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広報 かたの 特集シリーズ

 
神宮寺地区編
 
 交野市古文化同好会が、平成20年に交野郷土史かるたの改訂版を発刊しました。改定内容は、昭和53年に刊行したかるたの絵札をそのままに、読み札と解説文の一部に、最近分かってきた史実を加えています。
 今月から、かるた札を地域別に紹介しながら、交野の名所・歴史を解説します。
  第1回目は、神宮寺地区です。



神宮寺地区は交野で非常に古い時代から、人間が住んでいたことが確認されている地区です。
 神宮寺遺跡からは昭和29年から30年にかけて、縄文時代の石の矢じり破片が発見されました。
 その後、この遺跡からは、後期旧石器時代を代表する石器を含む石器が発見されていますが、主に地表から確認できる範囲での調査であったことや、この時代に関連する物が今のところ見つかっていないため、具体的な遺跡の性格はわかっていません。
 神宮寺遺跡のイメージがつかめるのは、縄文時代に入ってからです。建物跡は発見されていないものの、木炭や灰のつまった炉跡が5つ、多数の小石が詰め込まれた穴が1つ見つかっています。炉の中には、3つの石が組まれ、円すいを逆さにした形の土器を据えて煮炊きものをしたと考えられるような遺構もあります。










 かるたに登場する土器は尖底土器といい、神宮寺遺跡からも破片がたくさん見つかっています。
 また遺跡からは、表面に楕円形・斜格子目文・特殊菱形文・市松文などの模様がつけられている土器が出てきました。この模様が入った土器は、発見当時は全国に同様のものが発見されていなかったため、初めて発見された地名をとって、「神宮寺式土器」と名付けられました。現在は縄文時代早期を代表する土器のひとつとして、全国的に有名です。
 縄文時代は、河内平野の大部分が海であったころであり、標高60〜70・の高台の神宮寺から眺める景色は現在の風景とは全く異なるものであったでしょう。


  
                                 神宮寺式土器欠片



 昭和29年に神宮寺で天平時代(7世紀の終わりから8世紀の中ごろ)の礎石が発見され、古代の交野に大きな寺が栄えていたことが確認できました。
 これまで、この礎石の見つかった寺については、嘉吉元年(1441年)に作成されたとする「興福寺官務牒疎」という書物に河内交野郡の開元寺の記述があることから、天平時代に開創された開元寺とされていました。
 しかし、この「興福寺官務牒疎」については、最近の研究で、江戸時代に作成された偽文書である可能性が高く、その内容についても信ぴょう性が疑われています。
 ただし、江戸時代には、開元寺という天台宗の寺院が源氏の滝の口にあり、明治時代に廃寺となったことは様々な資料で確認できます。
 もしかすると、「興福寺官務牒疎」は、この江戸時代の開元寺からさかのぼって天平時代の寺院を開元寺としたのかもしれません。

   

 また、交野山上に、岩倉開元寺という寺があったとされています。これは、平安時代に交野山上に大きな寺院が栄えたことから、「興福寺官務牒疎」に書かれている開元寺が交野山上に移り、岩倉開元寺となったとされていますが、開元寺自体の信ぴょう性が疑われているため、これも詳しいことは分かっていません。
 岩倉開元寺は、発掘調査によって、鎌倉・室町時代に二度火災に遭ったことが分かっており、この火災のため、衰亡していったと推測されます。
 岩倉開元寺に続く参道には様々な石仏が造られています。これが石仏の道で、鎌倉から室町時代にかけての石仏群5点が市指定文化財となっています。
 開元寺という名称は別として、神宮寺に天平時代創建と推定される寺院があり、交野山には鎌倉・室町時代に、山岳仏教寺院があったことは事実です。これからの調査研究で寺院名も明らかになっていくことが期待されます。
 発見された礎石は現在、教育文化会館の前に置かれています。


 交野山麓の断層が、流水の侵食作用を受けて滝となったのが、源氏の滝です。
 享和元年(1801年)に編纂された「河内名所図会」に開元寺にあった滝なので「元寺の滝」と名付けられたと記されています。
 また、その落下する姿が白旗のごとく美しかったので、源氏の白旗になぞらえて「源氏の滝」となったとも伝えられています。
 宝形造りとは、隅っこの棟が中央に集まる形式の屋根のことで、滝そばにある宝形造りの小堂は江戸時代からの滝の籠り堂です。

   
 明治36年京都・妙心寺の末寺・宜春院を移し、それまでの本堂を不動堂としました。
 昭和の初期には「滝の不動さん」あるいは、不動像が焼けていることから「焼け不動」といって親しまれ、訪れる人の多い交野の名所となりました。
       
                     宜春院

 交野郷土史かるたは、文化財事業団事務所と、教育文化会館で1部1000円で販売しています。
 家族で、友人同士でかるた取り遊びをしながら、故郷交野の歴史について再発見してください。
私部地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」、第2回は私部地区です。この地名には古い由緒があり、もとは「きさきべ」と読みました。「きさき」とは皇后のことで「きさきべ」は皇后に仕える人々を指し、それが転じて、きさきべの土地という意味にもなりました。今も、昔の町並みを残す地区と、市役所や交野市駅など新しい市街地区が融合した、交野の中心地となっています。

 光通寺は、南北朝時代に赤松則村が建て、著名な僧、別峯が寺に入り開山となったと伝えられている寺です。
 室町時代には、交野の山間部の領地権を巡って、石清水八幡宮と争いを起こすほど、大きな勢力を誇っていたようです。
 また、室町時代後期から江戸時代初期にかけては、光通寺から毎年朝廷にお茶を献上していたことが「お湯殿の上の日記」という書物に記載されています。このことを裏付けるように、光通寺には、女房奉書(朝廷からの礼状)が残されています。
 江戸時代では、享和元年(1801年)に刊行された「河内名所図会」に「光通寺 私部村にあり。長寿山と号す。禅宗。本尊如意輪観音 座像。開基、別峯和尚。南朝、後村上院の勅願所なり。」とあり、交野の名所となっていました。


住吉神社の大鳥居
 住吉神社は、私部の氏神さまで、戎祭・秋祭りなど行事のたびに多くの参拝者でにぎわっています。ここを訪れる参拝者がまずくぐるのが入口にある大鳥居です。  
 この鳥居は、万延元年(1860年)に造られ、高さ7・27メートル、幅6・67メートルもあり、交野では最大のものです。
 この鳥居ができる5年前、安政2年(1855年)9月に大きな地震があり、前の鳥居は建ててわずか30年しか経っていませんでしたが、無残にも崩壊してしまいました。人々は悲しみに暮れたものの、鳥居の再建にあたっては、より大きなものを計画しました。
 私部集落の東、奈良県へと抜ける郡山街道の中で、最も急カーブで傾斜の大きい場所「大曲」を少し上がると、「鳥居谷」と呼ばれる場所があり、採石跡も残っています。ここから鳥居の原石を切り出しました。
 傾斜のきつい坂道や、北川の土手沿いの道を開き、修羅と呼ばれる台に石を載せ、2〜300人を超える村中の男たちがはっぴ姿で、音頭取りの掛け声にあわせて10センチ、20センチと少しずつ綱を引っ張り、住吉神社までの3キロの道のりを運びました。
 そんな時に力仕事の糧となったのが、つくね飯(おにぎり)でした。機械のない全て人力の時代、石切から棟上げまでに4か月近くかかったと思われます。

