な話で、民話と歴史伝説の区別は判らなくなって来ます。

童子が世に出て注目を浴びるのは、平安の中期、天文学者として一条天皇(在位986〜1011)に仕えた陰陽師としてでありました。葛の葉狐の話は村上天皇(在位946〜967)の御代で、この間に童子は当時の陰陽道の大家加茂忠行に師事し、卓越した才能は人々に注目されました。ここに超能力の安倍清明が世に出る機会がうまれました。それは、清明12才の時でした。

内大臣藤原徒忠平が安倍清明の噂を聞いて、同じく陰陽道の誉れの高かった芦屋道満と占を競わせる事にしました。時に道満32歳気力盛んな術者。
 「この袋の中に在る品物と数を当てよ」
と忠平が問題を出すと、二人は手を印に結び、密かに念じ気を入れました。
 道満が先ず、「蜜柑15個でございす」と言うのに対して、
 清明は、「数は15ですが、生き物でしょう」と答えました。
袋を開けると、忠平が入れた蜜柑が白鼠になって飛び出しました。忠平は感心して、清明を宮中に召抱えました。

清明の屋敷は広大なもので、今の清明神社(上京区堀川通り一条上ル)がその屋敷跡とされています。屋敷の傍らには渡辺綱が鬼女の腕を切り落としたといわれる一条戻り橋があって、清明は常に鬼の形をした12体の職神(しきじん=精霊)を駆使し吉凶占に使っていましたが、用のない時はここに封じ込めていたということです。

清明が亡くなった後も職神は橋に住んで居たらしく、治承2年(1178)に建礼門院が妊娠した際、母である平清盛夫人時子が、ここで橋占いをすると、12人の職神が童子姿になって現れ、 「榻(しじ)は何榻、国王榻、八重の潮路の波の寄せ榻」
と言って消えました。この話を聞いた平時忠(時子の弟)が首をひねって、
 「国王の榻というから王子がお生まれになるのだろうが、八重の潮路の波とは、ハテ?」
職神の言葉どおり、やがて誕生したのは安徳帝でした。そして、後に平家滅亡の時、壇ノ浦の潮路の底に沈む運命を背負っていました。

また、清明は或る夏の夜見上げた星の運行が怪しい、皇位に変ありと急ぎ参内したところ、花山天皇が退位されていたと言います。
この驚くべき超能力は京にあまねく知れ渡りました。
あるとき、清明が洛西広沢の遍照寺に赴いた際、寺僧たちが、
 「そこもとは職神をもって忽ち生き物を殺すと言うが、 その技を見せてくだされい」
と乞うたのに、清明は故もない殺生と断りましたが、是非にと言われ仕方なく、
 「あの池のガマで試して見ましょう」
と、草の葉を摘んで、何やら念じていましたが、それをガマにふり掛けると、忽ち、ガマは腹を見せて死んだと言います。なお、清明の家は、人手も無いのに門が勝手に開いたり、閉じたりしたともいわれ、超能力も不気味なものだったようです。

 【榻(しじ)】…とは牛車(ぎっしゃ)の牛をはずした時、轅(ながえ)の
  軛(くびき)を支え、また、乗り降りの踏み台にとして用いる具。
  轅は長柄の意で牛車などの前に長く平行に出した2本の棒、その
  前端に軛を渡し、牛に曳かせる …広辞苑

今日はお彼岸の中日でお休みのところ、長くなりすぎました。ここまでで終りにします。また、あしたお耳をよごします。

2004.9.22   信太の森の葛の葉狐のはなし

今年の夏は、所謂真夏日が長く続き、大阪は昨日で90日になったそうです。
また、度たびの台風上陸、地震、噴火と異常が起きています。日本プロ野球界もどこかで狂って、未だにもめています。幸い今朝は気温が下がり、湿度は高いながら、気温は10時になってもそれ程上がっていません。

これらの事は放っといて、昨日お話した、信太(しのだ)のきつねの話をしたいと思います。このお話は大変長くなりますので、少々話を端折る事があるかも知れませんが、ご容赦ください。
  和泉なる 信太の森の 楠の木の
      千枝に分かれて ものをこそ思へ
という古歌もあるように、信太の森は旧泉北郡信太村、現在の和泉市葛の葉町にあって、大木の茂る広大な森であったそうです。森の中にあるお社が、俗に葛葉稲荷、正式には信太森神社です。祭神は即ち、葛の葉狐であると言います。少なくとも世間ではそう信じていました。この狐が安倍保名の妻となって生んだ子が、有名な安倍清明であると謂うのが葛の葉伝説です。

昔、村上天皇の御代(946〜67)のころ、摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)に阿倍仲麻呂の子孫だという安倍の一族が住んでいましたが、中でも若殿の保名は、見かけは優がたの美男でしたが、打ち物をとっては辺りに並ぶ者の無い勇者でした。

保名は願い事があって毎月一度信太の森にお参りしていましたが、ある日拝殿で弁当を開いている時、河内の豪族石川経平という者が狐狩りに来てそれに追われた一匹の牝狐が拝殿へ逃げ込んできました。
逃げてきた狐はまだ若い狐です。保名はこれを見て、
 「さて、さて、可哀想に。たとえ畜生でも自分を頼って逃げてきたものを、
  むざむざ見殺しには出来ない。助けてやれ」
と家来に命じてかくまわせました。そして、そこへやって来た経平の手の者と争いになりました。多勢に無勢で保名も危うくなった時、偶然、経平の信仰する河内国道明寺の和尚が通りがかり、命乞いをしてくれました。お陰で保名は危ないところを助かりましたが、この和尚実は同類を救われた恩返しに、老狐が化けたものでありました。

