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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成20年12月1日号

今月のテーマ:星田・平井家と徳川家康

ボランティア解説員 寺田 政信
 星田の平井家と聞いて、徳川家康を連想する人は、多少なりとも郷土の歴史に興味がある人だと思います。
 両者は、一つの史実と一つの伝承でつながっています。
 今月は、歴史の転換点を彩ったとも言える、平井家と徳川家康の関係について、レトロ写真を交えながらご紹介します。

星田の平井家
 平井家は、南北朝時代から星田北の庄の郷士で、江戸時代には市橋領の庄屋をつとめていました。
 先祖をたどると、三河の国の地頭職であったことから、同じ三河出身の徳川家とは、古くから交流があったものと考えられます。
 家康ゆかりの家柄であったため、名字帯刀を許され、武士の資格を持つなど、数々の特別待遇を受けていました。
市道星田南線から東を望む。左側が新宮山(右写真、年代不明)。
現在、新宮山は星田公園として整備されている(右写真)

家康が宿陣した史実  

 大坂冬の陣では、和睦により大坂城の外堀を埋めた家康。その4か月後の慶長20年(1615年)5月5日、再び大坂城を攻めるため、京都の二条城を出発し、平服のまま東高野街道を南下しました。
 平井家では、あらかじめ宿陣となることを連絡されていたため、かねてより一町四方(約3600坪)もある屋敷内の、奥書院を修繕して到着を待っていました。
 家康は、洞ヶ峠から河内に入り、午後3時ごろ星田の里正(村長)平井三郎右衛門清貞宅に入り宿陣とします。総大将の宿に平井家が選ばれていることからも、両者の親密な関係が伺われます。
新宮山の旗掛松
 星田に入った家康は、大阪方の夜襲を想定して、かがり火をたいて警戒しました。また、自らの旗印である白旗を、陣の南側、標高65メートルの新宮山山頂にあった八幡宮社の松の大木に高く掲げ、兵士たちを鼓舞しました。
 この松は、「旗掛け松」として有名になり、後に記された「星田名所記」という書物でも、八幡宮社殿の前に旗が掲げられた松が描かれています。
 現在、この場所は星田公園として整備され、山といった雰囲気はあまり感じられませんが、公園内には、明治初年に枯死してしまった旗掛松を記念する石碑が建てられています。
 家康は、宿陣の翌日5月6日には、戦況が自軍に有利に傾いていると判断し、星田を後にします。この戦いは、ご存じのとおり、「大坂夏の陣」と呼ばれ、豊臣家が滅亡し、時代の変化が決定的となります。
星田名所記に描かれた旗掛け松(右)と、
現在星田公園内に建てられている旗掛け松跡の石碑(左)
 
190年後の石碑

 現在、平井家の北西裏には、家康が宿陣したことを記念する石碑が建っています。
 これは、大坂夏の陣から190年が経った文化3年(1806年)に、星田の領主市橋長昭と平井家当主の平井三郎右衛門貞豊が、計画して建立したものです。
 碑文を解読すると、家康が平井家に宿陣した様子が記されています。
 当時の領主市橋長勝は、家康から後方の防備をするようにと命じられますが、防備は家臣に任せ、自分は家康とともに戦場に出たいと申し出て許されます。天王寺・岡山合戦で、徳川方が真田信繁(幸村)に攻められ、大混乱に陥る中でも、長勝の部隊は静粛にして乱れることがなかったので、家康からたいそう賞されたと記され、家康亡き後、二代将軍の秀忠からも優遇され、石高の加増があったとも記されています。
 また、長昭の代になって石碑を建てることになった経緯や旗掛松のことも記され、後世の子孫に先祖の輝かしい業績を伝えたいとする思いが現れています。
家康、宿陣の様子を
刻んだ石碑
「神祖営祉之碑」

 
薮に潜んだ伝承
大坂夏の陣をさかのぼること33年前。天正10年(1582年)6月2日、家康は一大商業都市となっていた堺の見物を終え、京都へ向かっていました。しかし、道中、京都の本能寺にいた織田信長を家臣の明智光秀が討ったとの知らせが伝えられました。このとき手勢わずか30数人。
 信長方だった家康は、身の危険を察知し、自決を覚悟しますが、家臣本田忠勝らの慰留で三河への脱出を決意します。
 このとき旧知の星田平井家を頼って、脱出ルートを検討したと考えられ、その夜は、星田妙見宮の薮に待機して、斥候を放ち、脱出ルートを確認したと伝えられています。星田から木津川を渡るまでは、平井家の従者が道案内したものと推察されます。
 その後、最大の難関であった伊賀上野を柳生一族や服部半蔵らの活躍で乗りきったと言われています。
 この脱出劇は、いわゆる敵前逃亡ですから、それを伝える文章が残っておらず、伝承として推察することしかできません。でも、それはそれで楽しいものです。
 今では、妙見坂小学校の南側にある竹やぶが伝承の場所だということで、「伝 家康ひそみの薮」と書かれた石碑が建っています。
家康が潜んだと伝え
られるやぶ
(真ん中に石碑)
 
 250年近く続いた江戸時代の出発点は、星田の平井家にあったとも言えます。そう思うと、日本の歴史を、私たちの身近なものに感じてきませんか。

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