[ホームページ] へ戻る

広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成20年9月1日号

今月のテーマ:神宮寺地区の歴史を訪ねて

ボランティア解説員 中角 甫
 今年の夏は、ことのほか暑かったように思いますが、みなさんはいかがでしたか。
 今月は神宮寺地区の歴史を紹介します。
 神宮寺と言えば「ぶどう」というほど、交野の名産物としておなじみです。しかし、いつからこの場所でぶどうが作られるようになったかを知る人は少ないと思います。

土石流に流された村
現在、ぶどう畑が広がっているあたりに、昔は私部村がありました。
 枚方・交野大和郡山線が、山道から平地になるところに、寺地区の共同墓地があります。その入り口に「上河原旧私部村落遺跡」の石碑があります。
 元禄4年(1691年)、傍示谷に「ほらが吹いて」(土石流)、旧私部村は流されてしまいます。
 関西創価学園からぶどう狩り案内所にかけて続く坂は、土石流の土砂が分厚く堆積してできたものと考えられています。
昭和30年代前半の神宮寺集落
交野山のふもとに広がるぶどう畑
桃からぶどうへ
時代は進み、明治の中ごろまで、一帯は松林でしたが、明治34、35年ごろに、四條畷中学校(現在の四條畷高校)の校舎に用いる材木として切り倒されました。
 残された土地は開墾され、稲田桃という品種の桃が植えられました。
 ピンク色の桃の花が咲く3〜4月頃はとてもきれいであったようで「飯盛山をあとにして、星田過ぎれば津田の里、倉治の桃の色深く、源氏の滝の音高し」と、明治33年に作られた関西参宮線唱歌や地理歴史鉄道唱歌に歌われていました。
 しかし、第一室戸台風での被害や第二次世界大戦中の人手不足、連作による病気の発生などが続き、収穫量が大幅に減少します。
 また、戦時中に食料増産として、サツマイモなどの生産に力を入れたため、次第に桃は、収穫できなくなってしまいました。
 そこで、土質を研究した結果、ぶどうの栽培に適していることが判明。昭和24年の試験栽培を皮切りに、急速にぶどう栽培が広がります。
 現在では、20軒ほどの農家が、主にデラウエアを生産しています。
 毎年7月初旬〜8月初旬になると、看板が大きく掲げられ、家族でぶどう狩りを楽しむ姿が見られます。
現在のぶどう狩りの様子
昭和29年ごろの桃林
集落横を走る蒸気機関車
 
神宮寺式土器
 神宮寺では、昭和31年に槍やナイフなど、2万〜1万3千年前の旧石器が発見されます。
 ついで、32年に、棒を転がして文様を付けた縄文時代の土器が発見されました。
 今から9千年前に作られたこの土器は、地名を取って「神宮寺式土器」と命名されました。
 以後、全国で発見される同文様の土器は、この名前で呼ばれることになりました。
昭和32年に縄文時代の土器を発見
開元寺と岩倉開元寺
 教育文化会館の玄関横には、大きな礎石が保管されています。
 これは、室町時代の書物である「興福寺官務牒疎」に、奈良時代の僧、宣教大師が開いたと書かれている開元寺のものと推測されています。
 集落から、交野山へと続く道には、室町時代に作られた石仏が点在しています。この道は、石仏の道と呼ばれ、その中の5つの石仏は、市指定文化財になっています。
 交野山の山頂には、巨石があり、古代からふもとの人々は、神のいるところとして、拝んできました。
 鎌倉時代になるころ、山の南斜面に大規模な寺院ができますが、これは、開元寺が寺地を山中に移したとされています。山上の岩倉の名をとって、岩倉開元寺と名付けられたようです。道中の石仏群もこの寺院に関係したものでした。
 昭和29年から数年にわたって、この寺院跡の調査が行われた結果、鎌倉時代に火災に見舞われ、室町時代の初めに再建され、戦国時代に再び火災に遭い廃寺となったことが分かりました。
 この寺の礎石も開元寺のものと並んで、教育文化会館に保管されています。
開元寺の礎石(手前)と岩倉開元寺(奥)の礎石
 現在の神宮寺地区は、江戸時代の町並みを残しています。
 その集落を抜け、交野山山頂までの石仏の道沿いは、歴史の宝庫です。今もなお、数多くの文化財が、地中に眠っていることでしょう。

シリーズで学ぶ交野の歴史
第5回講演会

交野の歴史を学ぶ連続10回の講座です。
 5回目となる今回は、市内に数多くある石仏の説明を行います。
と き 9月26日(金)午前10時〜
ところ 倉治図書館2階 視聴覚室
講 師 内田大輔さん
定 員 30人
※テキストとして、交野市の石造文化財1(500円)、同2(600円)を、当日販売します。
申し込み・問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667 月曜・火曜日は休室)

 

TOPへ戻る