助けられた保名はのどの渇きを癒すため、谷間に下りて水を飲んでいるとそこへ、美しい娘が水を汲みに来合わせ、保名の姿を見つけ
 「見れば手負いのご様子、むさいところやが、うちへ来てお休みなされ。
  傷の手当てもしてあげましょう」
と親切に誘うので言葉のままに娘の家へ行きました。そして、その夜はそこに泊まりました。この娘実は保名が助けた狐でしたが、保名はそれとは知らずに、ついに夫婦の契りを結びました。

保名は娘を阿倍野に連れ帰り妻として、仲むつまじく暮らしました。そして、二人の間に安倍の童子と言う可愛い男の子が生まれました。
ある年の秋の、うらうらとした小春日和、子供の守をしながら狐の妻は菊の花咲く草むらに横たわり、つい居眠りをしていました。どのくらいの時が経ったのか、とつぜん、子供の泣く声に目を覚ますと、子供は、
 「お母ちゃんの顔がこわい」
と叫ぶのです。居眠り中の心の緩みで本性の狐の顔に戻っていたのです。
 「こうなっては、人間の世界にはおれない、せめてこの子が十歳になるま
  ではこうして一緒に暮らしたかったのに」
と我が子を抱きしめ泣き伏しましたが、心を決して、
 「じつは、わたくしはあなたに助けられた牝狐でございます」
と、夫保名に手紙を書き、家の障子に
  「恋しくば、たずね来てみよ、和泉なる
         信太の森の うらみ葛の葉」
と書き残して、泣く泣く信太の森に帰って行きました。

保名は子供を連れ、信太の森へ、葛の葉狐を尋ねて行きますが、かなわず葛の葉狐はふり返りふり返り森の奥へ姿を消して行きました。
別れに臨んで狐は我が子に、竜宮から伝わったという黄金の箱と水晶の玉を与えました。
安倍の童子は成人して安倍晴明と謂う有名な占い師になりました。

私は阿倍野の営業所に勤務した時期がありました。私の子供は丸山小学校へ通いましたが、丸山通りの南に清明通りと謂うのがあって、そこには安倍清明誕生の地と伝えられる安倍清明神社があり、「安倍清明誕生之地」と彫った石碑も建てられていました。

「きつねうどん」を関西で「しのだうどん」と謂うのは実はこの葛の葉狐の話に由来するのです。

ここまでお話すると、京都における安倍清明の事も話さないといけなくなりました。明日は休日ですがメールを送ります。管理人さんにはご迷惑を掛けますが、ご容赦・ご高配ください。
2004.9.21   今日はなぜかうどんの話になりました

プロ野球業界は、近鉄とオリックスの合併をめぐって、合併を一年延ばせという選手側と、それは球団経営の問題で延期できないとする球団側、それなら新規参入球団をまって、来年も12球団・2リーグでやれという選手側に、来季以降と頑張る球団、ついに、選手側は18・19の土日すべてのゲームをサボタージュしました。
そして、スト明けの昨日、阪神は神宮球場でヤクルトに敗れました。何だかプロ野球のファン、阪神のファンと思っていた私はガックリして野球への興味を失いかけています。

そこで、私の好きなうどんのお話でもして、気分を代えたいと思います。
いま、私の目の前に製麺会社の葉書があります。乾麺ですが三割引の特別販売だというのです。私はうどんが好きなもので、以前はよく湯がいて夏は冷やしうどん、冬はかけうどんで食べました。そんな事で毎年春と秋には特別感謝セールと銘うって案内が来ます。この製麺会社は香川県香川郡香南町由佐にありますが、私の母親がこの由佐の三野という家の出で、そんな関係で乾麺を纏めて買うようになりました。

勿論、讃岐うどんですが、私の知っている限りでは、むかし、特に讃岐うどんなどとは言わなかったと思います。

香川県には母方の親戚が多かったので、子供の頃からよく母に連れられて遊びに行きましたが、桟橋駅の周りのうどん屋は殆ど職人が手打ちで、一般家庭でもおばあさんや主婦が家庭で、更に農家では家族が多いから大掛かりにうどんを手打ちしていました。製麺業が独立してきたのは戦後の事だと思います。
讃岐の人はうどんが好きで、うつ技能も一般にあったのと、讃岐で裏作に作る小麦がうどんに適していたので、戦後、いつか、讃岐うどんと謂うブランドが出来てしまったのだと私は考えています。

【注】むかしは、宇野から高松へは連絡船で渡りました。着くのは桟橋駅で、本駅は少し離れてありました。

私は兵庫県西宮市の生まれ育ちですが、子供の頃は店屋(てんや)物を食べるのは家の羞じとして、店屋から食べ物をとることはあまりありませんでした。偶に親が、近所のすし屋やうどん屋から丼ものやうどんを配達させました。こんな時は子供心に嬉しい思いをしたものです。
当時、素うどん(かけうどん)一杯六銭、きつねうどん一杯八銭でした。
この、きつねうどんは、しのだ(信太)うどんとも呼びました。甘辛く味付けしたボッタリしたお揚げ(あぶらげ)をのせたうどんの味は格別のものでした。更に、このお揚げをどんぶりに仕立てると、信太どんぶりといいました。

そばにお揚げを載せて、たぬきそばと云いますが、これはうどんに対してそばは色が黒いからたぬきと呼び出したものと思います。これも戦後に出来た呼び名だと思います。
関西ではそばは年越しか、夏、ざるそばとして食べましたが、やはり麺類はうどんが主でした。

奈良市にも美味いうどん屋がありました。椿井町に奈良市場と云う市場があって、その奥に、釜揚げうどんと謂う店がありました。それほど広くない店でカウンターの中に大きな釜が二つあり、その釜でうどんを湯がいてうどん鉢に入れるのですが、鉢には出汁(だし)醤油が削ったかつお節と共に入れてあり、湯がき湯を注いで客に出します。客は自分で上下かき混ぜて食べます。これが中々美味い味で、大和郡山市に居る時から、奈良市へ出ると、家内共々よく寄ったものです。うどんは元もと素朴な食べ物で、讃岐でも醤油をかけ、削りかつお節をふり掛けて食べるのが一番うどんの味が判ると言ったものでした。

