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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成20年10月1日号

今月のテーマ:私部地区の歴史を訪ねて

ボランティア解説員 高尾 秀司
  交野は昔、皇室領で、人々は皇后の家来(部民=べのたみ)として組織されていたと言われています。
 その人たちを「私部=きさきべ」と言い、その読みが次第に変化して「きさべ」となり、今も地名として残っています。
 今回は、そんな私部の古い写真を紹介します。

市役所の周辺
 最初に紹介する写真は、昭和30年代後半〜40年代に撮影された、交野市駅から東側を見た風景です。
 まだ、道も舗装されておらず、現在、コンビニエンスストアがある場所は、ふとん店でした。また、「キリン堂」という看板がかかっている建物は、さまざまな商店が入っている「交野トップセンター」という市場でしたが、現在は駐車場になっています。
 通りを奥へ進むと、市役所にたどり着きますが、当時ここにあったのは交野町役場の分室で、今の教育文化会館(倉治)が本庁舎でした。
 左下の写真は、昭和40年代の交野郵便局ですが、今と違って市役所の南側にありました。この郵便局では、郵便業務だけでなく、昭和42年の電話自動化まで、電報電話業務も取り扱っていました
交野市駅から東を臨む(右、昭和30年代後半〜40年代初め。左、現在)
交野郵便局(右、昭和40年代。左、現在)
交野町役場分室(右、昭和41年)と現在の市役所(左)
 
平城、私部城

 交野郵便局の東側に目をやると、少しだけ土地が上がっている部分と、人為的に土地が切り開かれているようなところがあります。
 これは、南北朝時代に河内国守護職畠山氏の家臣、安見氏が築いたといわれる私部城の跡地で、土地が上がっている部分に館が建ち、切り開かれている(切り通し)ところは堀として館の周囲を囲んでいました。また、土塁を確認することもできます。
 しかし、戦国時代の終わりごろには滅びてしまったようで、今では土塁や切り通しなどが、その面影を伝えています。
 築城当時としては珍しく、平地に作られた城で、後世に伝える大切な遺産として残していきたいものです。
私部城跡
右側のくぼんだ部分が切り通し
私部の寺町

 私部城からさらに東へ向かうと3つの大きな屋根が見えますが、これらは隣接して建ち並ぶ「光通寺」「無量光寺」「想善寺」の屋根です。
 光通寺は、臨済宗の寺で、室町時代はじめに創建されました。
 室町時代の終わりから戦国時代にかけて、朝廷に茶を献ずるなど、極めて力を持った寺でした。最盛期の寺域は、私部城と重なる部分が多く、城は光通寺の一部を使って築城された可能性があります。
 無量光寺は、記録によると、かつて、住吉神社(私部)から西へ100メートルほどの場所に、天台宗の尼寺として建立されましたが、焼失し、明応3年(1494年)ごろ再建されました。
 戦国時代には、浄土真宗の寺となっていたため、織田信長が石山本願寺を攻めたときには、本願寺に味方しました。しかし、私部城の安見氏が信長方だったため、寺は焼かれたと伝えられています。
 想善寺は、西山浄土宗の寺です。戦国時代ごろに創建されたと伝えられ、最初は簡素な寺だったようです。江戸時代の中ごろには大きな力を持っていました。その証拠として、大仏師の制作による彩色の千体地蔵尊がまつられています。
 このように、私部城の周辺には寺が多く、寺町とも言えるにぎやかなところでした。
 私部城が落城した後も、3つの寺は、私部の地に根を張り、その周囲は門前町として発展しました。
 そのため、付近には市が立ち、人の往来が多かったので、高札を立てる場所となり、「市場」や「札辻」などの地名が残っています。
隣接して建ち並ぶ寺の屋根(昭和30年代初め)
橋に残る「市場」の文字
 今、私たちがなにげなく暮らしている地域にも、昔の名残がたくさん残っています。
 秋の気配が感じられるこの季節、遠い祖先の生活に出会ってみるのもいいのではないでしょうか。

シリーズで学ぶ交野の歴史
第6回見学会

 交野の歴史を学ぶ連続10回の講座です。
 6回目となる今回は、市内で1番古い時代の神宮寺遺跡と、交野山へ続く山道に点在する石仏を見学します。
と き 10月31日(金)午前10時〜(雨天中止)
集 合 午前10時に教育文化会館前
講 師 歴史民俗資料展示室解説ボランティア
定 員 30人
申し込み・問い合わせ 歴史民俗資料展示室(TEL810・6667 月・火曜日は休室)

 

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