[ホームページ] へ戻る

広報 かたの 特集シリーズ

歴史民俗資料展示室へようこそ かたの歴史探訪
ー倉治古墳群ー

 市内からは、多くの古墳が発見されており、交野の歴史を紹介する上で、古墳は最も重要なものの一つです。
 今回は、その古墳の中から「倉治古墳群」をテーマにしたいと思います。

倉治古墳群出土遺物
 歴史民俗資料展示室に入ると、すぐ左側に先月号で紹介した大きなジオラマがあります。その右奥にある4つのケースに装身具、鉄鏃(鉄の矢尻)、鉄剣、馬具などの副葬品。その右の壁側にあるケースには土器。壁面には解読板や写真が展示されています。
 これらは、東倉治にあった「倉治古墳群」から出土したもので、古代交野の渡来系文化を考える上で、非常に重要な古墳群です。そのため、平成12年4月に、一括して市の文化財に指定されました。


倉治古墳群出土遺物展示コーナー
(手前は古墳時代の暮らしのジオラマ)


古墳と考えられていた丸山
古墳群の発見 関西電力変電所用地から
 戦後まもない昭和26年(1951年)、東倉治で関西電力(当時は日本発送電M)枚方変電所の建設工事が始まりました。
 この変電所用地内には通称「丸山」と呼ばれる小山がありました。当時、四條畷高校の教諭で戦前から考古学に熱心だった片山長三さんは、この小山が古墳ではないかと疑問に思っていたので、関西電力に変電所用地を十分に調査してから工事をしてほしい旨を伝えました。その結果、丸山自体は古墳ではなかったのですが、変電所用地から8基の古墳が発見されました。
 もし、発見が現在であれば「交野で8基の後期古墳発見」などの見出しで新聞に紹介され、現地説明会などで、多くの考古ファンたちでにぎわったことでしょう。

交野郷土史家の誕生
 少し余談になりますが、倉治古墳群が発見された当時、枚方変電所に勤務していた奥野平次さんは、古墳発見を機に、片山長三さんと出会い、その後、共に交野初の郷土史家として歩み、多大な功績を残すことになります。交野の郷土史に興味がある人なら、その足跡をご存じの人も多いのではないでしょうか。

片山さん(左)と奥野さん(右)
(郷土出版社「目で見る枚方・交野の100年)

古墳群の特色 親子で葬られた古墳群?
 倉治古墳群の石室形態は、8基すべてが明確な羨道(棺を納めている部屋に至る道)を持たないもので、「竪穴系横穴式石室」とも呼ばれています。これは朝鮮半島南部の石室の形態に似ている珍しいものです。
 古墳の造営時期は、出土遺物から6世紀中葉から7世紀までと推定されます。
 古墳の配置については、2基ずつ隣り合って作られていて、この2基が作られた時期は約1世代(約30年)の時期差が見られます。隣り合った古墳は、朝鮮半島出身者が親子で葬られた可能性が高いのです。

古墳塚 古代の人の魂を慰める
 倉治古墳群からは、多数の人骨が出土しました。そのため、昭和33年に、関西電力は取り壊された古墳の跡や、倉治一帯を見渡せる高台に古墳塚を作り、古墳に葬られた人たちの骨を埋葬しました。
 それからは、毎年秋に、枚方変電所で「古墳祭り」を催し、先祖の霊を慰め、変電所の無事故と市民の幸せを祈る祭りが続いています。
 この塚の北側にある「心」という字に並べた石は、古墳の石が使われています。

清水谷古墳と幻の古墳
 古墳塚の北に、倉治古墳群と同様に朝鮮半島系の古墳である清水谷古墳があります。
 さらに、倉治古墳群の南、倉治公園東の住宅の中(当時は交野中学校の敷地内)に何基か古墳が存在していたことが分かっていますが、開発の波に押し流されて、現在は1枚の写真が残っているのみの、幻の古墳になっています。

 以前、歴史民俗資料展示室を見学し、「がむしゃらに先を見つめて生きてきた者にとって、年をとると不思議にあとを振りかえり、遠い昔まで気になり興味を呼ぶものではないでしょうか」と、しみじみと述べた人がいました。
 みなさんも、展示室でふるさと交野の昔に思いをはせてみませんか。

歴史民俗資料展示室 ボランティア解説員 中角甫


旧交野中学校内にあった古墳の石
(私市・平田政信さん提供)

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)

TOPへ戻る