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私市地区編 |
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交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第3回は私市地区です。 5月号で私部の名前の由緒について紹介しましたが、私市の地名も私部と同様に、皇后に仕える人々「きさきべ」から生まれました。「きさきべ」が「きさいちべ」と変化し、それがさらに、「きさいち」になったといわれています。
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若宮神社は私市地区の氏神で、私市会館の北側にあります。 ところが、私市にはもう1つの氏神、天田神社があります。両社はともに、海の神・航海の神とされる住吉の神々を主神として祀っています。 なぜ同じ神を祀る神社が私市には2社あるのでしょうか。 「交野町史」によれば、18世紀の初頭に星田・私市村と、奈良県の田原・南田原村が磐船神社を総社としていました。 しかし、交野の村々の氏子が少なくなったため、両者の間に宮座争い(氏子グループ間の勢力争い)が起こり、解決せず物別れに終わりました。 その後、それぞれの村が磐船神社の分霊(これがこの当時は住吉の神々でした)を連れ帰り、立派な社を建てて住吉神を祀りました。 私市村にはすでに天田神社があり住吉神を祀っていましたが、田原から来る人に立派な社を見せるために、新たに村の南側に建てた神社が若宮神社です。 中世には、住吉信仰が流行し、交野の村々でも、祭神を住吉の神々に変更する神社が数多く出てきました。 現在も市内で住吉神を祀る神社は、郡津神社・住吉神社(寺地区)・住吉神社(私部地区)・天田神社・若宮神社・磐船神社・星田神社の7社があります。 |
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月秀山とは、私市の松宝寺の山号です。この寺は、眺望もひらけ、昔から月見に最適と言われたため、この山号となったといわれています。 「交野町史」によれば、鎌倉時代から室町時代にかけて、獅子窟寺には十二院の末寺があり、その中に松宝院の名があることから、松宝寺は獅子窟寺の末寺の1つで、大坂夏の陣で焼き払われたものが江戸時代に再興され、現在の松宝寺となったとしています。 境内には南北朝時代に造られた十三重の塔があり、これは私市にある廃千手寺から移転されたといわれています。 千手寺も獅子窟寺の末寺の1つであることから、塔の移転が行われたのかもしれません。そんな松宝寺ですが、宗派も変わり現在では、獅子窟寺とは無関係になっています。 明治になって、森地区にある須弥寺の第26代住職の豊原大賢が発起人となり、北河内の寺院巡礼組合をつくり、寺院三十三か所とそれらの寺院を参拝するための宿所を記した木版画を発刊しました。この中に「廿番松宝寺」とあり、各地からの参拝者があったことをうかがわせます。
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如意輪観音坐像 |
聖観音立像 |
河内森駅から西側へ自転車駐輪所を左手に見ながら坂をおりて、私市の集落に入っていくと、小さな三角公園があります。今は廃寺となってしまいましたが、ここに千手寺がありました。 今はこの場所に、廃千手寺収蔵庫があり、市指定文化財の聖観音立像と如意輪観音坐像をはじめ、千手寺と私市の廃蓮華寺の仏像などが収蔵されています。 土地に残る伝承では、鎌倉時代の後期に亀山上皇が病気になり、獅子窟寺の薬師如来坐像が霊験あらたかであることを熊野権現の霊告により聞きつけ、獅子窟寺に登るための仮の宿所としたのが千手寺の始まりと伝えられています。 「交野町史」によれば、この付近を「院田」というのは亀山上皇の寄進した寺領田という意味であろう、としています。
しかし、千手寺の聖観音立像は平安時代後期のもので、亀山上皇の時代より200年ほども古い仏像です。
しかもこの仏像はその素朴な作風から、私市地区で造像された可能性が高いということです。 もしかすると、亀山上皇の宿所とする前から、千手寺は私市の人々にとって大切な寺であったのかもしれません。
あるいは、私市の他の寺院にあったこの聖観音立像を、亀山上皇行宮という由緒により、千手寺に遷座してきたのでしょうか。今のところ、いろいろと想像を巡らせることしかできません。 また、もう一つの市指定文化財である、如意輪観音坐像は室町時代の作で、もっとも特徴的なことは、その特殊な木寄せです。 頭体を別材として、玉眼をはめる寄木造りですが、体の部分はほとんど1本の桧の木から彫り出して、左の3本目の腕までも同じ木から彫り出しています。 想像するに、由緒のある神聖な料材を用い、あえて主要部をその一材から彫成し、さらに木の神聖さを示すために、木材の風合いを生かす素地仕上げとしたのでしょう。
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