きつねうどんは、お稲荷さまのきつねはあぶらげが好物という事に由来するのはご承知の通りですが、それが何故「しのだ」?と最近の人は思うかも知れません。しのだ(信太)ときつねの関わりは悲しいきつねの伝説があるのです。それは「葛の葉狐」の伝説で、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」に語られています。この話、ご存知の人には余計な事かも知れませんが、明日にでもメールでお話します。

連休明けで、何か興がのりません。今日はこれで失礼します。
2004.9.16  阪神、甲子園で最後の中日戦を頑張りました

今日も昨日に続いて空は青く澄んで、風は冷ややかなくらいで、開いた窓からやわらかく流れ込んで来ます。日差しは強いようですが、爽やかな季節になりました。
昨夜甲子園では今期最後の阪神・中日戦がありました。結果は既にご存知のとおりですが、福原の好投、アリアスのソロ、赤星の3塁打などで最後を飾り、中日の甲子園でのマジック点灯を止めました。
去年の私のメールは、9月15日、二度送っています。ヤクルトが横浜に敗れて、阪神は甲子園で星野監督を胴上げしています。

今年、近鉄の身売りばなしから、オリックス・近鉄の合併問題、更にライブドアの新規参入問題、そして選手会(クルト)と野球組織(NPB)との団体交渉と目まぐるしく球界再編への動きがありました。
今日二度目の交渉が行われますが、今週末のストを選手会が打ち出していますので、成り行きが注目されます。

新規参入はライブドアに次いで神戸の楽天も声をあげました。来年は時間的に無理でも再来年は、球界の様子は随分と変わっているものと思われます。
私は78歳3ヶ月余り、男の平均寿命丁度となっています。再来年の事は、どうぞご勝手にと興味がありません。

「髪結いの亭主」とは、妻の稼ぎで暮らす夫の事ですが、いま、男性の(国民年金)の「第3号被保険者」が増えているそうです。
「専業主婦」を想定して出来た3号被保険者ですが、3003年度には男性の3号被保険者即ち「専業主夫」が、8万人に達したそうです。私も3号被保険者で暮らしたかった … もう、遅いですね。

耳障りとは、聞いていやな感じがすること、聞いて気にさわることですが、「耳ざわりの良いことばかりいう」などと言う人があります。
これは間違いです。「さわる」には「触る」と「障る」があります。
「触る」はふれる事です。「耳ざわり」は単に耳にふれる事ではなく、聞いて不快な時は「耳障り」です。「耳ざわりの良い」という言葉は本来の日本語にはありません。

明日からHPの管理人が旅行されます。ついては私のメールも休んで、次回は連休明けの21日にいたします。皆さん行楽の秋を楽しんでください。

2004.9.15  今日は今年初めて秋らしく青い空、済んだ空気になりました

今朝は気温も20.5℃とさがって、空の色も昨日より更に秋らしさを加えていました。
昨夜、甲子園では阪神と中日のゲームがありました。巨人の優勝は何としても避けたい、中日のサポートにまわると言っていましたが、阪神とのゲームともなれば話は違います。
井川好調、打線もそこそこ3点を先取して、勝つかに見えましたが、最後に打たれ、延長に入って最後はサヨナラ負けをしました。阪神ファンとしては残念ですが、アンチ巨人としては中日に1勝を積み上げてやったと思って我慢もできます。
しかし、甲子園では最後の中日戦、今晩は何とかたのむで一!。

皆さん「鳴子」と謂うものを記憶されてるでしょうか。
  家ありや煙の伝う鳴子縄           蕪村
  一つ引けば田の面の鳴子なるを見よ    虚子
今では、殆ど見る事が無くなって、いつか私も忘れていました。
元もとは、田畑を荒らす鳥をおどし、追うもので、小さい板に細い竹管を糸で掛け連ねたものを縄に張り、引けば管が板に触れて音をだす仕掛けのものでした。
時には石油の空き缶なども吊るして、通りがかりの子供たちが悪戯に鳴らしたりしたものです。秋の田の懐かしい情景でした。

更に、実りの田の情景に案山子があります。案山子は案外最近まで、田に立てて
いるのを見ることがありました。
  どちらから寒くなるぞよかがし殿       一茶
  案山子翁あち見こち見や芋嵐        青畝
元もと「カカシ」は「カガシ」と呼ばれていました。獣肉などを焼いて串に刺し、田畑に挿して、その臭いを「かがせ」て鳥獣を退散させたものでした。
だから、つまり「嗅(カガ)シ」で、臭いをかがせると云う意味だったのです。それが、いつか人間のスタイルに変わりました。この事は、人に似せて雀を驚かせると云うよりは、田の神として稲を守って欲しいと云う農民の素朴な願いの表れと理解すべきでしょう。

カカシは、禅宗では他の僧を罵倒して「案山子(あんざんし)」と謂う事があるそうです。
山の中で、北の方角にあり、一番高く見事な山を主山、南にある机のような形をした山を安山、主山の左右にあって、主山を助ける形の山を輔山と謂うそうですが、主人の位置も占めず、輔山のような働きもしない役立たず者をののしって、
「案山子」と呼ぶのだそうです。(見かけばっかり尤もらしくて役に立たない人)
禅の事は私は良く判りませんが、恐らくは、農民の願いが込められた「カガシ」も
実際にはあまり役に立たなかったのかも知れませんね。見かけ倒しのこんな人、
政治にも企業にもいますね。お心当たりありますでしょう。