 軍書読みとは保元物語や平家物語などの軍記を琵琶法師がふしをつけて聞かせるものです。19世紀のはじめごろ、無量光寺の軍書読みは有名で、多くの人々が集まったといいます。
 無量光寺は、慶安3年(1650年)、本願寺へ本尊となる木仏の安置を願いでました。ところが、下げ渡された木仏の札には「無量寺」と記されていました。そのまま「無量寺」の名をいただくわけにはいかず、改めてもらうように願い出ました。
 しかし本願寺としては第十三世門主の良如上人が筆にした寺号であり、4文字の寺号はあまり見受けられないことなどからなかなか認められませんでした。
 それでも無量光寺と私部村の人々は諦めずに何度も繰り返し「無量光寺」の寺号の正当性を訴え続け、ついに寛文2年(1662年)本願寺に認められ、「無量光寺」の寺号御免の一札が出されることとなりました。

 私部城は、別名交野城と呼びます。交野郵便局東側の台地に、戦国時代の平城の跡が残っています。
 この城の主は安見右近という人物で、奈良興福寺多聞院代々の僧侶によって書き記された「多聞院日記」には元亀2年(1571年)5月12日の条に「久秀父子カタノへ出陣了、安見右近城雖責之不落之由也、如何」とあります。
 久秀とは、大和の戦国武将、松永久秀のことで、このころ、松永勢によって、私部城は攻められるものの、なかなか落ちないがどうしてだろう?といった内容です。
 城の主がその後どのような運命をたどり、この城がどのように落城していったかについては諸説があり、明確ではありません。
 その後の「信長公記」の中に、天正3年(1576年)河内国中の城を破却したとあり、私部城は織田信長によって廃城になったことがうかがえます。

 私部に、江戸時代の旗本畠山家の代官をつとめた北田家住宅があります。
 旗本畠山家は、私部村に1千石あまりを有しており、北田家はその畠山領の庄屋および代官を、江戸時代後期まで勤めていました。
 北田家のルーツは家系図によれば、元々は南朝の北畠家に縁がありました。南北朝合一後、世をはばかって、「畠」から白を抜いて「田」とし、北田を名乗ったとなっています。
 北田家住宅には、約4000平方メートルの敷地内に主屋・表門・乾蔵・北蔵などがあり、国指定の重要文化財となっています。
 北田家住宅でもっとも特徴的なのが、かるたに読まれている表門(門長屋)です。55・8メートルの長さを誇る門長屋は、民家としては日本最長です。高さも2・6メートルあり、馬に乗ったまま出入りができると言われたほどです。

私市地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第3回は私市地区です。
 5月号で私部の名前の由緒について紹介しましたが、私市の地名も私部と同様に、皇后に仕える人々「きさきべ」から生まれました。「きさきべ」が「きさいちべ」と変化し、それがさらに、「きさいち」になったといわれています。


住吉神社の大鳥居
 若宮神社は私市地区の氏神で、私市会館の北側にあります。
 ところが、私市にはもう1つの氏神、天田神社があります。両社はともに、海の神・航海の神とされる住吉の神々を主神として祀っています。
 なぜ同じ神を祀る神社が私市には2社あるのでしょうか。
 「交野町史」によれば、18世紀の初頭に星田・私市村と、奈良県の田原・南田原村が磐船神社を総社としていました。
 しかし、交野の村々の氏子が少なくなったため、両者の間に宮座争い(氏子グループ間の勢力争い)が起こり、解決せず物別れに終わりました。
 その後、それぞれの村が磐船神社の分霊(これがこの当時は住吉の神々でした)を連れ帰り、立派な社を建てて住吉神を祀りました。
 私市村にはすでに天田神社があり住吉神を祀っていましたが、田原から来る人に立派な社を見せるために、新たに村の南側に建てた神社が若宮神社です。
 中世には、住吉信仰が流行し、交野の村々でも、祭神を住吉の神々に変更する神社が数多く出てきました。
 現在も市内で住吉神を祀る神社は、郡津神社・住吉神社(寺地区)・住吉神社(私部地区)・天田神社・若宮神社・磐船神社・星田神社の7社があります。

 月秀山とは、私市の松宝寺の山号です。この寺は、眺望もひらけ、昔から月見に最適と言われたため、この山号となったといわれています。
 「交野町史」によれば、鎌倉時代から室町時代にかけて、獅子窟寺には十二院の末寺があり、その中に松宝院の名があることから、松宝寺は獅子窟寺の末寺の1つで、大坂夏の陣で焼き払われたものが江戸時代に再興され、現在の松宝寺となったとしています。
 境内には南北朝時代に造られた十三重の塔があり、これは私市にある廃千手寺から移転されたといわれています。
 千手寺も獅子窟寺の末寺の1つであることから、塔の移転が行われたのかもしれません。そんな松宝寺ですが、宗派も変わり現在では、獅子窟寺とは無関係になっています。
 明治になって、森地区にある須弥寺の第26代住職の豊原大賢が発起人となり、北河内の寺院巡礼組合をつくり、寺院三十三か所とそれらの寺院を参拝するための宿所を記した木版画を発刊しました。この中に「廿番松宝寺」とあり、各地からの参拝者があったことをうかがわせます。


如意輪観音坐像

聖観音立像
 河内森駅から西側へ自転車駐輪所を左手に見ながら坂をおりて、私市の集落に入っていくと、小さな三角公園があります。今は廃寺となってしまいましたが、ここに千手寺がありました。
 今はこの場所に、廃千手寺収蔵庫があり、市指定文化財の聖観音立像と如意輪観音坐像をはじめ、千手寺と私市の廃蓮華寺の仏像などが収蔵されています。
 土地に残る伝承では、鎌倉時代の後期に亀山上皇が病気になり、獅子窟寺の薬師如来坐像が霊験あらたかであることを熊野権現の霊告により聞きつけ、獅子窟寺に登るための仮の宿所としたのが千手寺の始まりと伝えられています。
 「交野町史」によれば、この付近を「院田」というのは亀山上皇の寄進した寺領田という意味であろう、としています。
 しかし、千手寺の聖観音立像は平安時代後期のもので、亀山上皇の時代より200年ほども古い仏像です。  しかもこの仏像はその素朴な作風から、私市地区で造像された可能性が高いということです。
 もしかすると、亀山上皇の宿所とする前から、千手寺は私市の人々にとって大切な寺であったのかもしれません。  あるいは、私市の他の寺院にあったこの聖観音立像を、亀山上皇行宮という由緒により、千手寺に遷座してきたのでしょうか。今のところ、いろいろと想像を巡らせることしかできません。
 また、もう一つの市指定文化財である、如意輪観音坐像は室町時代の作で、もっとも特徴的なことは、その特殊な木寄せです。
 頭体を別材として、玉眼をはめる寄木造りですが、体の部分はほとんど1本の桧の木から彫り出して、左の3本目の腕までも同じ木から彫り出しています。
 想像するに、由緒のある神聖な料材を用い、あえて主要部をその一材から彫成し、さらに木の神聖さを示すために、木材の風合いを生かす素地仕上げとしたのでしょう。


