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森・私市地区編 |
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交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第5回は、森地区と私市地区の天田神社・獅子窟寺です。 森地区は、私市地区と同様に石清水八幡宮と深いつながりを持っています。石清水八幡宮に残る古文書には、平安時代に石清水八幡宮荘園「交野郡三宅山」と記載があり、森地区の古文書によると、森地区の人々は、この三宅山を守るために交野へやってきたとなっています。
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江戸時代に作成された「須弥寺縁起」によれば、「星田新宮山八幡宮に派遣された神主の森宮内少輔は延久年間(1069年ころ)、石清水八幡宮から迎えられた警固観音を祀る観音堂を再興しました。そこで、村の人たちはこれまで無垢根といっていたこの里を森の里と呼ぶようになった」とあります。 あくまでも、江戸時代にできた縁起文なので、このことが事実なのかわかりませんが、森地区と石清水八幡宮のつながりがうかがえます。 |
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天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。 この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。 「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。 しかし、まだ奈良時代にもならない古い時代のことで、あくまで言い伝えによるものであり、これもまたどこまでが史実なのかよくわからないのです。 平安時代に作成された「類聚三代格」という法令集によれば、弘仁12年(821年)には交野郡の土地は、地味が痩せているため、農民に分け与える耕作地を通常の倍にする措置がとられており、交野郡全体のことでいうと、あまり良い耕作地とはいえなかったようです。 |
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薬師如来坐像 |
獅子窟寺は、私市の集落から東、山の中腹にあり、真言宗高野山派に属しています。 本尊の薬師如来坐像は、弘仁期(810〜824年)の作といわれ、ヒノキ材の木彫りで、すぐれた刀痕をその眉などに残し、豊かな容姿は木彫像の技巧の頂点に達したものといわれており、大阪府内で4点しかない国宝の仏像の一つです。
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獅子窟寺の参道を登っていくと道沿いに仁王門跡と呼ばれるところがあります。 ここから山道を左に折れる道へと進むと、それまでの山道から急に広場にでます。 この一帯は百重が原と呼ばれるところで、獅子窟寺歴代僧の眠る墓所となっています。 その広場から更に奥へと進むと、周囲より一段高く石組みされた方形の土地の上に、2つの石塔が並んでいるのが確認できます。 この石塔が「王の墓」と呼ばれる塔で、亀山上皇とその后の供養塔とも伝えられているものです。 亀山上皇は、獅子窟寺の薬師如来に持病の治癒祈願に訪れたところ、その病が平癒したので喜んで寺の再建を行ったといいます。 そのため、上皇が亡くなった後、上皇の徳を偲んで供養塔が建てられたのだと、後に江戸時代の書物「河内名所図会」で紹介されています。 実はこの石塔は、もともとは五つの石が組み合わさった五輪塔と呼ばれる供養塔であったと考えられます。 五輪塔は、仏教の思想における地・水・火・風・空という万物を構成する五大要素を形どったものですが、王の墓の石塔は、丸い形をした水輪にあたる石が2基とも無くなっています。 なぜ、水輪が無いのか、王の墓のミステリーといえましょう。 |
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広報紙での交野郷土史かるたの紹介とあわせて、かるた札にちなんだ史跡などへの見学会を行います。歴史解説ボランティアと一緒に、市内の歴史散策に出掛けてみませんか。 と き 9月24日(金)午前9時30分〜正午 コース 河内森駅
→天田神社→
獅子窟寺→河内森駅 定 員 先着30人 参加費 100円(保険代) 申し込み・問い合わせ 8月20日(金)午前9時から、文化財事業団(TEL893・8111)
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