では、「カガシ」が阻害され、「カカシ」が正当性を得たのは、いつ頃、どうしてでしょう。それは、文部省唱歌に「山田の中の一本足のカカシ」とお墨付きを頂いてからです。

(注) 前記、青畝の句に「芋嵐」とありますが、これは里芋の葉をバタバタさせて
    吹く強い風の事です。

久しぶりにすっきりした、秋の空につられて、昔の田圃の情景を思い出してメールしました。   では、明日また。
2004.9.14   稲妻は、実は「稲の夫」です

今朝5時に目が覚めて、日の出前の気温を見ると24.5度でした。
ここ二・三日20〜23度だったので、再び蒸し暑い日になるのかと思う一方、高いちぎれ雲の浮いた空の色は青く透明に見えて、やはり秋が来たなと感じさせました。
昭和59年この地に移り住んだ時には二階の北側の窓からは京都府木津町側が広く見渡せて、今の時期は刈り入れ前の田圃が美しく見えたものでした。それから約20年、開発で、今は都会並みの景色しか見えません。

今年二百十日は8月31日でしたが、百姓はこの頃に台風などで強い風の吹くのを嫌い恐れます。それは丁度、風媒花である稲の花が咲いて花粉が飛ぶ時期だからです。

この受粉を援けるのが雷光です。しかしこの光が稲を実らせる訳ではありません。偶々稲の結実の頃に雷が多いからそのように云われるだけです。そのため雷光を「稲妻」と呼んでいます。「稲妻」は実は「稲の夫」なのです。「つま」という言葉は古くは「配偶者」の事を言いました。
稲は実るから女、稲妻は実らせるから男なのです。これを「稲つるび」即ち、「稲とSEXする者」とも云うわけです。

この様に実らせるのは「男性」と云う考え方から、豊作を男性の生殖力によってもたらそうと云う呪術は多く行われていたようです。
「田遊び」と云う農村の年中行事など、ここには男性のシンボルがしばしば登場しています。木で造った「それ」を扇であおいで生殖力を稲に感染(うつ)そうとしたり、男性の「それ」を型どったものを交わらせる神事もあります。

天然自然の中ではこの様に種族を維持・増殖するために雌雄の交わりをする訳ですが、ひとり、人間はに快楽のためにこれを行い、実りを求めない不埒な考えの持ち主が増えました。少子化は益々進むでしょう。

毎日曜日の午後1時からABCテレビで、桂三枝の司会する「新婚さんいらっしゃい」が放映されていますが、今月12日には中国から帰化した日本姓の若い二人が登場していました。男性・女性共に関西の大學に留学していて、キャンパスで知り合い意気投合した二人でしたが、三枝の「何故日本に帰化したか」と云う質問に、「中国では子供が二人できると罰金をとられる、日本では一人目から手当てをくれる」からと答えていました。

中国の人は案外、姓氏を変えることに抵抗は感じないようですね。何と云う姓であったか聞き漏らしましたが、日本の姓でした。夫君は「ふじっこのおまめさん」に勤め、細君は家庭に居ると言ってました。韓国・朝鮮の人は姓氏にこだわり、帰化しても金とか犀とか、元の姓で居る人が多いようです。

日本に住む人種はいずれ入代って、東京の一画に「大和人」と云う稀少の種族が住んでいる。そんな時代がやがて来るかも知れません。

稲の交配から日本人の将来まで考えました。朝起きて来て、木津町の僅かに残った田圃を眺め、つい、思いつくままに書き出したので、昼を待たずに長くなりました。これで終りにします。また、明日を宜しく。

2004.9.13  ドラゴンと河童の関係…カッパと云う球団があったらおもろいで…

先週末はプロ野球界初めてのスト騒ぎで、賑やかでした。政治家や財界人までが関わって、高だかプロ野球界の問題ではないかと冷ややかに見ていた私も些か認識を改めました。兎に角土・日はスト延期で、各球場のファンの入りは却って良かったようですね。

ところで、セントラルリーグの優勝争いは中日が独走しており、それを巨人がきっちり追っかけています。つられて、阪神もここんとこ元気を見せています。しかし、所詮、阪神は今年ランキングの上位維持は困難です。
阪神びいきの私はアンチ巨人でもありますから、ここへ来て巨人には優勝させたくない思いで、中日をサポートしております。
勿論、阪神にはこのまま調子を上げて、チームの補強もして来年に備えてもらいたいと思っています。

ドラゴン(dragon)と言えば、西洋の神話で、翼と爪とを持ち口から火を吐く想像上の動物で、爬虫類の形で表されます。
東洋には、同じく想像上の動物で竜があります。竜にはインド神話で、蛇を神格化した人面蛇身の半神で大海や地底に住いし、雲雨を自在に支配する力を持つとされているものと、また、中国では神霊視される鱗虫の長とがあるようです。これも鳳・麟・亀と共に四瑞の一つとして、よく雲を起こし雨を呼ぶと言います。

いずれも想像上の、爬虫類、そして口から火を吐き、雲雨を自在にする点はよく似ております。しかし、何事にも異説はあるもので、実在したとする話も伝わっています。
中国、戦国時代の法家思想の代表作とされる『韓非子』に、「竜を馴らせば、人が乗れるほどおとなしい」と紹介されているそうです。
ところが、竜には、喉の下あたりに直径30cmもある鱗が逆にはえていて、これに触ろうものなら、忽ち殺される。偉い人を怒らせることを「逆鱗に触れる」と言いますが、その言葉の出典となった有名な話です。
日本では竜のことを「たつ」と訓んでますが、どうして「たつ」なのかはさだかではありません。

中国では、竜は天子の象徴とされています。『易経』に「飛竜、天に在り」とあるのはその意味であり、「竜顔うるわしく」と云うのも天子に対する尊称です。
「竜」が想像上の動物となったのは、唐代にインド思想が伝わって、仏教説話の中の「海竜王」と中国本来の「竜」とが混同されるようになった為でしょう。
それ以前に、中国には、海神として「海若」、河神として「河伯」があったと言います。

この「河伯」が日本に伝わって、「河童」となったと言う事です。芥川竜之介の同名の小説や、清水崑描くところの絵などで、日本人に滑稽で、悪戯ポクッて馴染みの深い「河童」は日本独自のものらしく、本家中国では「河伯」がどの様な格好をしていたかは判りません。

今日は、ドラゴンから話が弾んで河童の話へ落ち着きました。ところで「河童」は、その頭のおサラに水が無いと困るのは本当でしょうか。

2004.9.10  石川五右衛門釜ゆでの釜は何処へいった?