番外編其之一
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」。第4回は、番外編として地域ではなく、山に関する札を紹介します。
 交野市の約半分を占める山地は東部から南部に屏風のように広がり、緑豊かで市民の安らぎとなっています。この山地は奇岩巨岩が多く、それらを題材にした数々の神話や伝説が生まれ、また修験道の行場として利用されてきました。


         


加藤肥後守拓本
   私市の磐船神社には、高さ、幅とも12メートル以上もある巨岩があり、神社のご神体として祀られています。
 この巨岩は、加藤清正が大阪城の石垣に利用しようとしたが、あまりの大きさに断念したという伝説があります。
 しかし、近年この巨岩のてっぺんに、左の拓本のように、加藤肥後守と石工の名が刻まれていることが分かりました。
 ここで登場する加藤肥後守は、秀吉の忠臣加藤清正ではなく、その息子のことと考えられます。
 そのため、ご神体を運ぼうとしたのは、秀吉の時代より、少し後の時代だと思われます。

 現在の大阪城の石垣も秀吉時代のものではなく、徳川家康が大坂夏の陣より後に諸国の大名から石を取り寄せ、築造したものということが分かっています。
 加藤肥後守にしても、大阪城まで運び出すことができなかったことから、石に名前を刻むことしかできなかったのでしょう。
 ちなみに大阪城の石垣に加工されながら使われなかった石を残念石と呼びます。



御前払神人
 現在、毎年9月15日に京都の石清水八幡宮で行われている石清水祭は、もともと放生会とよばれ、平安時代初期に始まり、中断はあったものの、1100年以上もの歴史のあるお祭りです。
 放生とは、鳥や魚など生きたものを放つ行事のことで、日ごろ人間が生きていく上で、殺生しているものに対する供養の意味が込められています。
 八幡大神は種々の霊を慰めるため、この日に石清水八幡宮の本殿から神輿に乗って山麓の頓宮へ移り、放生川で放生を行った後に、本殿へと戻っていきます。
 神の移動は真夜中に行われ、松明や提灯の明りに照らされた3基の神輿と古式衣装を身にまとった500人もの供を従えてゆっくりと移動する神幸行列は、なんとも幻想的で雅なものです。
 この行列には、石清水八幡宮に縁のある人々が参加してきましたが、交野では、今でもなお、私市地区と森地区の人たちがそれぞれ御前払神人、火長神人として参加しています。

 なかでも、御前払である私市地区の神人は、梅のずあい(新芽の出た梅の枝)を持って、神輿の前の道払いをするため、磐船街道沿いの「梅の木」と呼ばれる場所にある梅の木を切ったと言われています。
 この梅の木は、宇佐八幡宮から八幡へ八幡大神を勧請する時に、道中の杖に梅の枝を使い、それを地面に突き刺すと、芽が吹き出した木であるとする話や、神功皇后が、休憩時に食事をした梅干しの種が成長した木であるといった話が残っています。
 もちろん、これらのお話は伝説ですが、現在も何代目かにあたる御前払の梅の木が新たに植えられています。


 白旗池は、交野山の北の谷をせき止め、湧水を蓄えて造った池で、市内で3番目の大きさを誇り、オシドリの飛来してくる池として知られています。
 かつては、ふもとにある倉治村の人たちにとって生活していく上で、なくてはならない水源地でした。
 かるたの読み札の免除とは、免除川のことです。
 この川は、源氏の滝から機物神社の南を通り、郡津地区と私部地区の間を流れ、さらに長宝寺小学校の南側から松塚地区を抜けて、天野川へと注いでいます。
 免除川は、もともと機物神社から倉治の集落に向けて流れていたといい、たび重なる土砂災害を防ぐために付け替えられたという話が残っています。
 近年の有池遺跡や倉治遺跡の発掘調査により、古墳時代にさかのぼる旧河道の跡や集落跡が見つかっており、中世には灌漑システムを完備した水田域と溝で区画された屋敷地なども発見されています。
 扇状地特有の自然災害と戦いながら生活を送っていた人々の苦労が偲ばれます。


観音岩

 生駒山脈の北方の峰にあたる交野の山並みは、なだらかで優しい表情をしています。
 その中で山の稜線が三角に尖った交野山は、その山頂に遠くからでも確認できる、全高約15メートルもある巨岩があり、交野のシンボル的な山となっています。
 山頂の岩は、観音岩と呼ばれ、岩の表面には聖観音を表す「梵字「サ」(サ)」の梵字が刻まれ、昔から人々の信仰の対象となっていました。
 梵字の下、地表面に近いところには、「寛文六丙午年吉祥日/京都猪熊荒神三寶寺/法印實傳」と銘文が彫られています。

  あんな大きな岩がどうして山頂にあるのだろう、と不思議に思ったことはないでしょうか。
 約8千万年前に、激しい火山活動などの地殻変動により、交野山地の核が出来上がりました。
 その後、ここ50万年の間に隆起や沈降の地殻変動が最も激しくなり、この間に交野山は急速に隆起したものと考えられます。
 山頂の巨岩は、このように断層でせり上がった山頂部が、長い年月の間に浸食作用を受け、花崗岩のうち、脆弱な部分が風化して崩れ去り、硬い岩が残って出来上がったものなのです。


森・私市地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第5回は、森地区と私市地区の天田神社・獅子窟寺です。
 森地区は、私市地区と同様に石清水八幡宮と深いつながりを持っています。石清水八幡宮に残る古文書には、平安時代に石清水八幡宮荘園「交野郡三宅山」と記載があり、森地区の古文書によると、森地区の人々は、この三宅山を守るために交野へやってきたとなっています。


 江戸時代に作成された「須弥寺縁起」によれば、「星田新宮山八幡宮に派遣された神主の森宮内少輔は延久年間(1069年ころ)、石清水八幡宮から迎えられた警固観音を祀る観音堂を再興しました。そこで、村の人たちはこれまで無垢根といっていたこの里を森の里と呼ぶようになった」とあります。
 あくまでも、江戸時代にできた縁起文なので、このことが事実なのかわかりませんが、森地区と石清水八幡宮のつながりがうかがえます。

 天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。
 この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。
 「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。
 しかし、まだ奈良時代にもならない古い時代のことで、あくまで言い伝えによるものであり、これもまたどこまでが史実なのかよくわからないのです。
 平安時代に作成された「類聚三代格」という法令集によれば、弘仁12年(821年)には交野郡の土地は、地味が痩せているため、農民に分け与える耕作地を通常の倍にする措置がとられており、交野郡全体のことでいうと、あまり良い耕作地とはいえなかったようです。


