[ホームページ] へ戻る

広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成22年11月1日号


 
番外編其之三
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第9回は、酒造りや山林の管理など、交野の生活に関わる話を集めました。



 江戸時代には、米が通貨の役目を担っていました。
各大名の所領や村などは、米の生産量を表す石高でその規模を表し、武士の給料も石高で決まっていたため、米の取り扱いは厳重なものでした。
酒造りは、大量の米を使うため、常に食糧の供給と競合する面があります。不作で飢饉が続くときには、酒造りに多くの米を使うことはできません。
しかし、豊作が続いて米が余るときには、酒に加工した方が貯蔵にも便利であるし、上方や江戸に運搬するのも簡単でした。
幕府がその時々の食糧事情によって米の流通量を調整するため、酒造りは厳しく統制されていました。
江戸時代を通じて、酒造制限令が61回、酒造奨励令が6回発せられましたので、基本的には酒造りは制限されていました。
しかし、酒造りの米価の調節機能とともに、酒蔵からの税収は貴重な財源であり、幕府も酒造りは無視できません。また、東北や北陸の北国では、酒はぜいたく品ではなく、身体を温める必需品であったので、まったく酒造りを禁じるということはありませんでした。
交野でも、酒造統制は行われ、天明8年(1788年)には、私部村の酒造人の理右衛門が大坂町奉行所からのお達しにより、酒造高を三分の一にしました。さらに、酒造りの桶などを庄屋に預け、決められた量以上の酒を造らないようにしていました。
天保年間は全国的な凶作で米不足となり、それが大きな原因となって、天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱がおこりました。
そんな時代にもかかわらず、許された量以上の酒を造ったとして、天保11年(1840年)に、郡津村から2人、私部村から8人、春日・寺・茄子作・長尾の村から各1人の酒造人が召し捕えられました。



 天明8年(1788年)に、星田村在住の吉田屋藤七という人が、交野の砂防について、淀川筋の大坂土砂留奉行に上申書を出しました。 
 上申書には、砂防についての藤七の意見が事細かに記されています。
 その内容は「まず、川筋にあたる山々の下草刈りや落ち葉かきを差し止め、土砂を出しているはげ山には毎年植林させる。さらに、水源から谷の出口までの要所に土砂を止める堰堤を造れば、年々樹木が成長するにつれ、自然に土砂の流出は止まる。土砂の流出が止まれば、川床をさらえなくても、自然に掘れて深くなる」としています。
 藤七は、奉行所からの下問に答えて、再び上申書を提出していますので、藤七の上申書が奉行所を動かしたことが分かります。
 二度目の上申書では、林野管理が荒廃と密接に関連することを指摘しています。
 また、藤七は、技術的な専門知識に優れているだけでなく、下草刈りや落ち葉かきをしている人々への配慮も忘れませんでした。
 下草刈りなどをしている人々は、ほとんどが貧しい農民で、落ち葉かきなどを生計の助けにしているので、上申書の通りこれを禁止してしまえば、たちまち生活が困窮してしまいます。
 そこで、そうした人々に下草刈りなどをしても土砂が流出しない場所を教え、そこから薪や柴をとらせるようにして、さらに砂防工事には貧しい小農民を雇えばよいと述べています。
 また、砂防工事を直接指導する者は、地元の役人を命ずるべきことや、奉行所の上役の巡視は形式的で、住民にとって迷惑であり、工事にも有害であることをやんわりと指摘しています。
 しかし、藤七の上申書の内容は奉行所で取り上げられたにも関わらず実行されず、交野の山では土砂の流出が続いていたようです。
 右の星田村絵図では、絵図の左上部分の山々がはげ山となっています。
 明治15年(1882年)の「山林共進会報告」は、交野の山間部の様子を「山林少なくして、貧民多きが故に、他に薪炭を買求し田園の肥糞をあがなう力なく、ついには他人所有の山林に入りて盗伐をなし、あるいは落葉をかきて、もって炊煙の料にあて、あるいは下草を刈りて耕肥の資をなすの所業あり。あるいは不意の焼失(山火事)あるにしたがい、漸時山林の養分を欠き、土砂の覆蔽を失うにより、ついに現今夥多のはげ山を現出するに至れり。」としています。
 つまり住民が生活に困り、下草や落葉を採りすぎたことが一つの原因となって、治山治水事業にも大きな影響を及ぼしていました。
 今のように、木々で覆われた交野の山が現れたのは、ここ百年ほどのことです。



 交野は京都と大阪の中間に位置し、昔から双方の文化的影響を受けています。
たとえば、森遺跡から出土した平安時代の土器は、京都でよく使用されていたもので、京都との盛んな往来が想像できます。
また、大阪とのつながりは、江戸時代の河内国が大坂町奉行所の管轄となり、加えて、交野の各村領主の蔵屋敷が大坂にあったことから、役人をはじめ、多くの人が公私にわたり往来していた記録が、日記や役所からの召喚状などの古文書に見受けられます。
五里とは約20`ほどの距離で、昔の人にとって、交野から大阪や京都は、徒歩で日帰り往復できる近さでした。
近代になり、京都・大阪と交野を結ぶ便利な交通手段として、鉄道ができました。
まず、明治31年(1898年)に関西鉄道株式会社が四條畷・長尾間の営業を始めました。片町・四條畷間は先に開通していたので、これで大阪の中心部まで鉄道を使って行けるようになりました。
これが今の学研都市線(片町線)の前身です。
昭和4年(1929年)には、信貴生駒電鉄が枚方東口・私市間の営業を開始します。
その後、昭和20年(1945年)には、信貴生駒電鉄は京阪神急行(現京阪電鉄)と合併し、枚方東口・私市間の路線は、交野線と改称し、現在にいたっています。
 
 


 広報紙での交野郷土史かるたの紹介とあわせて、かるた札にちなんだ史跡などへの見学会を行います。歴史解説ボランティアと一緒に、市内の歴史散策に出掛けてみませんか。
と き 11月26日(金)午前9時30分〜正午
コース 郡津駅→明遍寺→郡津神社→機物神社
定 員 先着30人
参加費 100円(保険代)
申し込み・問い合わせ 10月20日(水)午前9時から、文化財事業団(TEL893・8111)
 

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)


TOPへ戻る