日の出前の気温は22,0度、雲は多いものの、過ごしよい朝でした。
昨日は世俗っぽいお話をしてしまいました。何か変わった話が出来ないものかと広辞苑を見ていたら、「五右衛門風呂」と言う言葉に出会いました。皆さん良くご存知のものですが、その構造に二通りあるように書いていました。
一つは、槽(おけ)の底に平釜を取り付け、かまどに据付けて、下で薪をたいて沸かす据風呂。底板は水面に浮び、入浴のときはこれを踏んで下に沈め、その上にのってはいるもの。
もう一つは、全部鉄釜としたものとありました。私の知っているのは後者の方で、前者はその構造がイメージで出来ません。

石川五右衛門といえば、桜満開の、洛東の南禅寺の山門の楼上で、きらびやかな衣装を纏い、太い銀煙管を銜えて、
  「絶景かな、絶景かな、春のながめ値千両」
と名セリフをはく、歌舞伎名作「楼門(さんもん)五三桐」で有名ですが、実際にはどれほどの盗人であったのか、疑問もあります。しかし、豊臣秀吉が天下を平定したころ、京中を騒がせた盗賊の首領として、太閤秀吉幕下の五奉行の一人、前田玄以に捕らえられ、三条河原の南で釜ゆでの刑に処せられたのはまことの事のようです。

ここで二つのクエション。
 @五右衛門は6歳になる息子の小源太を釜の中で両手で差し上げ、
   一瞬でも処刑の苦しみから逃れさせようとしたか。
 A「いっそ早く死なせて苦しみを除いてやろう」と「南無阿弥陀仏」の
   声もろ共、息子を我が膝の下に引き敷いて瞬時に息絶えさせた。
あなたなら、どちらを選びますか。

この珍しい処刑を見ようと、河原には貴賎の群れが詰め掛けましたが、
五右衛門はここで一首有名な辞世を詠みました。
  「石川や浜の真砂は尽くるとも
     世に盗人の種は尽きまじ」

秀吉の寝所に忍んで、その首を取ろうとしたとか、本阿弥光悦の蔵を破って名刀をごっそり盗み出したとか、とかく、洛中・近在を脅かした大盗人のものだから、処刑後の五右衛門の遺体は、釜もろ共永い間、河原に打ち捨てられていましたが、大雲院の開山貞安上人が、
  「たとえ極悪非道の悪人でも死ねば仏」
と、秀吉に頼み同寺に埋葬したと言います。下京区貞安前之町の大雲院の墓地に「融仙院良岳寿感禅定門…寛永九年」と刻まれた墓石があり、それが五右衛門の墓だと言われています。

ところで、遺体は引き取られたものの、残った釜はどうなった?。いま、三条の河原に見当りません。これは、永い間、やりっ放されて居たそうですが、ある年の洪水で鴨川が溢れたため釜も流れ出し、流れ着いたところが釜ヶ淵といい、東九条の北にある陶化橋の傍らに地名をとどめています。
一説によれば、五右衛門を首領とする一味には、頭目が15人も居て、いずれも生きたまま釜ゆでにされ、彼らの妻子・父母・兄弟すべて磔にされたと言うことです。恐ろしいですねぇ。

阪神の事ですか、今年は残念ですね。去年の今ごろは、M2だM3だ、星野監督は甲子園での胴上げを狙っているのかな、などと話していたものでした。今年は中日と巨人が首位を争っています。

広辞苑で「五右衛門風呂」を見つけて、長いお喋りになりました。探せば話の種は何処にでもありますね。明日はまた何か見つけましょう。バイ。

2004.9.9  プロ野球の臨時オーナー会議終わる、来季セ6・パ5で2リーグ制

今日は何となく秋になったなぁ!と感じる日差しです。日の出前の気温は20.0度と低く、昇ってきた朝日の光も柔らかなものでした。しかしまだ9月も9日、午後は気温も上がって、暑くなるでしょう。
ところで、昨夜も地震がありました。23時58分、奈良で震度3、震源は東海道沖で、当地では3とは言いながら弱々しい揺れでした。やはり先の地震の余震でしょう。

プロ野球の最高決議機関である臨時オーナー会議が昨日開かれました。
その結果、近鉄とオリックスの合併は承認されました。そして下馬評に上がっていた「もう一つ」の合併(ダイエー・ロッテ)は現時点はでなく、来季は、セ・6、パ・5球団で2リーグ制を維持と決まりました。他にセ・パ交流試合の導入や、プロ野球新規加入の加入料軽減も野球協約を改定の方向が出されました。
これで球団サイドのゴタゴタは一応治まりが着いた訳ですが、合併反対を訴えて、野球ファンを巻き込んで、ストを行うという日本プロ野球選手会の古田敦也会長(ヤクルト)は、それでも、「簡単には引けない」と息巻いているようです。どうなりますかねぇ。

「合併を1年凍結すれば、選手は経費を節約し、ファンも球場に足を運び、合併しなくて済むように頑張れるのに」とあるファンは言いました。これを私流に言うならば「今まで選手は経費を無駄遣いし、ファンは球場へ行かなかった」と言うことになりますがねぇ。お気に障ればご免なさい。