びんずるさん

 びんずるとは、漢字で賓頭盧と書きます。仏陀の弟子の中でも特に優れた16人の高僧「十六羅漢」の一人で、神通力に優れ、人々への説法が巧みだったそうです。
 賓頭盧像が日本に伝来すると、座像が寺の本堂前や外廊下などに安置されるようになりました。
 びんずるさんはお酒好きの仏様で、真っ赤な顔をしているのが普通ですが、ここのびんずるさんの顔には白塗りの跡が残っています。
 この白塗りの顔には次のような話が残っています。
 昔、雨乞いの時に、私市の村人たちは、獅子窟寺のびんずるさんにおしろいを塗って担ぎ出し、鮎返しの滝の滝つぼに逆さにつり下げたといわれています。
 これは村人たちが、「わしはいつも赤い顔をしている事をお釈迦さんに許されている。それがこんな白い顔になって恥ずかしくてたまらない。といってこの顔のおしろいを洗い落とそうとしても、滝の水は日照りのために落ちていない。よし!一つ大雨を降らして滝に水を落として顔の白い粉を洗い落としてやろう」(市史民俗編より)と、びんずるさんが考えるだろうと思って塗ったそうです。
 干ばつに対する切羽詰まった村人たちの思いが伝わるようです。
 かるたに登場するびんずるさんは、獅子窟寺の本堂の中に安置されています。



薬師如来坐像
 

 獅子窟寺は、私市の集落から東、山の中腹にあり、真言宗高野山派に属しています。 本尊の薬師如来坐像は、弘仁期(810〜824年)の作といわれ、ヒノキ材の木彫りで、すぐれた刀痕をその眉などに残し、豊かな容姿は木彫像の技巧の頂点に達したものといわれており、大阪府内で4点しかない国宝の仏像の一つです。

 


 獅子窟寺の参道を登っていくと道沿いに仁王門跡と呼ばれるところがあります。
 ここから山道を左に折れる道へと進むと、それまでの山道から急に広場にでます。
 この一帯は百重が原と呼ばれるところで、獅子窟寺歴代僧の眠る墓所となっています。
 その広場から更に奥へと進むと、周囲より一段高く石組みされた方形の土地の上に、2つの石塔が並んでいるのが確認できます。
 この石塔が「王の墓」と呼ばれる塔で、亀山上皇とその后の供養塔とも伝えられているものです。
 亀山上皇は、獅子窟寺の薬師如来に持病の治癒祈願に訪れたところ、その病が平癒したので喜んで寺の再建を行ったといいます。
 そのため、上皇が亡くなった後、上皇の徳を偲んで供養塔が建てられたのだと、後に江戸時代の書物「河内名所図会」で紹介されています。
 実はこの石塔は、もともとは五つの石が組み合わさった五輪塔と呼ばれる供養塔であったと考えられます。
 五輪塔は、仏教の思想における地・水・火・風・空という万物を構成する五大要素を形どったものですが、王の墓の石塔は、丸い形をした水輪にあたる石が2基とも無くなっています。
 なぜ、水輪が無いのか、王の墓のミステリーといえましょう。

寺・傍示地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第6回は、寺・傍示地区です。寺地区には車塚古墳や寺古墳群など古墳時代中期から後期にかけての古墳が点在します。また、傍示地区は大和国へと続く交通の要で、その道は大和側からは傍示越と呼ばれていました。
 両地区には国指定の重要文化財もあり、交野の歴史を語る上で非常に重要な地区です。



山添家
 寺地区の山添家住宅は昭和44年に国指定重要文化財となりました。
 山添家が建てられたのは、宝永2年(1705年)と、今から300年以上も前の建物です。
 この屋敷の特徴は、その間取りにあります。「田」の形をした4つの部屋にもう一間、東に突き出た角屋(奥座敷)を持ち、重要な会合などで使われました。
 こうした形の住宅は18世紀から河内の庄屋クラスの住宅で流行したもので、山添家住宅は現存する住宅として最古のものとなります。
 また、庄屋クラスの屋敷は、今でいう役所の機能をもったものでした。
 いろいろな会合が開かれたり、村人が年貢を納めに来たりと、多くの人が出入りした場所でした。したがって、広い土地に立派な屋敷を建てることになります。
 今でも、堂々とした茅葺の屋根や土間などは見るものに威圧感を持って迫ってきます。

 

寺の集落から奈良県へと竜王山の山腹を抜けていく山道を、かいがけ(峡崖)の道と呼んでいます。
つづら折れになった登り道を抜けるとそこは傍示の里で、道行く人々の疲れを癒してくれるような石仏に会うことができます。
絵札の石仏は、里からさらに歩みを進めた奈良との県境付近にある傍示共同墓地の入り口手前にあります。
2つの石仏のうち、手前の石仏は「天正地蔵」と呼ばれている天正4年(1576年)に造られた石仏です。
一方、奥の石仏は優しい顔立ちで、親しみを込めて「微笑み地蔵」や「スマイル地蔵」と呼ばれています。この石仏は永禄4年(1561年)に造られています。
 どちらの石仏も像の周囲に逆修の文字が見られ、死後の往生や成仏を願って生きているうちに行われた逆修供養の石仏であることがうかがわれます。
 交野市史民俗編には「土地の人たちは、この微笑み地蔵を『生前どんな人であっても、死んだら笑って迎えてくださるお地蔵さんだ』といっている。だから傍示の葬列は必ずここを通る習わしになっている」と書かれています。


天正地蔵・微笑み地蔵

 交野山の南が旗振山、さらにその南にお椀を伏せたような形の山が竜王山です。
 竜王とは八大竜王のことで、古代インドではナーガという半身半蛇の形でしたが、中国や日本を経て今の竜の形になりました。昔から雨ごいの神様としてまつられています。
 寺村の雨ごいは傍示村と共同で、竜王山の山頂で行いました。「村中不参なし」といって、各家から必ず1人は参加しました。
 参加者は、かいがけの道を太鼓をたたきながら登り、山頂につくと火を焚き、全員で「雨たんぼ、じょおいの、雨たんぼ、じょおいの」と大声で唱えながら、雨ごい石の周りを回ります。
 雨が降れば神様へのお礼に、子ども相撲か、お千度(雨ごい石の周りを千度回る)をします。どちらにするかは、くじで決めたそうです。


  竜王山の頂上に、いばり石という大石があります。
 この石には穴があいており、雷神が小便をかけたので、石に穴があいたのだといわれています。
 また山頂近くには「べんけい岩」と呼ばれる岩があります。岩の西よりにできている足跡らしいくぼみが弁慶のわらじ跡だといわれています。
 昔の人は、なぜ大きな石にこんな跡があるのかと不思議に思い、雷神や弁慶など、超越した力を持った者の仕業として、自らを納得させていたのでしょう。

 傍示とは、もともと「?示」と書き、境目を表す言葉です。大和と河内の国境に傍示の里はあり、この地名は石清水八幡宮領三宅山と興福寺領鷹山庄の境目を示す印が立てられたことに由来するといわれています。
 大和側(現在の生駒市)を「東傍示」、河内側(現在の交野市)を「西傍示」と呼んでいました。
 かるたにある伊丹一族とは、室町時代の末、15代将軍足利義昭に味方して、織田信長と敵対していた、摂津国伊丹城主伊丹親興の一族のことで、信長に攻められ、城は陥落し、親興は自害しましたが、残された伊丹一族の一部がこの地区へ隠れ住んだのが村の始まりといわれています。


郡津・倉治地区編
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第7回は郡津・倉治地区です。
 「郡津」の名前は、この地域に昔の役所「郡衙」があったことからついたと考えられています。
 倉治地区は、倉治古墳群や、国の登録文化財である交野無尽金融株式会社の本社(現在の教育文化会館)など貴重な歴史遺産があります。



