[ホームページ] へ戻る

広報 かたの 特集シリーズ


広報かたの 平成21年7月1日号
発掘!発見!緑立つ道
今月のテーマ 列品解説(1)「東倉治遺跡と倉治遺跡の出土遺物」
(財)大阪府文化財センター 三好孝一
 
 今月は、7月1日から歴史民俗資料展示室で開催される第二京阪道路関連遺跡出土遺物展示会(前期)に出品している土器や石器などを紹介します。
 
東倉治遺跡の遺物
 東倉治遺跡の調査は3か所の調査区に分けて行われ、右の遺構配置図の落ち込みと呼ばれる谷状の大きなくぼみからは壺や鉢などの土器が大量に見つかりました。
落ち込み出土遺物
 右の写真の2点は、鉢と呼ばれている土器です。
 右側のボウル状の形をしたものと、左側の帽子を逆さまにひっくり返したようなものとの二種類ありますが、どちらも食べ物を盛りつけたり、貯蔵する容器であったと考えられています。
 大きさは右が口径約10センチ、高さ9センチ、左が口径約22センチ、高さ約10センチ、です。
 下の鼓形をした土器は、口径約12センチ、高さ約13センチで、器台と呼ばれているものです。その名のとおり、壺や甕などをこの上に載せて安定させるために作られました。
 なぜこのようなものが必要だったのかというと、このころの土器は底部が非常に小さく不安定な形をしています。そのためそれを補うために器台が作られ始めたものと考えられます。
 これらの土器は、弥生時代後期後半のものです。

落ち込みから出土の鉢

器台
住居跡出土遺物
 右の写真の土器は、欠けた口の部分を復元しても高さ10センチ程度の非常に小さなものです。形はゆがみ、表面の仕上げも非常に粗いものが多いためミニチュア土器と呼ばれています。一般的な製品を模して、それを小さくしたものといわれていますが、どのように使用されたのかはよく分かっていません。
 左の写真は、ほぼ全形の分かる甕で、その大きさは口径が約10センチ、高さは12センチです。外面にすすが付着していることや形から考えて、食べ物を煮炊きするために使う、現在の鍋のような道具だったと考えられます。
 甕の表面には平行線状の凹凸がわずかに残っていますが、これは土器を製作するときに粘土を押さえた道具の跡です。
 ほかの遺跡で、木目がまっすぐ通った板を用いて作られた羽子板状の道具が見つかったため、その線の正体が木目であることが分かりました。
 これら2点の土器は、その形などの特徴から弥生時代後期でも後半(3世紀)に使用されていたものと考えられます。

台付甕(左)とミニチュア土器(右)
その他の出土遺物
 写真右側は、矢の先に取り付ける矢じりです。左側の写真は一部に加工を加えた刃器と呼ばれるもので、ナイフのような道具です。これらはすべて大阪府と奈良県の県境に位置する二上山周辺から産出されるサヌカイトという石から作られています。
 これらの石器は縄文時代を中心とする時期のもので、弥生時代以前からこの地を行き来した狩人たちがいたことを示しています。

刃器(左)と矢じり(右)

 
倉治遺跡の遺物
 倉治遺跡からは須恵器と呼ばれる灰色の土器が見つかりました。須恵器は5世紀前半に朝鮮半島から伝わったまったく新しい技術により製作された土器です。
 左の写真の土器は、口径約18センチ、高さ約30センチもある甕です。水などの液体や穀物を貯蔵するために用いられたと考えられます。
 右の写真の土器は、2つ合わせて蓋杯と呼ばれ、現在のふた付きのご飯茶碗に当たります。
 下の部分は杯身と呼ばれ、口径約12センチ、高さが約4・8センチです。上の部分は杯蓋と呼ばれ、口径約12センチ、高さが約4センチです。みなさんの使っているご飯茶碗の大きさと比べてみてどうでしょうか。
 これらの須恵器はいずれも5世紀後半のものと考えられます。

須恵器

須恵器蓋杯(上が杯蓋、下が杯身)
 
第二京阪道路関連遺跡出土遺物展示会(前期)
と き 7月1日(水)〜11月1日(日)午前10時〜午後5時
場 所 歴史民俗資料展示室
内 容 倉治・東倉治・有池・上私部遺跡から出土した遺物の展示
※ぜひ広報紙をご持参ください。
問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)

大阪ミュージアム構想

 大阪府と府内の市町村は、大阪のまち全体を「ミュージアム」(美術館や博物館)として、各地の魅力的な地域資源を「展示品」や「館内催し」に見立て、大阪の魅力アップを図る「大阪ミュージアム」構想を推進しています。
 交野市では、「教育文化会館」以外にも「私部代官屋敷周辺のまちなみ」「交野山と信仰の道」「交野が原と七夕まつり」など16件が、現在登録されています。
■大阪ミュージアムホームページ http://www.osaka-museum.jp/index.html

 

TOPへ戻る