大体、選手の年俸が高すぎます。所詮プロ野球なんてものは、企業の広告塔でしょう。昨日私は興行界の前座興行としての元祖プロ野球を書きました。
企業も本業が好調の時なら問題は無いでしょうが、本業の業績が悪くなれば前座も要らなくなるのは、言い換えれば前座興行が出来なくなれば、切り捨てるより仕方が無いでしょう。
その前座でファンを集め、本業の鉄道収入をあげ、球場収入もあげ、グッツの販売で百貨店部門も等々。或いは新聞発刊部数もあげる、前座は本家に役立たなくてはいけません。企業は道楽で球団を持っている訳ではありません。

私はプロ野球選手が、ファンを巻き込んでストだ何だと言う事に不快感を感じるもので、ついつい余計な事を言いました。

昨日の阪神、遅まきながらも良かったですね。甲子園での、井川と金本のヒーロー・インタビュー久しぶりでした

2004.9.8  我が国の職業野球団の元祖は「天勝チーム」だった

昨日、西日本を嵐で包んだ台風18号は、当地では午前3時ごろまで名残の風をときおり雨戸に吹き付けて、目ざとい私を目覚めさせましたが、その直後、3時36分、又しても地震がユラユラしました。
直ぐにNHKテレビを点けると、当地奈良は震度3、震源は東海道沖、震域は東海・近畿一円でした。多分5日の地震の余震だろうと、直ぐにテレビは消して再び寝ました。しかし、年寄りはこのような状態になると中々寝付けません。今朝は些か睡眠不足気味でした。

ところで、プロ野球はどうなるのでしょう。近鉄・オリックス両球団の合併に端を発してもう一つの合併が飛び出し、一リーグ制かニリーグ制か、プロ野球選手会のスト突入か、大げさに言えば、まさかの時は今期リーグは全てdrawn game になって日本シリーズもなくなるのか、プロ野球ファンも参加して大騒動です。高がプロ野球とも言えない今の時代、社会問題として大いに関心を集めています。

今日は、日本プロ野球の元祖はどんなものだったのか、以前に読んだことのある話を思い出して見ましょう。
日本の野球熱が強く現れて来たのは、大正4年(1915)に全国中等学校野球大会が初めて豊中球場で開催されたのが切っ掛けとされます。
これに刺激されて全国津々浦々にアマチュア球団が結成されて、その対抗戦が土地の話題を賑わせました。
その頃、「魔術の女王」といわれ、60余名の座員を抱え、「興行界の福の神」とされていた松旭斎天勝の支配人・野呂辰之助はこれに目を付け、日本最初の職業野球団「天勝チーム」を誕生させました。

天勝の実弟・吉沢広吉は当時慶応大学の理財科に籍を置く野球選手だったから、塾の先輩で、当時の東京日日(現在毎日)の運動部記者をしていた小野三千麿に相談、現役の人気捕手・鈴木関太郎にコーチとして入ってもらい、吉沢の友達で立教大の選手・勝川大介に選手の糾合を頼む一方、この二人の親友で明大野球部のキャプテンだった中沢不二雄(後のパ・リーグ会長)も矢部選手を連れて参加、慶応の高宮、法政の稲垣、田中、坂戸等々当時の名選手として人気のあった連中を集めること40余名、馬蹄形の中に「天勝」と染め抜いたユニホーム姿もさっそうと、一座の巡業の先兵として各地のアマチュア球団に試合を挑み、興行の人気の盛り上げを図ったのだったそうです。

前記のような顔ぶれだから、実質的には日本最強のチームな訳ですが、もともと一座の興行の宣伝が目的なので、時には先方に花を持たせなければ、マイナスになる場合もあり、「すまんが、今日の試合は向こうに花を持たせてくれ」とチームに頼み、その夜は独特の「負け振る舞い」という選手の慰労宴を張って選手たちの憤懣のはけ口を作ってやったものだそうです。

勿論、勝っても良い時には大いに実力を見せて快勝する。その夜は祝勝の乾杯で、選手たちは、勝っても、負けても大いに飲めるノンビリ球団だった訳です。

戦前の事ですから私も詳しくは知りませんが、日本のプロ野球の元もとは興行一座の前座試合であったようです。
戦後は違った出直しをしたのでしょうが、元祖はこんなものだったのか、と言う感じですね。
詰まらない事を言い過ぎましたかな。お聞き流しを!。

2004.9.7  続く台風、繰り返す地震浅間も燃えてどうなる列島

今朝はこの辺り薄い雲がちぎれて浮かんでいましたが、気温は高く、今日も熱かろなと思わせました。
これは起床時の感想でしたが、朝食の終わった頃(08:29)又しても地震がありました。一昨日の二つの地震よりは東寄りの東海沖が震源だったようです。
震度は当地で3と一昨日の5−及び4より揺れは穏かでした。しかし本当に、気象庁の言うように「東南海地震と全く無縁のもの」なんでしょうか。いずれにしても南海トラフ上の出来事ですから油断は出来ないでしょう。

安政元年(嘉永7年)(1854)6月近畿の地震から、同11月4日東海道の大地震・5日南海道の大地震、更に翌安政2年10月2日の江戸の大地震と繋がっています。それから150年モウボッボッではありませんかね。

 「今回のようなケースは経験した事がない。きめ細かく監視を続けます」と山本雅博・地震津波監視課長さんは、6日、東南海地震との関連について厳しい表情で繰り返していました(ashi.com)。
気象庁も「初めての経験」と言っていますが、我々生活者は大概は初めての経験で生きています。いつも「前例がありません」と逃げるのは日本官僚だけの悪い習性です。

さて、一方台風18号は私の朝食時8時ころテレビでは長崎県の直ぐ南西にあって、長崎県・福岡県そして北九州市を経て日本海へ抜けるような事を伝えていました。
それにしても、今年ほど早く(6月)から日本列島に台風が上陸したのは、私の78年の生涯でも初めての事です。「前例がない」と断れるのならよいのですがね。台風19号も出来ているようですが、これは南にそれて列島には近づかないようです。

