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広報 かたの 特集シリーズ


広報かたの 平成21年12月1日号
発掘!発見!緑立つ道

今月のテーマ 「文化財シンポジウムをふり返って 」

文化財事業団(TEL893・8111)
 
 今回は、10月24日に行われた文化財シンポジウム「ヤマト政権の生産基盤を掘る」の内容をふり返ります。
 水野正好さん((財)大阪府文化財センター理事長)の司会のもと、和田晴吾さん(立命館大学教授)、若林幸子さん((財)大阪府文化財センター)、三好孝一さん(同センター)、南孝雄さん((財)京都市埋蔵文化財研究所)、大竹弘之さん(枚方市教育委員会)、真鍋成史さん(交野市教育委員会)の討論の様子をご紹介します。(以下敬称略)

シンポジウムの様子
 
上私部遺跡の建物群

 上私部遺跡の調査では、古墳時代の交野の開発の中心となったであろう大きな集落の姿が明らかになりました。
 掘立柱建物と竪穴住居という2種類の建物の違いなどから分かる上私部集落の性格とはなんでしょうか。

水野  上私部の掘立柱建物はいつから現れますか。
若林  6世紀の初めから確実なものがあります。
水野  日本では掘立柱建物はいつから始まるのでしょうか。
和田  縄文時代にもいくつかある。弥生時代にはかなり広まっています。
水野  弥生時代以後には掘立柱・竪穴のどちらもありますが、弥生土器の絵などに掘立柱の高床式建物が多いのはなぜでしょうか。
大竹  絵の描かれている土器は宗教的なことに利用する土器なので、竪穴は描かないのではないでしょうか。
水野  竪穴住居は村人などが普通に生活する建物だからわざわざ絵に描かれることはなく、掘立柱建物は、役所や偉い人の住居・倉など特別な建物だったためよく描かれたのですね。
 上私部遺跡ではそうした2種類の建物の集まりが区別ができる形で出てきました。ここまで集落の様子がよくわかる遺跡は大阪でも少ないですね。(広報6・8・9月号参照)
 
茄子作・上の山の須恵器窯

 古墳時代のハイテク技術である須恵器の窯は、どのような背景のもとに操業されたのでしょうか。

水野  茄子作・上の山遺跡から古い須恵器窯が見つかって僕らもびっくりしました。
 窯は何基ぐらいか、またどれくらいの期間続くのでしょうか。
 須恵器の量からみると、窯は1、2基でしょう。また形の変化が少ないため、操業期間は短いとみています。
水野  窯は、渡来人がきて自由に築いたんでしょうか。
 そうとは考えづらい。
 5世紀後半ごろの渡来人の技術は王権に管理されており、泉北の陶邑という窯から、列島各地に技術が輸出されて、窯が作られました。
 茄子作・上の山の窯も陶邑で技術が確立し、その後作られたものと考えます。必要のある場所にいち早く王権が須恵器の生産・技術を確立したというふうに考えています。
 
森遺跡の鍛冶生産

 森遺跡で見つかった土坑の中には、お墓らしいものがありました。
 森遺跡の北東には5世紀に車塚古墳群が築かれ、森遺跡にとても近い場所であることと、鍛冶生産が始まるのと同じころに造り始められたことから、森遺跡の鍛冶生産と関係の深い人が葬られていると考えられます。 
 また、人型埴輪に表現された職業とはなんでしょうか。

水野  鍛冶集団のお墓はどうなっているのでしょうか。
和田  5世紀には鍛冶を支配したと考えられる首長の古墳に副葬された鍛冶具があります。
 6世紀には直接生産に携わったと思われる人の古墳に、鉄滓(鍛冶で出る鉄くず)を入れるものが多くなっています。
真鍋

 森遺跡の土坑にお墓らしいものがありますが、お墓では鉄滓はみつかっていません。
 森遺跡近くの車塚古墳群の中の円墳には鍛冶の親方のお墓があるのではと考えています。

 

水野  鍛冶職人といえば、力士や鷹匠の人物埴輪はあるのに、鍛冶職人はありません。なぜでしょうか。
和田  一般的な生産関係の事は埴輪にならないようですね。後の宮廷儀礼で特別な意味を持つ行為が、人物埴輪に表現されたのかもしれません。
 
交野の首長はどこにいったのか?

 6世紀には上私部の集落は拡大し、森遺跡の鍛冶などの生産基盤も安定していますが、交野では大きな古墳は造られなくなります。それまで大きな古墳を築いてきた首長はどうなったのでしょうか。

水野  5世紀後半ごろに作られた大畑古墳のあと、交野では、首長の墓である前方後円墳はなくなりますが、集落は拡大し、鉄や米は作り続けます。
 集落を治める首長はどうなったのでしょうか。
和田  考古学で証明することは難しいですが、中央政権に組み入れられると首長自身の権力が弱体化し、地方の行政官のようになっていきます。
 前方後円墳は造られなくなり、寺古墳群や倉治古墳群などの小さな円墳からなる群集墳の中に入っていったか、政権の中心の奈良盆地へ出たのかもしれません。
 
交野市域の開発の歴史

 市内を横断する大規模な調査により、現在の交野の景観が形作られる過程を知る手がかりが多く得られました。
 私部南遺跡では紀元前6世紀ごろ、朝鮮半島に起源を持つ「松菊里型住居」が造られ、水田稲作を行う弥生文化が伝わってきます。弥生時代から中世の有池遺跡まで交野市域の開発の過程について意見が交わされました。

水野  松菊里型住居は私部南遺跡以降は見つかってないんですか。
三好  見つかっていません。
水野  一般の竪穴式住居の中に埋もれていくんですね。
 では、私部南遺跡の水田の変化はどうですか。
三好  集落ができた弥生時代のころと同じように、小さな区画の水田が続き、大きな変化は起きていません。
水野  弥生時代になって、新しい文化が入ってきた後は、あまり変化がありません。なぜでしょうか。
三好  弥生時代の水田はせまい谷に作られているので、開発の余地がなかったからかもしれません。
水野  台地上へ開発が及ぶのはいつごろでしょうか。
若林  調査により、上私部遺跡と有池遺跡が台地上の遺跡だとわかりました。
 上私部遺跡は土中の花粉の種類や量により照葉樹林が生い茂る台地が切り開かれたことがわかりました。
 有池遺跡では、11世紀後半から12世紀に小さな集落ができて、それが14世紀ぐらいに密集して大きくなる状況が確認されています。
 
 今回の調査・研究の成果の報告により、古墳時代の交野に暮らした人々の実態を鮮明に知ることができました。
 なお、シンポジウムでとりあげられた遺跡の報告書などは倉治図書館2階の郷土資料コーナーなどで閲覧できます。
 

第二京阪道路関連遺跡出土遺物展示会(後期)

と き 12月2日(水)〜3月28日(日)午前10時〜午後5時(月・火曜日、祝日は休館)
ところ 歴史民俗資料展示室
内 容 私部南・上の山遺跡から出土した遺物の展示 
問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)

 

大阪ミュージアム構想

 大阪府と府内の市町村は、大阪のまち全体を「ミュージアム」(美術館や博物館)として、各地の魅力的な地域資源を「展示品」や「館内催し」に見立て、大阪の魅力アップを図る「大阪ミュージアム」構想を推進しています。
 交野市では、「教育文化会館」以外にも「私部代官屋敷周辺のまちなみ」「交野山と信仰の道」「交野が原と七夕まつり」など16件が、現在登録されています。
■大阪ミュージアムホームページ http://www.osaka-museum.jp/index.html

 

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