明遍寺
 明遍寺の名前は、平安時代の僧侶「明遍」の名前からとっているということです。
 明遍は、12世紀の中ごろに最も権力を持っていた藤原氏の一人、藤原信西の子です。信西は平治の乱(1159年)で殺され、信西の男子は出家させられました。
 その中でも明遍は優秀で、東大寺や高野山で学び、念仏者としても著名で、空阿弥陀仏と呼ばれていました。
 明遍寺は、明遍が高野山から京都に住む法然上人に会うため旅路の休息所として、郡津に小庵を建てたのが始まりだとされていますが、実際には、明遍が法然とひんぱんに会っていたとは考えにくく、言い伝えでの話だと思われます。
 しかし、郡津には京都と高野山を結ぶ東高野街道の休憩所である茶屋があり、高野山に関係のある著名な僧侶たちもここを通った可能性は高いと考えられます。


郡津神社敷地から出土した瓦
  長宝寺は、郡津村にあったといわれる山寺で、享和元年(1801年)に書かれた「河内名所図会」の中には、この寺の本尊は十一面観音像であったと書かれています。
 長宝寺の正確な場所は分かっていませんが、明治の初めごろまで、郡津神社の境内北側に長宝寺という宮寺があり、そこで寺子屋が開かれていたという話が伝えられています。
 また、この寺が廃寺になったときに移されたとされる観音堂と九重石層塔が、先ほど紹介した明遍寺に残っています。
 読み札にある瓦とは、長宝寺があったとされている郡津神社北側の敷地内から発見されたもので、昭和50年代の調査により瓦の欠片がたくさん出土しました。
 これらの欠片のなかには、中世の瓦類のほか、蓮の花を象った蓮華文や、忍冬唐草文とよばれる独特の文様が施された軒丸瓦など、飛鳥時代の古代寺院の屋根に葺かれていたと考えられる瓦がありました。
 残念なことに、長宝寺に関する文献資料は江戸時代のものしかなく、飛鳥時代の古代寺院が長宝寺かどうかは分かりません。
 しかし、この寺院は、渡来系氏族や中小豪族が当時最先端の技術を用いて建てたものであり、郡津神社から見つかった瓦はそのことが伺える貴重な資料です。

 倉治の機物神社に江戸時代に遡る10数冊の「えぼしぎ帳」が残されています。
 「えぼしぎ」とは、武士が元服するときに行う儀式のことで、15歳になった武士の子は、烏帽子親から名前をもらい、幼名から烏帽子名に改めました。
 官途名は、もとは官吏の職に就いた人が名乗った名前でしたが、後に烏帽子名から改めて、成人男子の名前として名づけるようになりました。
 江戸時代には、この名づけの習慣が百姓や町民にも広まり、倉治では、機物神社で烏帽子名と官途名を名づけてもらっていました。
 機物神社に残るえぼしぎ帳には「きち→吉三郎」、「いの→庄五郎」など幼名から烏帽子名に改めた記録や、「庄三郎→庄左衛門」、「半三郎→作兵衛」などの官途名に改めた記録があります。
 この「○衛門」や「○兵衛」という名前は、都の警備を担当する「衛門府」「兵衛府」という役所があり、そこに勤める人につけられた官途名でしたが、後に、百姓や町人であっても、自分に縁のある字に、勇ましい「衛門」や「兵衛」の字をつけるようになりました。



七夕祭り(機物神社)
 機物神社で行われる七夕祭りは、境内いっぱいに立てられた笹に、願いごとが書かれた色とりどりの短冊が彩り、今では市内のみならず多くの人でにぎわうお祭りですが、現在の形になったのは、昭和54年からのことです。
 「河内名所図会」には、機物神社で、7月7日に例祭が行われ、男児1人を選んで祭主にし、祭礼を行ったことが書かれています。
 江戸時代の祭は、現在の七夕祭よりも、祇園祭のようにお稚児さんをたてて、穢れを払うような性格のものであったと考えられます。
 その後、機物神社はお稚児さんをたてたお祭りを、秋の例祭として10月に行っていましたが、江戸時代には7月7日に例祭が行われていたことから、氏子の協力を得て、7月7日に現在の形の七夕祭りが行われるようになったのです。

番外編其之三
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第9回は、酒造りや山林の管理など、交野の生活に関わる話を集めました。



 江戸時代には、米が通貨の役目を担っていました。
各大名の所領や村などは、米の生産量を表す石高でその規模を表し、武士の給料も石高で決まっていたため、米の取り扱いは厳重なものでした。
酒造りは、大量の米を使うため、常に食糧の供給と競合する面があります。不作で飢饉が続くときには、酒造りに多くの米を使うことはできません。
しかし、豊作が続いて米が余るときには、酒に加工した方が貯蔵にも便利であるし、上方や江戸に運搬するのも簡単でした。
幕府がその時々の食糧事情によって米の流通量を調整するため、酒造りは厳しく統制されていました。
江戸時代を通じて、酒造制限令が61回、酒造奨励令が6回発せられましたので、基本的には酒造りは制限されていました。
しかし、酒造りの米価の調節機能とともに、酒蔵からの税収は貴重な財源であり、幕府も酒造りは無視できません。また、東北や北陸の北国では、酒はぜいたく品ではなく、身体を温める必需品であったので、まったく酒造りを禁じるということはありませんでした。
交野でも、酒造統制は行われ、天明8年(1788年)には、私部村の酒造人の理右衛門が大坂町奉行所からのお達しにより、酒造高を三分の一にしました。さらに、酒造りの桶などを庄屋に預け、決められた量以上の酒を造らないようにしていました。
天保年間は全国的な凶作で米不足となり、それが大きな原因となって、天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱がおこりました。
そんな時代にもかかわらず、許された量以上の酒を造ったとして、天保11年(1840年)に、郡津村から2人、私部村から8人、春日・寺・茄子作・長尾の村から各1人の酒造人が召し捕えられました。



