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今月のテーマ:東高野街道沿いの移り変わり
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ボランティア解説員 中光司 |
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カメラが発明されたのは19世紀。当然、大昔には写真などありません。しかし、当時の風景を模写したり再現することで、当時の様子などを伺うことができます。
今回は、古い写真の他に、大昔の交野を描いた絵画をもとに、郡津付近を紹介します。 |
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市役所別館ロビーの壁一面にかけられた大きな絵画があります。この絵画は奈良時代にあった長宝寺と交野郡衙(当時の役所)を描いたものです。
今は両方とも残っていませんが、郡津神社の北の児童公園に「白鳳時代長宝寺遺跡」の碑が、明遍寺の東南隅に「此付近交野郡衙遺跡」の碑が立っています。
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奈良時代の交野を描いた絵画
※絵の中央下手の左側にある大きな建物が長宝寺、その右側の建物が密集しているところが交野郡衙です。
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郡津に交野郡衙が置かれると同時に、条里制という区画制度に基づいて田んぼの区画整理が行われ、私市の天田神社から枚方市の禁野までに一条から十条までの通りがつくられました。その中間の五条通りが郡津小学校付近にあります。
左下の写真は昭和40年代の郡津小学校付近の写真で、田んぼの中を左右に通る細い道を境に太い道の手前が五条通り、奥が東高野街道です。
この場所から東高野街道をさらに北上し、だら池(郡津3)付近で昭和30年代に撮った写真が右下の写真です。写真奥に、今はすっかり見かけなくなった「オート三輪」と呼ばれていた三輪自動車が走っており、なんとも時代を感じさせる写真です。 |
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昭和40年代の東高野街道と五条通り
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昭和30年代のだら池付近
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右上の写真は昭和30年代に京阪電車の郡津駅から東方向を撮影したものです。
奥に大きな円柱状のものが見えますが、これは水道管です。この水道管はこの後、地下に埋められ府道枚方交野寝屋川線が建設されました。地元の人たちは水道管が埋まったこの道を「水道道」の愛称で呼んでいます。
隣の写真は同じ構図で撮った現在の写真です。駅前でも田んぼが広がるのどかな地道だったこの通りも、田んぼはなくなって店舗になり、道路が舗装されるなど、写真を見比べても同じ道とは思えないほど様変わりしています。
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昭和30年代郡津駅前東側
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現在
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昔、松塚近辺は「長淵」と呼ばれていました。このあたりは交野で土地が一番低く、大雨が降ると天野川がはんらんして洪水になり、電車の線路だけが見えているという状態になることがよくありました。
そのため、雨の少ない季節でも一帯は湿地でした。
左の写真は、牛を使って長淵の湿田を耕している昭和30年代の風景を写したものですが、この地域が湿地であったことがよく分かります。
この長淵には次のような悲しい話が伝わっています。
平安時代、交野少将と呼ばれる京都の貴族が交野に鷹狩りに訪れた際に、交野郡の郡司の家に泊り、その娘と一夜を契りました。その後待てども待てども少将はあらわれず、娘は見捨てられたと絶望し、湿地に身を投げ死んでいったという話です。そのときに詠んだ歌が「かつきうるうき身の沫と成ぬとも 誰かはとはん 跡の白波」の歌碑が松塚ふれあい館にあります。 |
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昭和30年代の長淵での農耕
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今回紹介した写真の多くは昭和30年代、交野がまだ開ける前の写真です。同じ場所にいても、そこから見える風景は大きく変わってしまいましたが、道は昔と同じところを通っています。変化するものと変わらないもの。いろいろと見比べてみると新たな発見があると思います。 |
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シリーズで学ぶ交野の歴史
第3回講演会
連続10回の講座です。3回目となる今回は、交野市の古墳についての講演を行います。
と き 6月27日(金)午前10時〜
場 所 倉治図書館2階視聴覚室
講 師 文化財事業団職員
定 員 30人
※テキストとして「北河内の古墳」(300円で当日販売)を用います。
申込み・問合せ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)
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