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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成22年5月1日号

 
私部地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」、第2回は私部地区です。この地名には古い由緒があり、もとは「きさきべ」と読みました。「きさき」とは皇后のことで「きさきべ」は皇后に仕える人々を指し、それが転じて、きさきべの土地という意味にもなりました。今も、昔の町並みを残す地区と、市役所や交野市駅など新しい市街地区が融合した、交野の中心地となっています。

 光通寺は、南北朝時代に赤松則村が建て、著名な僧、別峯が寺に入り開山となったと伝えられている寺です。
 室町時代には、交野の山間部の領地権を巡って、石清水八幡宮と争いを起こすほど、大きな勢力を誇っていたようです。
 また、室町時代後期から江戸時代初期にかけては、光通寺から毎年朝廷にお茶を献上していたことが「お湯殿の上の日記」という書物に記載されています。このことを裏付けるように、光通寺には、女房奉書(朝廷からの礼状)が残されています。
 江戸時代では、享和元年(1801年)に刊行された「河内名所図会」に「光通寺 私部村にあり。長寿山と号す。禅宗。本尊如意輪観音 座像。開基、別峯和尚。南朝、後村上院の勅願所なり。」とあり、交野の名所となっていました。


住吉神社の大鳥居
 住吉神社は、私部の氏神さまで、戎祭・秋祭りなど行事のたびに多くの参拝者でにぎわっています。ここを訪れる参拝者がまずくぐるのが入口にある大鳥居です。  
 この鳥居は、万延元年(1860年)に造られ、高さ7・27メートル、幅6・67メートルもあり、交野では最大のものです。
 この鳥居ができる5年前、安政2年(1855年)9月に大きな地震があり、前の鳥居は建ててわずか30年しか経っていませんでしたが、無残にも崩壊してしまいました。人々は悲しみに暮れたものの、鳥居の再建にあたっては、より大きなものを計画しました。
 私部集落の東、奈良県へと抜ける郡山街道の中で、最も急カーブで傾斜の大きい場所「大曲」を少し上がると、「鳥居谷」と呼ばれる場所があり、採石跡も残っています。ここから鳥居の原石を切り出しました。
 傾斜のきつい坂道や、北川の土手沿いの道を開き、修羅と呼ばれる台に石を載せ、2〜300人を超える村中の男たちがはっぴ姿で、音頭取りの掛け声にあわせて10センチ、20センチと少しずつ綱を引っ張り、住吉神社までの3キロの道のりを運びました。
 そんな時に力仕事の糧となったのが、つくね飯(おにぎり)でした。機械のない全て人力の時代、石切から棟上げまでに4か月近くかかったと思われます。

 軍書読みとは保元物語や平家物語などの軍記を琵琶法師がふしをつけて聞かせるものです。19世紀のはじめごろ、無量光寺の軍書読みは有名で、多くの人々が集まったといいます。
 無量光寺は、慶安3年(1650年)、本願寺へ本尊となる木仏の安置を願いでました。ところが、下げ渡された木仏の札には「無量寺」と記されていました。そのまま「無量寺」の名をいただくわけにはいかず、改めてもらうように願い出ました。
 しかし本願寺としては第十三世門主の良如上人が筆にした寺号であり、4文字の寺号はあまり見受けられないことなどからなかなか認められませんでした。
 それでも無量光寺と私部村の人々は諦めずに何度も繰り返し「無量光寺」の寺号の正当性を訴え続け、ついに寛文2年(1662年)本願寺に認められ、「無量光寺」の寺号御免の一札が出されることとなりました。

 私部城は、別名交野城と呼びます。交野郵便局東側の台地に、戦国時代の平城の跡が残っています。
 この城の主は安見右近という人物で、奈良興福寺多聞院代々の僧侶によって書き記された「多聞院日記」には元亀2年(1571年)5月12日の条に「久秀父子カタノへ出陣了、安見右近城雖責之不落之由也、如何」とあります。
 久秀とは、大和の戦国武将、松永久秀のことで、このころ、松永勢によって、私部城は攻められるものの、なかなか落ちないがどうしてだろう?といった内容です。
 城の主がその後どのような運命をたどり、この城がどのように落城していったかについては諸説があり、明確ではありません。
 その後の「信長公記」の中に、天正3年(1576年)河内国中の城を破却したとあり、私部城は織田信長によって廃城になったことがうかがえます。

 私部に、江戸時代の旗本畠山家の代官をつとめた北田家住宅があります。
 旗本畠山家は、私部村に1千石あまりを有しており、北田家はその畠山領の庄屋および代官を、江戸時代後期まで勤めていました。
 北田家のルーツは家系図によれば、元々は南朝の北畠家に縁がありました。南北朝合一後、世をはばかって、「畠」から白を抜いて「田」とし、北田を名乗ったとなっています。
 北田家住宅には、約4000平方メートルの敷地内に主屋・表門・乾蔵・北蔵などがあり、国指定の重要文化財となっています。
 北田家住宅でもっとも特徴的なのが、かるたに読まれている表門(門長屋)です。55・8メートルの長さを誇る門長屋は、民家としては日本最長です。高さも2・6メートルあり、馬に乗ったまま出入りができると言われたほどです。

 広報紙での交野郷土史かるたの紹介とあわせて、かるた札にちなんだ史跡などへの見学会を行います。歴史解説ボランティアと一緒に、市内の歴史散策に出かけてみませんか。
と き 6月25日(金)午前9時30分〜正午
コース 私部地区・交野市駅 → 私部城跡→ 光通寺→無量光寺→北田家住宅→住吉神社(私部)
※北田家住宅の内部は見学しません。
定 員 先着30人
参加費 100円(資料代・保険代)
申し込み・問い合せ 5月20日(木)午前9時から文化財事業団(TEL893・8111)

 

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)


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