 天明8年(1788年)に、星田村在住の吉田屋藤七という人が、交野の砂防について、淀川筋の大坂土砂留奉行に上申書を出しました。 
 上申書には、砂防についての藤七の意見が事細かに記されています。
 その内容は「まず、川筋にあたる山々の下草刈りや落ち葉かきを差し止め、土砂を出しているはげ山には毎年植林させる。さらに、水源から谷の出口までの要所に土砂を止める堰堤を造れば、年々樹木が成長するにつれ、自然に土砂の流出は止まる。土砂の流出が止まれば、川床をさらえなくても、自然に掘れて深くなる」としています。
 藤七は、奉行所からの下問に答えて、再び上申書を提出していますので、藤七の上申書が奉行所を動かしたことが分かります。
 二度目の上申書では、林野管理が荒廃と密接に関連することを指摘しています。
 また、藤七は、技術的な専門知識に優れているだけでなく、下草刈りや落ち葉かきをしている人々への配慮も忘れませんでした。
 下草刈りなどをしている人々は、ほとんどが貧しい農民で、落ち葉かきなどを生計の助けにしているので、上申書の通りこれを禁止してしまえば、たちまち生活が困窮してしまいます。
 そこで、そうした人々に下草刈りなどをしても土砂が流出しない場所を教え、そこから薪や柴をとらせるようにして、さらに砂防工事には貧しい小農民を雇えばよいと述べています。
 また、砂防工事を直接指導する者は、地元の役人を命ずるべきことや、奉行所の上役の巡視は形式的で、住民にとって迷惑であり、工事にも有害であることをやんわりと指摘しています。
 しかし、藤七の上申書の内容は奉行所で取り上げられたにも関わらず実行されず、交野の山では土砂の流出が続いていたようです。
 右の星田村絵図では、絵図の左上部分の山々がはげ山となっています。
 明治15年(1882年)の「山林共進会報告」は、交野の山間部の様子を「山林少なくして、貧民多きが故に、他に薪炭を買求し田園の肥糞をあがなう力なく、ついには他人所有の山林に入りて盗伐をなし、あるいは落葉をかきて、もって炊煙の料にあて、あるいは下草を刈りて耕肥の資をなすの所業あり。あるいは不意の焼失(山火事)あるにしたがい、漸時山林の養分を欠き、土砂の覆蔽を失うにより、ついに現今夥多のはげ山を現出するに至れり。」としています。
 つまり住民が生活に困り、下草や落葉を採りすぎたことが一つの原因となって、治山治水事業にも大きな影響を及ぼしていました。
 今のように、木々で覆われた交野の山が現れたのは、ここ百年ほどのことです。



 交野は京都と大阪の中間に位置し、昔から双方の文化的影響を受けています。
たとえば、森遺跡から出土した平安時代の土器は、京都でよく使用されていたもので、京都との盛んな往来が想像できます。
また、大阪とのつながりは、江戸時代の河内国が大坂町奉行所の管轄となり、加えて、交野の各村領主の蔵屋敷が大坂にあったことから、役人をはじめ、多くの人が公私にわたり往来していた記録が、日記や役所からの召喚状などの古文書に見受けられます。
五里とは約20`ほどの距離で、昔の人にとって、交野から大阪や京都は、徒歩で日帰り往復できる近さでした。
近代になり、京都・大阪と交野を結ぶ便利な交通手段として、鉄道ができました。
まず、明治31年(1898年)に関西鉄道株式会社が四條畷・長尾間の営業を始めました。片町・四條畷間は先に開通していたので、これで大阪の中心部まで鉄道を使って行けるようになりました。
これが今の学研都市線(片町線)の前身です。
昭和4年(1929年)には、信貴生駒電鉄が枚方東口・私市間の営業を開始します。
その後、昭和20年(1945年)には、信貴生駒電鉄は京阪神急行(現京阪電鉄)と合併し、枚方東口・私市間の路線は、交野線と改称し、現在にいたっています。

番外編其之二
 
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第8回は、山や川など、自然にまつわる話を集めた番外編です。
 今回紹介するかるたの「かた野」は、交野市内に限らず、天野川沿いから枚方市の禁野付近の、昔でいう交野が原を意味します。平安京から近く、自然豊かな交野が原は、皇族や平安貴族にとって人気の観光地となっていました。



 交野東部の山々は、大阪府と奈良県の境界である生駒山地に属します。
 この生駒山地の山すその集落間を人々が行きかう道は、山の根元にある道という意味で、山根街道や山の根の道などと呼ばれるようになりました。
 そのため、交野市内を通る道には同様の名前がいくつかあります。
 明治27年の『大阪府茨田・交野・讃良郡役所統計書』に見られる「山根街道」は、私部西4丁目交差点付近から、私部・倉治の集落を抜けて、枚方市に入り、津田・藤阪・長尾の各集落を通り八幡市との境までの道のことです。
 山根街道には、別ルートの「南山根街道」もあります。
 明治36年の『大阪府史』にある、寝屋川市寝屋から、星田・私市・森の集落を抜け、山道を通って、傍示地区にある奈良県との県境までの道が南山根街道です。
 また、江戸時代の学者である貝原益軒が書いた『南遊紀行』には「山の根道」「山根の大道」「山の根すじの大道」などの名前の道が登場します。
 これらの道は京都から紀州高野山に通じる「高野街道」のことだと考えられ、交野では郡津集落から星田集落の北を通る東高野街道がこれにあたります。
 これらの道のほかに、枚方市津田から東倉治・神宮寺・寺・森の各地の古社寺や遺跡を結ぶ道を、地元で「山の根の道」と呼んでいた道があります。

 「あまのがわ」と聞いて、みなさんが最初に思い浮かべるのは、七夕伝説に登場する天の川でしょうか。織姫と牽牛が、年に一度七月七日に天の川に架けられたカササギの橋を渡って出会うという話は、中国伝来の天上界の話です。
 しかし、交野では天野川を挟んで、倉治にある機物神社の織姫の神と、枚方の中山廃寺の牽牛石の牽牛が、七夕の日に出会うという地上の話にになっています。
 天野川には七夕伝説のほかに、中国から伝わったとされる羽衣伝説や、平安時代のプレイボーイ、交野少将と娘の悲恋話などが残っています。
 天野川はこのような恋の物語が生まれるのにふさわしい、美しい川であったようです。


 平安時代の歌人である清少納言は、著名な『枕草子』で、風情ある野について、「野は嵯峨野さらなり(言うまでもない)、印南野、交野、駒野、飛火野、しめし野、春日野、そうけ野こそすずろにをかしけれ(なんとなく風情を感じる)」と記しています。
 「野」とは、人の手がかけられていない広い土地のことを意味します。
 このころは、自然が手つかずで残された土地も多い中で、清少納言が風情のある野として挙げるほど、交野はすばらしい景色だったのでしょう。


 歌や随筆で紹介されていた、交野が原は自然が多く、平安時代の貴族にとって良い狩り場でした。
 枚方市の「禁野」という地明の由来は、ここが貴族たちが狩りをする場だったため、一般の人の「(狩りを)禁止する野」という意味です。
 また、交野が原を流れる天野川の名称から、七夕伝説と結びつけて、貴族たちの遊び心をくすぐる歌の題材となり、多くの歌人や貴族が歌を残しました。
 「またや見ん交野の御野の桜がり花の雪ちる春の曙(交野の桜の散るさまは雪の降るようで、ぜひ、また見たい)」という藤原俊成の歌が、『新古今和歌集』に残されています。


 『太平記』巻2に、「落花の雪にふみ迷う片野の春のさくら狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の夕暮れ」と始まる文があります。
 これは、後醍醐天皇の側近だった日野俊基が、鎌倉幕府転覆を企てたとして捕えられ、京都から鎌倉へ護送される段の冒頭部分です。
 俊基は倒幕の急先鋒であり、護送される途中でいつ殺されても不思議ではなく、道中は悲惨なものであったといいます。
 太平記では、その道行をきらびやかな名文で飾っています。
 交野の春と嵐山の秋、京都の南の交野と北にある嵐山との対比は、その鮮やかな情景が浮かびます。
 この文は、先ほど紹介した藤原俊成の歌を元にしており、当時から交野の桜は、嵐山の紅葉と匹敵するほどでした。


星田地区編其の一
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第10回は、星田地区を紹介します。
 星田地区が昭和30年に交野町と合併する前は、星田村として独立した村でした。今でも市内でもっとも人口の多い地区で、さまざまな歴史や伝承が残っています。


