「私市の石仏さん(2)」
交野歴史民俗資料展示室  ボランティア解説員 村田義朗
今年も暑い夏がやってきました。今月は山の涼を求めて、私市駅から天野川をさかのぼって上流の磐船峡に伝わる神話の世界と磐船神社の石仏を紹介します。
哮ヶ峰
 私市駅から磐船街道(国道168号)を生駒方面へ少し行くと、「星の里いわふね」に着きます。
 施設の前の橋を渡り、川沿いの道を登ると、「ほしだ園地・星のブランコ」へのハイキングコースになります。心地よい川風にあたりながらゆっくりと40分、森林鉄道風歩道橋の歩道を過ぎるとほしだ園地の入り口「ピトンの小屋」に到着します。
 ピトンの小屋から北の方角に見える切り立った崖が「哮ヶ峰」です。この峰はかつての石切り場であったところで、現在はすぐそばにロッククライミングウオールが設置されています。
 平安時代の記録には、大昔、物部氏の祖先である饒速日命が磐樟船に乗って天から降りてきた場所だと伝えています。
磐船神社の御神体
哮ヶ峰から磐船神社へは、磐船街道を歩くこともできますが、星のブランコで空中遊泳を楽しんだ後、木立の中をゆっくり磐船神社まで回るコースをおすすめします。
 磐船神社周辺には、多くの巨岩が露出しています。磐船神社では、そのうち一つを御神体としてまつっています。
 御神体は、幅18・、高さ12・もあり、神殿に覆いかぶさるように船首を南に向けて座しています。
 船の形をしているところから、饒速日命が乗って来た磐樟船として古来から崇拝されています。
御神体の銘
この御神体の上面には、「加藤肥後守 石切 アイリ・・・」と銘文が彫られています。豊臣秀吉が大阪城築城の際、加藤清正が石屋に命じて岩を割ろうとしたところ、岩から血が流れ出したため、思いとどまったと伝えられています。
 しかし、加藤清正が肥後守となるのは1603年になってからのことで、実際には江戸時代になってからの話でしょう。
四社明神
 御神体の巨岩の東側には、四尊磨崖石仏(四社明神)が彫られています。幅2・2・、高さ1・09・の彫り込み内に、向かって右から地蔵菩薩坐像、阿弥陀如来坐像、十一面観音坐像、勢至菩薩坐像が並んでいます。
 この磨崖石仏は、南北朝時代の作だとされています。平安時代以降、交野地方が京都の皇族や宮廷人の遊狩場・歌所となったところから、歌の神であり航海の神でもある住吉四社明神をまつる神社となったようです。
 四社明神の南(川の中)の大石に柱の跡が見られ、昔は四社明神からこの大石まで屋形が突き出ていて、ここから御神体の巨岩と四社明神を拝んだのでしょう。
 今は対岸から拝観するしかありませんが、早朝、木漏れ日が降り注ぎ、水辺の光にきらきらと輝いて見える四社明神は、なんとも神秘的な雰囲気で、「あぁ、美しい」「あぁ、ありがたい」と思わず感動の声をあげてしまいます。
不動明神王石仏

磐船神社の鳥居をくぐった西側(左)の大岩に、仏高1・23・の不動明王が刻まれています。この不動明王は、右手に剣、左手に羂索(5色の糸でつくる縄状の仏具)を持ち、火焔を背に怒りに満ちた顔立ちでどっしりと立っておられ、いかにも仏敵は、ことごとく蹴散らしてやるぞといわんばかりのお姿です。
 切り込みの右側に「交野郡住吉大明神関白大蔵坊」、左側に「天文十四年(1545年)十二月吉日法印清忍」と確認され、室町時代後期の作である事が分かります。
 磐船神社は、岩窟めぐりが有名な神社です。
 真っ暗な岩窟で宇宙からの気を感じとる修験道の修行の一つ「岩窟めぐり」を、みなさんも体験してみてはいかがでしょうか。
 また、7月7日(土)は、夕方から、今回の出発地である私市駅から私市水辺プラザの周辺で「天の川七夕まつり」が開催されます。
 明るいうちにハイキングがてら石仏をめぐり、暗くなったら天野川に映る竹灯ろうを眺めながら、古代の人々の天空への思いに夢をはせてみてください。

第1回石仏さんツアー 

5月23日(水)、実際に石仏を訪ね歩く、歴史民俗資料展示室主催の「第1回石仏さんツアー」が、24人の参加で行われました。
 講師の平田政信さんの、ジョークを交えた軽快な解説のもと、かいがけ広場の石仏さんやスマイル地蔵さんを訪ねました。参加者には古文化ファンも多かったのですが、多くの新しい発見に目を輝かせていました。
 「第2回石仏さんツアー」は、9月開催予定です。