いま、11時ですが東の風が強く、閉めた雨戸にぶつかる音が時に激しく聞こえます。空は青くちぎれた薄い雲が高く浮かんでいます。近畿が雨なり風なりの影響を受けるのは、台風18号が日本海へ抜けて鳥取県・兵庫県の沖合いを進むころでしょう。夕方位ですかねぇ。むかしこんな日は、飲み屋やバーがガラ空きでホステスたちに大モテでした。

変な事を思い出して、話は何でしたかねぇ。裏キドニ…のキ即ち(気候・季節)の筈でしたね。これも台風や地震の話では悲しい現実です。
おまけに、ホステス用も書いておきましょう。
  テキドニセイリスベシ=テ(天気)キ(気候)ド(道楽)ニ(ニュース)
                セ(セックス)イ(いなか)リ(旅行)ス(スポーツ)
                ベ(勉強)シ(仕事)

早く爽やかな、そして穏かな秋の日が見たいものです。
雨風と地震にお気を付けください。

2004.9.6  「前畑ガンバレ」の裏に、偉大な母の励ましがあった
 
昨日は午後大変嫌な息苦しい天気でした。そして、宵には甲子園で阪神が1回裏に1点を入れた後、激しい雨になって、巨人とのゲームはドロンになりました。19時7分今度は当地で震度5−を感じる地震がありました。更に23時57分再び震度4の揺れがあり、眠りかけた私を飛び上がらせました。
いずれも、紀伊半島の東南の震源だと言います。東南海地震とは直接関わりは無いそうですが、気分の悪い事です。
台風18号は既に九州南方にあって日本上陸の構えです。先の浅間山噴火と言い、再々の台風襲来、河川氾濫・洪水・高潮・津波。山は裂け、地は割れて、日本列島はどうなるのでしょう。

こんな話ばかりではメールを送っても詰まりません。何か目先の変わった話は無いかと、苦心します。むかし、営業を担当している時に教えてもらった話法のトラの巻きがありました。結局は普通の人が話をする時の話題の分類に外なりませんが、次のような事でした。
  《裏キドニタテカケサセシ衣食住》
   =裏(裏ばなし)キ(気候・季節)ド(道楽)ニ(ニュース)タ(旅)
    テ(天気)カ(家庭・家族)ケ(健康or景気)サ(サラリー・酒)
    セ(セックス)シ(趣味or仕事)そして衣・食・住

「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ」有名な放送は、1936年(昭和11)、第11回ベルリン・オリンピックの女子200メートル平泳決勝の場面ですが、この名場面、母のひと言で生まれたと言います。
前畑は、水泳では日本で初めて国際競技に参加しました。それは1929年(昭和4年)、ハワイ島ホノルル・ワイキキ戦勝記念全米女子選手権大会でした。一行は4人、勿論前畑が最高で、220ヤード平泳ぎに3分19秒0で、第二位となりました。1932年(昭和7年)の第10回ロサンゼルス・オリンピックには18歳の前畑は自己の持つタイムを3秒6も縮めて第二位になるという勝負強さをみせました。しかも、この時、一位との差は10分の1秒でした。

前畑は、意気揚々と凱旋しました。彼女を日本国民は熱狂的に迎えましたが、彼女は「自分の責任と目的を果たすことができた」と引退を宣言しました。するとどうでしょう。全国から「やめるな」「口惜しくないか」との声が上がり、「四年後のベルリン大会まで、10分の1の口惜しさを忘れずに泳いでくれ、貴女の負けず嫌いは、必ず優勝を齎すでしょう」と励まされたと言います。

しかし、前畑は「私ども女学生は18歳で女学校を卒業すると同時にお嫁にいかれる方も多く、私も花嫁修業がしたかった。4年も泳ぐなんて考えられなかった」と後日に話しています。

泳ぐ気持ちを決心させたのは、「自分の好きな水泳を最後までやり抜くのですよ」と励ましてくれたのは、母の言葉であったと言うのです。

名場面一《6コース前畑、となりに強敵ドイツのゲネンゲル。スタート。20メートル水の中をくぐっている前畑が水面に出たときはゲネンゲルをひとかき抜いていた。
100メートル、同時にターン。スタンド総立ち、150メートルのターンから河西アナはただ、「前畑ガンバレ」を繰り返した。タッチの差で優勝、記録は3分03秒6でありました》 … 母の偉大さがこれを実現しました。

今日も雲の多い、蒸し暑い日が続いています。台風前夜の気分ですね。
2004.9.2   浅間山が21年ぶりの噴火をしました…天の帝はお怒りです

今朝は夜明けの気温が20.5度まで下がっていました。前線が下がってきて、既に秋雨前線と言う訳でしょうか。昨日まで下はステテコ姿でしたが、今朝はズボン(今はスラックスと言うのですかね)を穿きました。

昨日は東海地震を想定した防災訓練が大掛かりに行われました。しかし、何となくマンネリで、テレビのニュースで見ていても何だかダラダラと緊迫感は感じませんでした。
これを見かねたのか、昨夜午後8時2分、群馬・長野県境の浅間山(2568m)で噴火が起きました。噴石は山の中腹まで飛散し、火口の西側では山火事も起きたと言います。多分、”天の帝”が防災訓練の様子にイライラして「喝」と気合を入れられたものでしょう。この規模の噴火は1983年4月以来のものだと言います。
火災噴火予知連では、この噴火を予知出来ていなかったようです。地震予知連も訓練はしていてもイザと言うときにはこの程度のものではないのでしょうか。

阪神、名古屋でまた負けました。新聞に『鬼門の名古屋・虎ああ10連敗』と書いていました。今夜も名古屋で最後のゲームがあります。「せめて最後だけでも勝ってえな!」とは阪神フアンの声。《セツナイネェ》
八木裕内野手(39)は”代打の神様”と期待されていましたが、登録を抹消されました。アリアスも解雇かと噂されています。阪神は投手陣の強化も急務でしょう。そして、来年へ向け大鉈で強化策を考えるべきでしょう。尤も、来年私が生きてるかどうかは判りません。そう言う意味では…どうでもエエけどなァ。