 
 星田の小松神社に江戸時代に作成された「妙見山影向石略縁起」の版木が残されています。
 版木には「弘法大師空海が私市の観音寺(千手寺)で超人的な記憶力を得るために、虚空蔵菩薩求聞持法を修行し、それを習得したときに、仏眼尊(すべての仏を産み出す仏)を見ました。大師はその仏が獅子窟寺の仏眼尊だと思い、獅子窟寺の岩窟に入り、仏眼尊の秘法を唱えました。すると、北斗七星が空から降ってきて、三つに分かれて星田村に落ちてきました。そのため、三宅庄星田村といいます」と記されています。
 星が降ってきた3か所とは、高岡山の東にある星の森、光林寺、妙見山の頂上で、この3か所を結ぶと一辺が八丁(約870メートル)の三角形となることから八丁三所といわれています。
 しかし「妙見山影向石略縁起」の版木は、江戸時代の後期にできたものなので、千年前の昔話を正確に伝えている可能性は低いと言わざるをえません。
 ただ、光林寺の山号は降星山といったり、星田という地名の由来を降星伝説に求めるなど、ロマンチックな星の物語のもととなったものです。

 星田の南側の山間部妙見川の谷をさかのぼり、菖蒲ヶ滝からさらに南へ600メートルほど谷あいを行くと、四條畷市田原と逢阪への分かれ道となります。
 この付近の右側の台地状の高地に平安時代から江戸時代前半まで、小松寺という大きな寺院がありました。
 これは現在、星田9丁目にある日蓮宗小松寺とは異なります。
 江戸時代に作られた『続群書類従』にある「小松寺縁起」によると、小松寺は奈良時代に大地震で山崩れし、堂が谷底に転落して、星田郷の美しい青石で刻んだ石仏が地中に埋もれてしまった、と記されています。
 小松寺は真言宗で、金堂の本尊は弥勒菩薩、根本草堂には十一面観音、建物は金堂と根本草堂のほかに講堂や食堂、僧侶の暮らす建物が67棟など、僧侶120人、児童38人という大規模な寺院でした。
 「小松寺縁起」自体も江戸時代に編集されたもので、その記述を全面的には信じることはできません。
 しかし、平安時代には小松寺が存在していたことは、京都の広隆寺にある資料で確認できます。
 広隆寺の上宮王院の本尊である聖徳太子像の体内に納められている願文の「勝鬘経」奥書に小松寺の名が残されています。
 現在、星田寺にある木造十一面観音立像(市指定文化財)と光明寺にある薬師如来立像はもともと小松寺にあった仏像で、元禄16年(1703年)に小松寺が廃寺になったときに、星田寺と光明寺に仏像が移されたと伝えられています。
 実際に、2体の仏像は平安時代にさかのぼる、市内でも非常に古い仏像です。


 


一里塚跡の石碑(星田)
 京都の教王護国寺(東寺)と高野山金剛峰寺を結ぶ参詣の道を高野街道といいます。
 その中で、河内国の東部を通る街道を東高野街道といいます。
 平安貴族が高野山へ詣でるときは、南都(奈良)の諸大寺を巡ってから行くか、難波(大阪)の四天王寺や住吉大社に詣でてから高野山へ赴くことが多く、東高野街道を通ることはあまりなかったようですが、この街道は高野詣の始まる前から河内国では唯一の南北道で、通行や物資の輸送のために重要な道でした。
 河内の荘園と京都を結ぶ道として、南北朝時代には南朝・北朝両勢力の軍事道路として使用されました。
 江戸時代にできた地誌『河内志』では、東海道から続いて大阪まで下る京街道を「京道」として、東高野街道を「古道」といっており、古くからの道であったことを示しています。 
 一里塚とは、大きな道路のそばに、通行者の目印となるように、一里ごとに設置した土盛りの塚のことです。
 元禄10年(1697年)の星田村絵図(市指定文化財)には高野街道沿いに「一里塚」があり、左の絵図のように、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれています。
現在は、星田駅から枚方市の高田に向かう道の途中に、一里塚跡の石碑が残されています。
星田地区編其之二
 交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第11回は星田地区の寺院を紹介します。
 星田地区には江戸時代から続く寺院が7か所あります。江戸時代は、すべての人はどこかのお寺の壇家にならなければ、今でいう戸籍を与えられず、結婚・就職や引っ越しなどができませんでした。
 人口の多い星田地区に、たくさんのお寺ができたことは、そうしたこととも深く関わっています。

 星田寺の歴史は古く、少なくとも平安時代の後期には存在していたことが古文書などで確認できます。
 江戸時代の星田寺の壇家は、先祖供養をしてもらい恒常的に供養料を支払う菩提壇家とは異なり、何かをお祈りするときに祈祷料を支払う祈祷檀家というものでした。
 そのため星田寺は、定期的な収入を得ることは難しかったようです。



星田寺

 星田寺は星田村の宮寺で、星田神社と一体となっていたため、星田寺と星田神社の両方を星田寺の住職が見ており、その経営はなかなか大変なようでした。
 そのため、星田寺でも祈祷料の他の収入として、富くじを売っていたという記録があります。
 富くじとは、現在の宝くじのようなもので、集まったお金は寺社の建築や修繕のために使われていました。

 
  薬師寺がいつ建てられたのかは明らかではありませんが、最初に市の指定文化財になった薬師如来立像が作られた、室町時代の後期には存在していたと考えられます。
現在の薬師寺は、浄土宗智恩院派ですが、江戸時代には融通念仏宗佐太来迎寺(現在の守口市)の末寺でした。
薬師寺では専従の住職がいない時期が多く、法要などは慈光寺や光林寺の住職が務めていましたが、普段は星田村全体で面倒を見ていた寺といえます。
薬師如来は非常にありがたい仏様で、ありとあらゆる病気を治してくれ、別名を大医王仏ともいいます。
昔は薬師如来にお祈りすることが大切な医療行為となっていて、等身大の大きな薬師如来はさまざまな疫病やけがから村人を守ってくれる心のよりどころとなっていたため、星田村の人たちにとって薬師寺は大きな存在でした。
江戸時代前期の17世紀後半に、幕府は各村にとって重要な寺社を申請させました。
そして寺社の中で重要性の認められたものを「除地」として、正式に年貢の免除が認められました。
星田村で除地として認められたのは、薬師寺・星田寺・光明寺・星田神社でした。

薬師如来立像

千体仏
 
 また、薬師寺の千体仏(市指定文化財)は、室町時代に作られました。
千体仏は現存するものが671体、そのうち同時期に同じ手法で造られた薬師如来が426体、地蔵菩薩が192体あり、その他には、どこか違うところから集められたと思われる仏像がいくつか含まれています。
薬師如来は、現在の病気やけがを治してくれ、地蔵菩薩は願いがかなわず死んでしまった人たちを救ってくれます。
 恐らく、薬師寺の薬師如来と千体仏は、村人たちを守り、それができない場合には供養する目的のために造られたものではないでしょうか。
だからこそ村にとって、無くてはならない非常に重要な存在でした。

