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広報 かたの 特集シリーズ


広報かたの 平成22年1月1日号
発掘!発見!緑立つ道

今月のテーマ 列品解説4「私部南遺跡の出土遺物(その1) 」

文化財事業団(TEL893・8111)

問い合わせ (財)大阪府文化財センター京阪調査事務所(TEL895・1200 〒576−0022 交野市藤が尾1−2)

 
今月から、第二京阪道路関連遺跡出土遺物展示会(後期)に展示されている遺物について説明します。
 
私部南遺跡

私部南遺跡の発掘調査で出土した縄文から弥生時代の土器や石器を紹介します。

縄文時代
今回の調査では、縄文時代中期の終わり頃から後期の初め(約4000年前)の土器がいくつかまとまって見つかりました。その中でほぼ全形が分かるものを展示しています。
 土器の表面には、ヘラ状の道具で曲線を描き、その内側などの各所に縄文を付けた躍動感あふれる文様が全体に施されています。
 

縄文土器

縄文土器

     
また、今回の調査では、土器以外に注目される2つの石材が見つかりました。  
 その一つが、黒いガラスのかけらのようにも見える黒曜石です。この石材は非常に鋭く割れる特徴をもつため、道具として重宝がられましたが、長野県や佐賀県、北海道など産地が限られているため、近畿地方ではほとんど見つかりません。
 今回見つかった黒曜石は透明度や材質から長野県産のものと考えられ、当時の人々の交流を物語る非常に貴重な資料となりました。
 もう一つは、白い長方形の石です。右の写真では分かりにくいですが、目を凝らして見ると、わずかに緑色をした部分があり、表面を磨いた跡があります。この石の正体はヒスイです。
 ヒスイの産地は新潟県や鳥取県、長崎県など国内でも数か所ですが、今回発見されたヒスイは緑色の部分は少ないものの、その中でも最も品質の良い新潟県産のものと分かりました。
 当時、ヒスイは最高級の装身具や、お祭りの道具として特別に扱われており、限られた遺跡で、ほんのわずかしか見つかりません。それが産地から遠く離れた交野の地で出てきたことは、調査を担当した私たちにも大きな驚きを与えました。
 2つの石材の発見から、当時の人々の活動範囲が私たちの想像を大きく越えていたことを知ることのできる貴重な資料と言えるでしょう。
 なお、少量ながら、この時期以降の縄文時代後期や晩期(約2800年前)の土器も見つかっているため、非常に長い間この地域に人々が暮していたことがうかがえます。
 

ヒスイと黒曜石

ヒスイと黒曜石

 
弥生時代
この時代は列島内で本格的な稲作が開始され、私部南遺跡でも弥生時代前期段階以降、各時期の土器や石器がみつかりました。中でも前期の土器が交野市域でこれほど大量に見つかったのは、初めてのことです。
 これらの土器は、縄文時代とは異なり、ヘラ状の道具で沈線というまっすぐな細い溝を描いたり、ひも状の粘土帯を何条もめぐらせたりという直線的で簡素な文様が施されています。
 このような特徴は瀬戸内からさらに西の北部九州とも共通していることから、弥生土器をたずさえてこの地にやってきた人々の遠い足跡をたどることができます。
 

弥生土器

弥生土器

     
また、この時代を象徴する石庖丁のほか、市内では初めて当時の鋤や鍬などの木製農耕具が見つかりました。現在、保存処理中のため展示することができませんが、これらの中には現在使われているものとほとんど同じ形をしているものもあり、当時の技術の高さを示しています。
 また、農耕具以外にも、石棒と呼ばれるお祭りに用いた石製品も見つかりました。
 実はこの石棒は、縄文時代を代表する石器の一つです。しかし、まれに弥生時代の初めごろの遺跡からも見つかることがあります。
 このことは、海外から伝わった本格的な稲作文化という当時の最先端技術を受け入れながらも、お祭りなどは国内に縄文時代から伝わる伝統を色濃く残した行事が行われていたことを表しており、双方の文化が交じり合う当時の世相を表しています。
 

石棒

石棒

     

 弥生時代中期になると、土器の文様に、これまで一本ずつ引いていた沈線を、櫛状に束ねた工具で一気に描く、櫛描文(くしがきもん)と呼ばれる文様が出現します。
 右の写真の櫛描文は初期のものですが、時代が新しくなるにつれて、文様の種類にも波状や扇形のもの、さらに簾状のものなどさまざまな工夫が施されています。交野を含む河内地域を中心とする付近一帯は、全国でも最も華麗な文様を施す土器の製作地として大変有名です。
 このころには、私部南遺跡以外に上の山遺跡でもお墓や住居が作られ、張り出した屋根を支える独立棟持柱を持つ大形掘立柱建物は、一般的な掘立柱建物と異なる特殊な構造を持ち、非常に大きい点で注目されるものです。
 さらに時代の進んだ後期の段階になると、土器にほとんど文様が施されなくなります。この時代の土器は私部南遺跡から少数見つかるのみで、住居の跡などもありません。
 このすぐ後の時代には邪馬台国が成立したとされ、その前には人々が争い合う時期があったともいわれています。ひょっとすると、交野の地もこの混乱に巻き込まれたのかもしれません。

 

弥生土器(櫛描文)

弥生土器(櫛描文)

 
 

第二京阪道路関連遺跡出土遺物展示会(後期)

と き 12月2日(水)〜3月28日(日)午前10時〜午後5時(月・火曜日、祝日は休館)
ところ 歴史民俗資料展示室
内 容 私部南・上の山遺跡および交野市・古文化同好会により過去に調査された遺跡から出土した遺物の展示 
問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)

 

大阪ミュージアム構想

 大阪府と府内の市町村は、大阪のまち全体を「ミュージアム」(美術館や博物館)として、各地の魅力的な地域資源を「展示品」や「館内催し」に見立て、大阪の魅力アップを図る「大阪ミュージアム」構想を推進しています。
 交野市では、「教育文化会館」以外にも「私部代官屋敷周辺のまちなみ」「交野山と信仰の道」「交野が原と七夕まつり」など16件が、現在登録されています。
■大阪ミュージアムホームページ http://www.osaka-museum.jp/index.html

 

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