アテネ五輪でしばらく話題のおもてから遠のいていましたが、曽我ひとみ(拉致被害者)さんの夫、ジェンキンスさんが、「自発的に在日米軍基地に出頭する」との声明を発表し、近く退院して在日米軍のキャンプ座間(神奈川県)に出頭するようです。二人の娘と夫婦の4人で、佐渡での平和な生活が早く来るよう祈る気持ちです。

それにしても、世界はどうなっているのでしょうね。イラクの問題は、既に私にも免疫が出来て少々の事が起きても驚きませんが、今朝の報道では、ロシア・北オセチァの中学校を、武装集団が占拠して、敷地内に爆弾を仕掛けたと言う事です。中には120人超の生徒が人質にされており、親たち9人が死亡したと言うものです。犯行はチェチェン独立派か?と言います。

また、北朝鮮からの脱北者は後を絶たず、昨日も北京の日本語学校に、金網を切り破って29人が駆け込んでいます。第三国行きを希望しており、いずれ韓国に引き取られるのでしょうが、これで、また、北と韓国の関係は悪くなるのではないでしょうか。また一方では、昔の「ベルリンの壁」崩壊の前夜のような感じもします。

今日はアレコレ書きました。いま、昼前になっても空は曇って鬱陶しく、空気は湿って薄ら寒く、私の体調は優れません。これで止めますが、明日は4週間ごとの診察日です。従って、土・日と共に三日のお休みを頂きます。悪しからずご容赦を。

2004.9.1
   今日から詰まらぬ雑学講座を再開します

長らくご無沙汰しました。皆さんお元気ですか。この夏は異常気象で暑く、オリンピックで、更に日本中が熱くなった夏でした。
ところで、今日から私の駄文のメールを再開させて頂くのですが、それに先立って、訂正とお詫びがあります。

それは、昨年の9月2日のメールに「稲村の火」と書き、更に今年の8月5日にもこの「稲村の火」をその侭使っていた誤りです。正しくは、「稲むらの火」でした。
敢えて漢字を使うのであれば「稲叢の火」とすべきでありました。

「稲むら・稲叢」と謂うのは、刈った稲または稲藁を積み重ねたものを指します。
俳句の「季」には無いようですが、季節は秋のものです。
 「雁鳴きてうちつみわたる稲叢の 秋の種こそ春に蒔くらめ」 夫木和歌抄(5)

「稲村」は姓氏の一つで、時には地名にも使われています。地名でよく知られているのは「稲村ヶ崎」で、神奈川県鎌倉市の南部、七里ヶ浜と由比ヶ浜との間の岬で、新田義貞が名剣を投じ、干潟に乗じて鎌倉に攻め入った所です。
明治43年発刊「尋常小学読本唱歌」で発表された「鎌倉」は国文学者「芳賀矢一」(1867〜1927)の作詞になりますが、その一番に
   「七里ヶ浜の  磯伝い
    稲村ヶ崎   名将の
    剣投ぜし   古戦場」
とあります。
訂正・お詫びからとんでもない講釈をしてしまいました。ご容赦を。

アテネ五輪は施設整備の遅れやテロの問題で正常な開催が危ぶまれていましたが、開催国ギリシャの努力によって、無事に、そして盛大に開かれ数々の記録を残して終わりました。詳細は既にテレビや新聞でご存じの通りで、我が国の選手諸君も金・銀・銅のメタルに限らず、入賞も含めて輝かしい成果を収め、少々言い方は古めかしいかも知れませんが、大いに国威を発揚してくれました。
そんな中、ひとつ、私の気持ちに複雑に残ったのは野球でした。ナショナルチームが何故長島ジャパンでなければならなかったのかと言うことです。

脳梗塞からリハビリのため、アテネ五輪での采配を断念した野球日本代表の長島茂雄監督(68)は8月27日、銅メタルを獲得して成田空港に帰国した選手たちと千葉県成田市内のホテルで会い、「よくやってくれました」などと、健闘をねぎらったそうですが、やはり大将たるものは、「督戦」、即ち部下を監督激励して戦わせるのでなければなりません。
出迎えた選手の報告には「テレビで見ていたよ」と笑顔を見せていたそうですが、これでは、(大阪弁で)サッパリでんなと言うところでしょう。
代りに指揮を執った中畑清ヘッドコーチ(50)は試合中「長島監督ならこんな風に判断しただろう」などと考えて選手を指揮したと言っていましたが、こんな程度では銅メタルでも上出来だったのでしょう。

何故、中畑ジャパンではいけなかったのか、更に、他に良い監督を準備出来なかったのか、長島茂雄氏が「読売巨人軍終身名誉監督」だったからか?。
テレビのカメラが日本チームのダッグアウトを映したとき、選手の後ろに吊り下げられていた「3」の付いたユニホームが、ダラリと見えて、「背後霊」のように思えたのは私の僻めだったのでしょうか?。

兎に角、お休みを頂いた3週間の間に、世の中色いろな出来事がありました。何処まで落ちるかと思っていた阪神タイガースも、甲子園へ帰って目の覚める追撃に出ました。時既に遅しとは言いながら、シーズンの残りを楽しまして欲しいものと思っいます。(ただし、昨夜は中日に名古屋で井川が破れ、8連勝で蹴躓きました。残念)
 … 今日は再開のご挨拶まで申します …

(^。^)村ちゃん、大工さん暫くでした。今年は本当に暑い暑い夏でした。この暑い夏の夜、日本中がアテネオリンピックのメダルラッシュに沸きました。私も、選手たちの連夜の熱戦ぶりに声援し、感動の連続でした。
 大工さんの雑学講座、どうぞ、今日からよろしくお願いします。


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