 善林寺は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。
 一般的に本堂は南向きに建てられることが多いのですが、善林寺は西向きに建てられています。
 享和3年(1803年)作成の「星田村明細書」によれば、善林寺の創建は戦国時代にまでさかのぼり、創建当初は、枚方の光善寺の末寺だったとなっています。このことから、善林寺の本堂は光善寺の方角に向けて建てられたという、言い伝えがあります。
 また、寛永14年(1637年)に行った検地についてまとめた「河内国交野郡星田村地詰帳」には「中道場」という名が見られます。
 この「中道場」が善林寺の前身で、地元の人たちは、今でも善林寺を「中の寺」と呼ぶことがあります。
 延宝2年(1674年)には西本願寺に願い出て、本尊の裏書きに「河洲交野郡星田村善林寺」と記してもらい、正式に善林寺という寺号が認められました。
 「星田村明細書」によると、善林寺は元禄9年(1696年)に浄土真宗大谷派(東本願寺)へ転じ、その際に西本願寺からもらった宝物類は召し上げられました。
 しかし、後に門徒の家に、正徳年間(1711〜16年)の西本願寺門主寂如上人の御文章を所蔵していたことから、東に転じてわずかの期間で再び西に転じていたことがわかります。
 なお、光善寺は東本願寺・西本願寺どちらに属するか、なかなか定まりませんでしたが、正徳元年以後は東本願寺に属することとなりました。そのため善林寺と光善寺のつながりも徐々に薄れていったようです。

 
星田地区編其之三
交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の最終回は星田地区の札と、かるたの絵札を描いた絵本作家の森本順子さんについて紹介します。


 慶長20年(1615年)、大坂夏の陣のとき、徳川家康は星田村の領主市橋長勝の進言で、星田村の平井家に宿陣し、そこから出陣しました。
 当時、近隣の村は、家康を宿陣させないために、大坂方(豊臣方)によって焼き払われましたが、長勝はそれを予想し、村の守りを固めていたため、星田村は焼き払いを免れました。
 家康が宿陣した日の夜は大雨で、大坂方の夜襲があるかもしれないと、かがり火を焚いて警戒していました。
 翌日も星田に留まっていると、先発隊として出ていた徳川秀忠からの使者が来て、「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向かったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部頭が合戦を始めようとしている」と伝えてきました。
 それを聞いた家康は、「城兵が城を出て戦おうとするか。それではこちらの勝ち戦に決まった」と言ったそうです。
 こうして家康は、星田でゆっくりと過ごし、兵を進めました。



旗掛け松(中央)

 激しい戦の前に、高齢の家康に十分な休養を取らせることができた功績は大きく、この地の守りを固めた長勝には、先見の明があったことが伺えます。
 また、そのときに、家康の旗印は新宮山八幡宮の庭の松に掲げられました。この松が「旗掛け松」と呼ばれ、今も新宮山(星田公園)にあります。残念ながら、当時の松はすでに枯れていて、今の松は2代目です。

神祖営趾之碑
 大坂夏の陣から184年後、長勝の子孫、市橋長昭が星田村を訪れた際に、長勝の活躍を知り、その功績を後世に残すために、家康の宿陣地である平井家に、石碑「神祖営趾之碑」を建てました。
 神祖営趾之碑の建立には、長昭の他に、平井家の子孫の平井貞豊、大久保忠真、安部正精という人物が関わっています。大久保忠真、安部正精はいずれも10万石を超える譜代大名で、後には老中(現在の総理大臣のような職)になるほどの人材です。
 平井家と石碑は今も現存しています。また、石碑は、昨年9月に市の指定文化財となりました。石碑については、「広報かたの」平成22年9月1日号で詳しく説明しています。

 連判状とは、同じ思いを持っている人が、誓約のしるしとして自署し、判を押した文書です。江戸時代の終わりごろ、星田村の若者たちが連判状を書き残しました。
 内容は、日常生活の「諸法度」を村の長老たちに誓ったものです。御公儀の法度(法律)を守る、賭け事はしない、両親を大切にするなど、12条の誓いを記し、末尾に署名して、拇印を押しています。


 1年間を通して「交野郷土史かるた」を紹介してきました。
 かるたには交野の歴史がたくさん盛り込まれていて、私たちの祖先がさまざまな困難や試練を乗り越え、日々の生活を営みながら交野の礎を築いて来た証が、かるたの札一つひとつに記されています。
 みなさんも昔の交野を想像しながら、かるたで遊んでみてください。
 交野郷土史かるたは、文化財事業団と教育文化会館で、1部1000円で販売しています。

 

絵本作家 森本順子さん

 「交野郷土史かるた」の絵札を描いていただいた絵本作家の森本順子さんについてご紹介します。
 森本さんは、1932年に広島で生まれ、13歳の時に広島市内の自宅で被爆しました。
 京都市立芸術大学西洋画科を卒業後、交野市の第三中学校で美術を教えるかたわら創作活動を続けていました。
 1977年に交野古文化同好会と教育委員会が依頼して、郷土史かるたの絵を描いていただき、さらに、1981年に発刊された「交野市史 民俗編」にも50点以上の挿絵を描いていただきました。
 その後、1982年にオーストラリアに渡られ、現在はシドニー市内に在住しています。
 森本さんがオーストラリアでの言葉の通じない生活に苦労する中で、ふと頭に浮かんだのが「ヒロシマ」での出来事でした。
 森本さんは「ヒロシマ」で親友の一人を失っています。その人は被爆後、長い闘病生活の末、亡くなりました。親友の死はもちろん、原爆投下後の町や人々の壮絶な姿を決して忘れてはいけないと、森本さんは強く思っていたそうです。
 そして、1987年に描かれたのが「MY HIROSHIMA(わたしのヒロシマ)」という絵本です。この作品は、オーストラリアのほとんどの小・中学校にあるそうです。この絵本がきっかけで、森本さんはオーストラリアの小学校を中心に、戦争の悲惨さや平和についての講演を依頼されるようになりました。
 また、「Kojuro and The Bears(なめとこ山のくま)」などの絵本で、子ども向けの優れた作品に与えられる賞を受賞するなど、オーストラリアで高く評価され、絵本作家・イラストレーターとして活躍されています。
 「わたしのヒロシマ」は市の図書館・図書室にもありますので、みなさんもぜひ読んでみてください。

「わたしのヒロシマ」
森本順子 作・絵
金の星社
22年度企画展示
おひなさま
と き 3月2日(水)〜3月27日(日)午前10時〜午後5時
※入館は午後4時30分まで。月・火曜日・祝日は休館。

ところ 歴史民俗資料展示室

内 容 市民から寄贈していただいた御殿雛・雛道具・市松人形などを展示します。

問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)
 

 広報紙での交野郷土史かるたの紹介とあわせて、かるた札にちなんだ史跡などへの見学会を行います。歴史解説ボランティアと一緒に、市内の歴史散策に出掛けてみませんか。
と き 3月25日(金)午前9時30分〜正午
コース 星田駅 → 薬師寺 → 善林寺 → 神祖営趾之碑→ 星田寺 → 新宮山 → 星田駅
定 員 先着30人
参加費 100円(保険代)
申し込み・問い合せ 2月21日(月)午前9時から文化財事業団(TEL893・8111)


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