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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成20年7月1日号

今月のテーマ:河内磐船駅と森村の歴史

ボランティア解説員 寺田政信
 河内磐船駅周辺は、今では、きれいにロータリーが整備され、スーパーマーケットや病院が進出し、マンションもたくさん建っています。
 今月は、河内磐船駅周辺の移り変わりと森村の歴史を合わせて紹介します。
河内磐船駅の移り変わり
河内磐船駅は昭和10年に、国鉄片町線(現在のJR片町線。学研都市線は愛称)の駅として開業しました。当時は、今日のような立派な駅舎などなく、木造の粗末な小屋でした。
 鉄道も複線はおろか、電化もされておらず、石炭だきの汽車やガソリンカーが走っていました。太平洋戦争が激しくなると、燃料がガソリンから石炭へ代わり、その石炭も不足して、割木を燃やして走っていたようです。
 戦後、電化促進運動が盛んになり、昭和25年に大屋晋三氏が運輸大臣になったとき、大臣自ら試乗・視察し、同年12月に四条畷から長尾間が電化されました。その後、54年に複線化も実現しました。
現在の河内磐船駅
昭和48年ごろの河内磐船駅
森鍛冶工房遺跡
複線化に伴い駅舎が整備されると、そこへの市道が整備され、駅の南側、ついで北側のロータリーが完成します。
 特に南側の発掘では、古墳時代の鍛冶炉跡やその道具などが多数出土し、森地区が近畿地方でも大規模な鍛冶遺跡であったことが判明するきっかけになりました。
 古墳時代中頃の5世紀に入ると、この地にも大陸から日本に移り住む人(渡来人)が増え、鍛冶工の技術を伝えました。古代豪族の肩野物部氏が多くの渡来人を招き、鍛冶工房を経営・管理していたものと思われます。鍛冶に使用する素材の鉄は、多くが大陸からの輸入だったため、肩野物部氏の権力の大きさが伺い知れます。
森遺跡鍛冶炉
無垢根から森へ
 南側のロータリーには、交野高校建設時に見つかった車塚古墳群から出土した埴輪を模した短甲形の石碑があります。埴輪の基となったのは、当時の森の鍛冶工が製作していた鉄の短甲だと考えられます。
 この石碑から東へ700mにある須弥寺までを、古代においては「無垢根村」と呼んでいました。無垢とは、汚れのないことを意味しており、この一体が当時、美しい街並みであったことを示しています。
 平安時代に、石清水八幡宮(京都府八幡市)の神官であった森宮内少輔公文が、ここに隠せいした際、荒廃していた須弥寺に八幡宮から観音像を迎えて再興しました。
 そのため、村人たちは森公文を深く敬い、彼の名を取って村の名前を「無垢根村」から「森村」へ変えたとされています。
車塚古墳群出土の短甲(左)とそれを模した石碑(右)
石清水八幡宮の放生会
森村の人たちは、石清水八幡宮の放生会(現在の石清水祭)に、祭りの行列の先頭を赤いちょうちんで照らす役目の「火長神人」として参加してきました。
 平安時代の記録にはすでに、森村からこの祭りに参加していたことが記されています。
 市内には江戸時代の神人の姿を描いた絵巻も現存し、市指定文化財になっています。そこに描かれた人たちの様子と今日の写真を比較すると、行列の様子がほとんど変わっていないことが分かります。
※放生会とは、仏教の不殺生の思想から考え出されたもので、捕らえた生き物を山野や池沼に放つ儀式です。石清水八幡宮では、平安時代初期から現在まで約1100年も続いており、毎年9月15日に行われています。
放生会の行列を描いた絵巻(上)と昭和50年ごろの行列の姿(右)
 現在の河内磐船駅周辺は、大阪の京橋から京都の木津への路線として、京阪電車との連絡駅として、毎日、通勤客や学生でにぎわっています。
 駅前を歩くとき、真っ赤に焼けた鉄をハンマーでトンカチ、トンカチとたたいていた、かつての無垢根村の風景を思い浮かべてみるのも一興かもしれません。

シリーズで学ぶ交野の歴史
第4回講演会

 連続10回の講座です。4回目となる今回は、6月号で紹介した郡津地区の東高野街道沿いを散策し、奈良時代から平安時代にかけて置かれた交野郡の役所跡や古代寺院などを訪ね歩きます。(雨天中止)
と き 7月25日(金)午前10時〜正午
集 合 午前10時、教育文化会館前
講 師 歴史民俗資料展示室解説ボランティア
定 員 30人
申し込み・問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667)
※月・火曜日は休室です。

文化財の新刊図書

販売図書
▽北河内の古墳(300円)
▽交野市の指定文化財(600円)
▽廃小松寺(400円)

販売場所 教育文化会館・文化財事業団

問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)

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